愛の伝説 女王の三角
ラウロは、気が狂いそうになりながら、左手を開いたり閉じたりしていた。1週間に1度の頻度は守れていないけれど、それでも平均して2週間に1度は絶対に会うようにしていたが、コルネリアと2人になるチャンスがない。デボラのほかに、もう一人、レディ・メイドが付いてしまったせいで、コルネリアと2人きりになるチャンスがなくなった。
ウェディングドレスの試着の際から、そうだったから、しばらくはこの2人が仕えるのだろう。アンティークのウェディングドレスは、降嫁したと言っても認知もされていない庶子であった曾祖母が、王室で作った伝統あるもので、シンプルだが贅も尽くされている。羨ましがるレオノーラに対して、古臭いと言ったコルネリアの感覚を責めるのは、良くないことだと分かっていた。コルネリアにだって好みがあるにもかかわらず、そのウェディングドレスを着せると決めてしまったのだから。私室に入れることすら嫌がられて、部屋の隅に立たされ続けたラウロを、ティーノは憐れんでみていた。
レオノーラにお義兄さまと呼ばれて、戸惑っている間に、コルネリアは着替えを始めたらしい。気になっている女性が衝立の向こう側で着替えている状態を、部屋の隅で立たされたまま聞かされるのは、ある種の拷問だ。そのうえ、コルセットを締めているのか、小さな吐息が聞こえるのだ。肌が粟立って、妙な汗が出始めたころ、着替え終えたコルネリアが出てきた。ラウロを一瞥すると、今までにない、冷たい、責めるような視線を向けられた。今日という今日は、自分にも原因があるため、ラウロは何も言えずに、その場に立ちつくしたまま、しばらく放置された。隣で一緒に立っていたはずのティーノも、「今のは、ラウロ様が、悪いですよ。」と言って、客間のソファに悠々と座った。反省させられている子どものように、ラウロは一人で立つ羽目になった。
それ以降、なかなか、2人になるチャンスがない。花束を持って行って、1人引き離せても、もう1人は無理だ。知恵を絞ったが、なかなか2人になれない。そうすると、あの時のようなことは、なかなか起こらない。コルネリアの真意すら分からないが、分からない状態で構わないから、もう一度、奇跡が起こってほしいと願っていた。
コルネリアと2人きりになるチャンスを捻出するために、ラウロは、人気のオペラのボックス席のチケットを大枚はたいて手に入れた。『愛の伝説』は、この間、舞踏会で、コルネリアが見たいと言っていたオペラだ。だから、絶対に来てくれるだろうと期待して手紙を出した。返事は、父が行けと言っていますので、というもので、手紙ですら非常に冷たかった。コルネリアが初めてくれた手紙なので一応とってあるが、ものすごく冷え切っていて、二行しか書いていなかった。
馬車の中は、案の定、会話はない。最近、バルベリーニ侯爵の言いつけもあって、プレゼントは受け取ってもらえるようになったが、もちろん、身に付けてもらえてはいない。かつての婚約者だったオズヴァルドに貰ったのだろう、オズヴァルドの色のアクセサリーを身に付けていた。
ここまでされるとラウロも、ご機嫌を取るような会話をしようという気になれない。付いてきたレディ・メイドも、雰囲気の悪さに、居心地悪そうに何度も座りなおしている。今日は、ボックス席が小さいことを言い訳に、1人だけしかレディ・メイドを連れてこさせなかった。最近つくようになったレディ・メイドが、また居心地悪そうに座りなおした。
一言の会話もなしに、オペラハウスに着いてしまった。ラウロも、正直、居心地は良くない。馬車を降りる際も、手を貸そうとしたが、無視されてしまった。
「2階の舞台に一番近いボックス席です」
「……はい」
ラウロの言葉に、返事をしないコルネリアを見かねて、レディ・メイドが、答えた。どうやら、このレディ・メイドにすら、ラウロは憐れまれているらしい。
「暗いから気を付けてください」
