春の妖精 夜の王子様
バルベリーニ侯爵に手紙で呼び出された時から、なんとなく嫌な予感がしていた。
ラウロ・デル・コルヴォは、バルベリーニ侯爵家の客間にいる人間を順番に見ていく。バルナバ・バルベリーニは現侯爵の地位につく、恰幅のいい男だった。南北に長いロスティヴァレ王国の南の地方の出身者に多い、黒い髪を後ろに撫でつけている姿は、見るものに圧迫感を与える。
実際、ラウロは、侯爵が苦手だった。
自分の婚約者であるレオノーラ・バルベリーニ嬢は、二人掛けのソファに座っていた。金の髪に同系色の明るい瞳、大きな目は少し幼さを感じさせるが、魅惑的な体型は彼女が大人であることを主張していた。そのアンバランスさが、バルベリーニ侯爵の次女・レオノーラが社交界の花と呼ばれるゆえんだろう。くるくると変わる表情も、微笑ましい言動も、男心をくすぐるが、今は、ほんの少し不安そうに目を伏せている。
その隣に立っているのが、コルネリア・バルベリーニ嬢だった。少し釣りあがった目は、侯爵と同じ南方の焦げ茶色、髪は妹よりは暗い金色だ。気の強い女性なのだろう。じっと、侯爵を見つめている瞳は、冷え切っていて、親子関係が決していいものではないことが伺えた。義理の姉にあたるコルネリアも、ラウロにとっては苦手な分類に入った。愛らしい容姿のレオノーラとは違う。スレンダーといえる体型も、きりっとした目元も、ピンと伸ばされた背筋も、コルネリアの芯の強さを体現しているようだった。ラウロが、コルネリアを苦手とする理由は、その容姿ではない。婚約者であるレオノーラと会うために、屋敷を訪れれば、時折コルネリアと遭遇することがあった。そのたびに、コルネリアは、とても丁寧にラウロに接するが、その目はいつも冷たかった。今、侯爵を見つめる視線が0℃だとすると、ラウロに対しては、氷点下なのだ。
嫌われている
ラウロは、コルネリアのその視線にいつも顔が引きつりそうになった。なぜ、嫌われているのか皆目見当はつかなかったけれど、訓練された貴族の仮面から覗く瞳は、完全にラウロを嫌っていたのだ。
ノックの音がして、遅れて入ってきた男は、慌てて来たのであろう、わずかに汗をにじませていたが、その姿でさえ、洗練されている。オズヴァルド・カロージェロは、金髪碧眼の整った顔立ち、恵まれた体型、歯が浮くような宮廷言葉もその唇が語ると、吟遊詩人の言葉にすら聞こえる、腹の奥底に響くような声で、女性たちを虜にする。領地を持たないラウロとは違って、先祖代々領主として生きてきたカロージェロ伯爵家の長男であるオズヴァルドは、社交界でも引く手あまただった。バルベリーニ侯爵が、とっくに、粉をかけていることを知らず、たくさんの女性が、玉砕していった。ラウロに冷たい視線しか投げかけない、コルネリアも、自分の婚約者には微笑を浮かべるし、少し浮いている汗をハンカチでぬぐっていた。
あのコルネリアが微笑み、頬を染めるというのは、よほどの男である証だった。自分の冴えない容姿もコルネリアに嫌われるゆえんだろうか。レオノーラは、ラウロの冴えない容姿ですら褒めてくれる天使のような娘だったが、自分のことは分かっているつもりだった。黒髪は、侯爵と同じ南方の出身である父に似たが、白い肌の色、緑の瞳、線の細さは北方出身の母に似た。野性的な南方の男、洗練された北方の男、そのどちらの良いところも引き継げなかった中途半端な自分。領地もなく、魅力もなく、宮廷での地位もない自分が、侯爵に選ばれた理由は、ひとえに財力だ。領地がない貴族であるデル・コルヴォ家は長く商家を営んできた。スパイスや砂糖、造船、製糸、服飾、鉱山、鉄道、建築なんでも扱うデル・コルヴォ商会は、巨万の富を得ている。最近、新たにラウロが始めたご婦人向けのバラの化粧品事業も軌道に乗り始めた。商人のように働く卑しい伯爵家というのが、社交界でのデル・コルヴォの評判であるが、野心的で金と権力を愛するバルベリーニ侯爵の前では、デル・コルヴォ家の長男である自分は金塊でしかない。
「忙しいところ、悪いな」
「いいえ」
バルベリーニ侯爵の一言に答えたのは、オズヴァルドだ。この部屋で、ラウロの発言権は壁に張り付いているハウスメイドより低いので、返事はせずに婚約者の隣に座っていた。バルベリーニ侯爵は、金塊であるラウロに感情や意見があるとは思っていない様子だ。ラウロは、バルベリーニ侯爵と対立することで、商会の仕事に差しさわりが出ることが嫌で、常に諾という返事しかしてこなかった。
「今日、集まってもらったのは、他でもなく婚約のことだ。」
