母の記憶 籠の中のカナリア
父に執務室に呼ばれるたびに、母が死んだ日を思い出す。夏頃だったはずなのに、コルネリアの記憶の中では、とても寒くて、手足が震えていた。コルネリアが5歳で、レオノーラが1歳の時に母が死んだ。5歳頃の記憶では、母はとても美しい人だった。なんの病気かは知らなかったが、いつも苦しそうに咳をしていて、ほとんど会うことは叶わなかった。母の手はとても白くて、冷たかった。生きている頃から、死んでいるように冷たかった。
父は、そんな母を大切にはしていなかった。会っている様子はなかったし、母も父に会いたがっている様子はなかった。父は、母の爵位を目当てに結婚した。母は、父の庇護を目当てに結婚した。だから、おとぎ話のようにはならないのだと、ドナテッラは小さいコルネリアに言った。小さなレオノーラにはおとぎ話のように語った両親を、コルネリアだけには現実的に教えた。その頃から、自分には現実を、レオノーラには希望を、皆が与えるようになっていた。
「コルネリア、ラウロくんの訪問を拒否しているというのはどういうことだ」
「……誰が?」
「誰が、告げ口したかは問題ではない。お前が、ラウロくんを拒否していることが問題だ!」
コルネリアが個人的に支援している教会に、ラウロが現れた日から、訪問を拒否していた。私室にすら入れたくないラウロに、あのような行為をされたことが、不快だったからだ。
「お前の不満は分かる」
「どう、お分かりになるというの?」
父親の適当な共感に、今や、苛立ちも感じない。昔は、この曖昧な共感が嫌いだったが、今はどうでもいい。母が死んだ時、父は、たった5歳のコルネリアに、この屋敷の女主人の役割と、2人の兄妹の母親役を求めた。コルネリアは、最初は懸命に応えた。その結果、ゆがみが生まれたことに、父親はいまだ気づいていない。だから、末娘を甘やかすことをやめない。
「お前が、オズヴァルド殿を慕っていたのは知っていた」
「そう、知っていらして、この所業なのね」
「お前だって、望んだことではないか。レオノーラを一番に考えることを」
「一体、いつのお話をされているのかしら」
コルネリアは、退屈な話に、いつまでも付き合っていられなくて、踵を返そうとする。しかし、父はそれを許さないかのように、椅子に腰かけるよう手で促した。
「何が、それほど不満なんだ。ラウロくんは、この国で一番、金を持っている。正直に言えば、我が侯爵家よりも数段、金がある」
「お金があることが全てではない」
「なに?」
「それを、ご存じだから、カロージェロ家を選んだのでしょう?それを、ご存じだから、レオノーラのわがままをお許しになったのでしょう?」
母は、侯爵家が斜陽であることを知っていた。だから、庇護を求めて父を頼った。父は母の期待通り、侯爵家を盛り返し、権力と金を取り戻した。でも、母は幸せだっただろうか。父が来て、格段に豊かになった侯爵家で、宝石やドレス、美術品に、化粧品、たくさんの物に囲まれていたけれど、結局健康は得られなかったし、死ぬときにはひとりだった。
母は、お金というもので、幸せにはなれなかった。父は、それを知っているのだ。だから、レオノーラのわがままを許した。だから、レオノーラを愛情で結びついた相手と婚約させるに至ったのだ。
父は、気の毒な人だった。誰かに何かを与えるのに、一方から奪わなければ与えることもできないのだから。妹に与えるために、姉から奪い取ることでしか、与えられない。母に、お金を与える代わりに、信頼や愛情を奪い取ったように。
「コルネリア、お前の幸せを考えなかったわけではない。金があることは、確かにすべてではないが、時としてそれが全てになりうるものでもある。金があれば、選択肢を持てる。お前は与えられなかった選択肢より、これから得られる選択肢に目を向けるべきだ」
父は、机の上の本を数冊、滑らせるようにコルネリアに見せた。
「これを、読んで嫁いだ後のことをしっかり考えなさい。自分の身の振り方で、お前は自分を幸せにも不幸せにもできる。婚約者への愛などという一時の感情さえ、加味しなければ、お前は、いくらでも幸せになれる」
商いや経理についての本、数冊を手に取って、コルネリアは微笑んだ。それは、父親に見せるにはあまりに冷え切った微笑だ。
「私は、その一時の感情で、今までの努力をふいにされたという訳ですわね」
立ち上がり、数冊の本は、近くに控えていたデボラに渡す。この本が、何の役に立つというのだろうか。今まで学んだ領地経営について、何一つ役立たなくなったように、この本はきっと、コルネリアを助けはしない。
わざとらしく、慇懃無礼にカーテシーをして、コルネリアは今度こそ、扉を目指した。少し低い踵をわずかに鳴らす。この足音が、行く先は、どこなのだろうか。コルネリア自身にもよくわからなかった。