オペラハウスは昼間の公演とはいえ非常に暗い。蠟燭がたくさん灯されているとはいえ、黒いカーテンで仕切られているため、何もかも見えづらい。ボックス席は特に、人目につかないように作られている。ここに、愛人を連れてくる貴族がたくさんいるからだ。そこまで、想像して、コルネリアに愛人を作るよう勧められたことを思い出してしまった。ついでに、コルネリアも愛人を作るつもりだと言われたことも思い出す。どうせ、エスコートの手は断られるだろうと思って、暗いボックス席に一人で入った。後に、コルネリアも続いて、そして小さく悲鳴を上げた。
「お嬢様?」
「暗くて、椅子に手をぶつけたみたい。」
手袋が白く浮き上がる程度には暗いが、そんな不作法をコルネリアがするとは思い難い。右の手袋を、コルネリアが外す。白くて華奢な手が、妙に浮き上がって見えた。ぶつけたことは本当らしく、わずかに赤い。
「お嬢様、殿方の前です」
手袋を外したことに対して、レディ・メイドが、注意をしたがコルネリアはあまり気にしていないようだ。ラウロを男と認識していないのかもしれない。
「でも、痛いわ。赤くなっているし、腫れているかも」
「……冷やした方が、良さそうですね」
「ジータ、何か冷やすものを貰ってきてくれないかしら」
「ですが、お嬢様。お2人きりにするのは」
「でも、このままでは腫れてしまうかも。腫れが残ってしまうようなことがあったら、困るわ」
傷ものになったら、責任とれるのか。そう言外に脅しているようだった。ジータと呼ばれたレディ・メイドは、かなり迷って、ラウロを睨みつけてから立ち上がった。絶対に不埒な真似をするなと釘を刺された気がするが、ラウロは軍人と見紛うコルネリアに何かできるほど、胆力はない。ジータが離れた瞬間に、コルネリアは、ラウロの方に顔を向けた。ラウロは、エスコートしなかった自分の失態を責められている気がして、顔を引きつらせる。
「……大丈夫ですか?」
大丈夫だとお思いですか?という答えが返ってくるだろうと思ったが、コルネリアは唇を閉ざしたままだった。暗い中で、目が慣れてきたから、コルネリアの表情は分かる。本当に痛いのか、わずかに目が濡れて見えた。
あ、やばい
まだ何も起きていないのに、語彙力がすでに無くなり始めている。コルネリアは、その冷たい美しさを際立てる真っ赤な紅をひいた唇をほんの少し開けた。
「痛いですわ。もしかしたら、爪が割れたかもしれないわ。見て下さらない?」
すっと、手が伸ばされた。ここしばらく、与えられていなかったものが目の前に差し出されている。砂漠で一滴の水を与えられたようで、目の前がちかちかした。
ラウロは、迷ったが、同時に時間がないと思った。レディ・メイドが戻るまで、そう長い時間はない。この手に直接触れられるのは、次はいつになるか分からない。赤くなった指先を避けて、ラウロは両手で恭しく、その手を取った。指の一本一本を丹念に撫でて、形を確かめるようにする。一国の女王に接するように、丁寧かつ礼儀正しく触れていく。蝋燭の火のせいか、ボックス席が暑く感じて、汗が噴き出した。そう思っているのは、ラウロだけらしく、コルネリアは表情一つ変えない。そろそろか、ラウロが手を離した瞬間に、コルネリアが、手を追いかけてギュッと握りしめた。また、指と指の間に、コルネリアの華奢な指を感じる。しかも今度は、布越しではなく、素肌だ。
やばい、本当にやばい。
素肌が、触れてるところ、熱い。
これ、なんだ。
微笑みとか、指先とか、全部やばかったけど、今回もやばい。
また、ひとしきり語彙力がなくなって、ラウロは自分からも思わず手を握り返してしまった。
しばらく握り合っていたが、コルネリアが手を離す。思わず追いかけそうになったが、ぐっとこらえて手を握りこんだ。
「お嬢様、持ってまいりました」
冷たい氷嚢を抱えて、走って戻ってきたのだろう。コルネリアの手を取って、それを指先に触れさせる。もちろん、ハンカチで包むことは忘れていない。それと同時に、ジータは、ボックス席という密室で、不埒なことがなかったか、確かめるように視線をせわしなく動かしていた。コルネリアは、いつもの冷たい雰囲気を纏わせていて、何もなかったかのように振舞っている。自分もそれに倣う必要があるのは分かっていたが、なかなか心臓が鎮まらない。ジータに顔を見せないように、舞台側に不自然じゃない程度に、目を向けた。ジータにはきっと、婚約者の怪我の原因にも関わらず、興味を向けない薄情な男に見えたことだろう。