オズヴァルドとコルネリアは5年も前に婚約しており、半年後に結婚することになっている。幼いころから互いの家を行き来して幼馴染ともいえる二人の仲睦まじい姿は、ちょくちょく見かけていた。一方、自分とレオノーラは、1年前に婚約し、1年後に結婚する約束となっている。レオノーラは、天使のように愛らしくて、ちょくちょく贈り物をすると、嬉しそうに次の贈り物をねだってくる。その愛らしさに際限なくなりそうになってしまうのが、目下の悩みだ。その婚約のことで、忙しいバルベリーニ侯爵が、わざわざ4人を集めるとは。手紙を受け取った時に感じた、嫌な予感が、よぎった。
「コルネリアとオズヴァルドの婚約を破棄する」
「え?」
「オズヴァルドには、レオノーラと婚約してもらう」
婚約者の近くに立っていたコルネリアは、その釣り目をさらに釣り上げた。ラウロも寝耳に水過ぎて、危うく、立ち上がりかけた。
「どういうことですの?お父様」
「そのままの意味だが?」
「半年後には、私とオズヴァルドは、結婚するのです。式の準備も進んでいて、あとは宣誓するだけで」
「なら、そのままレオノーラに譲りなさい」
もし、ラウロが、コルネリアの立場だったら、怒り狂うかもしれない。あろうことか、オズヴァルドが、ソファに座っているレオノーラの手を取ったからだ。レオノーラは可愛らしく微笑んで、その手を握り返す。もしや、以前からという考えがよぎったが、それよりもこの混沌とした客間の空気をどうにかしたい気持ちが強くなった。コルネリアは、いつもラウロに向ける視線を父親に向けていて、しかも怒りのあまりか、手が震えている。
怖すぎる
ラウロは、どうしようか迷って、とりあえず元婚約者となりつつあるレオノーラの隣に座っているのは良くないと立ち上がった。この様子だと、レオノーラとオズヴァルドは承知済みで、知らなかったのは、自分とコルネリアだけということのようだ。
「御覧の通りだ。コルネリア、察しなさい」
「お姉さま」
愛らしい唇が、コルネリアに呼びかけたが、コルネリアは返事をしなかった。おそらくは、以前から自分の婚約者と妹が恋仲と呼べる関係にあったことを察しろと言われても、コルネリアは許せるはずがないだろう。あの態度から見るに、コルネリアは、オズヴァルドのことを慕っているようだったし、ついさっきまで、王子様もそれに応えているように見えていた。
「なら、私は?」
「お前は、ラウロくんと、結婚しなさい」
「え」
今度こそ、ラウロの口から、言葉が飛び出てしまった。その瞬間、侯爵とコルネリアの視線がラウロに向いた。ラウロは必死に何も言っていないふりをしたが、先ほどから部屋を凍らせるほどに冷たい雰囲気を放っていたコルネリアが、それより数段冷たい氷河期も驚くような視線をラウロに向けてくる。ラウロは血の気が失せそうになって、自分が令嬢だったら失神するという現実逃避ができるのにと思いながら、なんとか、婚約者になるらしいコルネリアに近づいた。一定の距離に近づくと、コルネリアが一歩下がった。
これ以上、近づくな
明確なメッセージに、ラウロはそこで止まることを選んだ。嫌われていることは知っていたが、ここまであからさまに、行動されたのは初めてで、地味に傷ついた。
「ラウロくんは、構わないね?」
初めて、ラウロの意志を確認してきたが、これは確認ではなく決定事項なのだろう。そもそも、前もって連絡も相談もなかったことを考えると、デル・コルヴォ家が了承することは侯爵の中で絶対なのだ。両親も、天使のように優しく愛らしいレオノーラを歓迎していたので、かなり残念がるだろう。だが、デル・コルヴォ家からすると、バルベリーニ家と縁ができれば、それでいい。だから、姉妹どちらと結婚しても結果は同じになる。
ラウロ自身は、正直、残念だなとは思った。可愛くて、天使のような妻を得られると思っていたら、完全に嫌われている女性を妻にしなければならなくなったのだから。だが、できれば、仲良くなりたい。普通の家庭を築きたいと思ってきたラウロにとっては、レオノーラは、割と理想的だった。可愛くて、天使で、少し単純だったからだ。たぶん、コルネリアはそうはいかないだろう。
「はい、もちろんです」
そう答えた瞬間、コルネリアの目は一層釣りあがった。何か言わねば、何か言わねば、背筋に嫌な汗が流れて、ラウロは上滑りする思考の中で、やっと言葉を見つけた。
「残り物同士、仲良くしましょう」
「…………」
本日、初めてコルネリアと視線があったが、自分の言葉がとんでもなく間違ったものであることが、ラウロにも分かった。前言撤回できるなら、したい。
コルネリアの視線に耐えかねて、絨毯の柄を眺める作業に移ってから、すぐ、婚約の宣誓書にサインした。もちろん以前したものは、侯爵に暖炉に捨てられた。