蜜柑 松子の恋
夫は、ついぞその小指の指輪は抜くことなく逝った、遺された妻は流石に葬式の時には挿していた物を、懐奥深くに動かしていたが、悔やみが終わると、再びそれを切下げ髪となった髪に戻した。
本家の総領息子、徳之進が遊学に行っていた欧羅巴から帰るに合わせ、分家の松子に白羽が立ったのは、年が開ければ十七になる時。
「お受けした。立春の頃に式になる故、なに、急な事ゆえ、先様が全て御用意なさるそうだ。手回りの品くらいを持って行けば良い」
上機嫌な父親に、わかりました、とだけ彼女は応えた。三年前に長屋住まいの娘と、駆け落ち騒ぎを起こした総領息子。当時は、一躍時の人だった。その騒ぎがちらりと彼女の脳裏に浮かんだ。父親がそれを察した様に言う。
「人の噂も七十五日、三年も前の事など誰も覚えていない、この縁談は当家にとってどれほど有意義な事か、賢いお前ならわかるだろう?先様もそこを見込まれたのだから」
ほんの子度の頃にいち二度ほど会った事がある、夫となる男、顔もほぼ忘れている相手、良からぬ騒ぎの張本人、だがしかし、親からそう言われれば、嫌とは言えない時代であった。
「やれ、賑やかだったこと」
白い切下げ髪、朱色の珊瑚玉の簪の色が映える。半色の袷、上から桜鼠の被布、隠居部屋の主である松子は、ほう、と吐息をつく。側使えの光子がお茶を勧めてくる。
孫娘である、美也子が友人と手習いをしたいと、顔を覗かせた午後のひととき。
「ご自分のお部屋でなされればよろしいのに、婆の部屋に来るとは」
ちょうど墨をすっていた松子は、桃色の山茶花の様に可愛らしく笑う乙女達に言う。
「あのね、お母様には知られたら困るの、今女学校で流行ってますの、うふふ」
そう言って風呂敷包を座卓の上に広げた美也子達、螺鈿の硯箱、彩り鮮やかな鳥の子紙、そして一冊の歌集。それを見て松子は苦笑をする。
「まぁ、お前達嫁入り前の娘が、その様な物を手習いに選ぶとは、女学校とは、ろくでもない教育をしているのかね?」
光子に香ばしい玄米茶を入れる様に言い、菓子鉢の椿を模した落雁を勧めながら、いたずらっぽく笑う娘たちに対する。共に部屋に訪れている幼馴染の繭子が、手にしていた雪うさぎを散らした風呂敷包を解く、中には小さな籠に盛られた蜜柑の姿。
「お部屋をお借りするお礼でございます、お祖母様、御機嫌よう、このみかんは、家の庭の木になりましたの、私がもぎましたのよ、くすくす」
箸が転がっても可笑しい年頃の彼女達は、顔を見合わせくすくす笑う、火鉢の上で、シュンシュンと湧く鉄瓶の湯気がそれに合わさる、静かな部屋に柔らかく楽しい空気が満ちる。
染紙にどの歌を書こうかと選ぶ娘たち。その姿を見ていると、娘の頃を思い出す松子、他愛のない時が過ぎ、やがて彼女達は事が終わると、潮が引くように部屋を後にした。
「後は私が片付けるから、これを背の君とお食べ」
いくつか残った落雁をさらい懐紙につつむと、蜜柑を二つ、光子に手渡す。
「大奥様!せ、背の君なんて……、おからかいにならないでくださいな」
顔を赤らめてそれを受け取る光子、屋敷で働く手代と仲良くしているのを、主である松子は知っている。
「ほほほほほ、昔と違い、自由恋愛でしたか?この歌人のような、くすくす」
座卓の上には書き損じた物が残っている。
……やは肌の あつき血汐にふれも見でさびしからずや 道を説く君、(与謝野晶子)
何かを想いじっとそれに目を落としている松子、その後ろで、では奥様失礼いたしますとの声。襖をしめる軽い音。パタパタと遠ざかる足音、部屋に彼女独りとなる。
真新しい薄紅色の紙を選ぶ、さらさらと達筆な文字が記されて行く。あの朴念仁は、道など説かなかったけど……と、書き上がったそれを見て笑みがこぼれた。筆を置き、蜜柑に手を伸ばす。
十字にむこうとして手を止めた彼女。窪みにぐっと指先を入れた。そのまま押し込みさっくりと二つに割る、皮が実が分かれて弾ける香りが立ち昇る。その香りを嗅ぐと、あの日あの時の記憶が蘇る。
シュンシュンと鉄瓶が湯気立てる、今日の様な師走のよく晴れた寒い日の事を。
「頂き物だそうです」
手代の佐太が籠に盛られた蜜柑を、シュンシュンと、湯気が柔らかく音立て広がる部屋に運んできたのは、父から本家の総領息子との縁談話を聞いた数日後。
「入りなさい、寒いから」
手習いをしていた松子は、するりと入る縁側からの風に首をすくめる。失礼しますと障子をしめ入る佐太。
「お茶をお入れしましょうか?」
柔らかなその声に、ええそうねと答える松子、筆を置き振り返る。急須に鉄瓶からお湯を注ぎ、茶の用意をする手代、懐から懐紙を取り出すと、茶筒の中に入っていた花林糖をいくつか盛る。
どうぞ、と盆を運び差し出すと、竹籠の蜜柑を側に置く。では、と去ろうとするのを何気なく呼び止めた松子。
「まぁ、お座りなさい、一人で飲んでも美味しくないわ、話し相手をなさい、ほら蜜柑を」
ひやりとしたそれを手に取ると、はいと返事をし、畳の上で正座をする彼に差し出す松子。私も食べましょう、と手に取り十字に剥き始める。
「いただきます」
窪みに指先を入れ、二つに割る佐太、シュとした香りが広がる。それから皮を剥き分けた房を口に運ぶ、面白い剥き方だわね、と丸っこいそれを同じように房を分け食べる松子。
穏やかな時間がすぎる。
「……松子様にお祝いをしたいのですが……受け取ってくださいますか」
蜜柑を食べ終わると、懐から包を取り出した手代、膝の上で丁寧にそれを広げる、中には朱色の珊瑚の玉かんざしが一本。それは彼の母親の形見、親指の腹できゅっと擦るように珊瑚に触れる。
「ええ。でもそれは……」
「いいのです。松子様には丁稚の頃から、目をかけて頂き、お世話になってます。古い物を身につけると幸せになると聞いたことがあるんで、田舎の話しなんですがね」
寡黙な彼がいつになく饒舌に話す。別段断る理由も無い松子は、無邪気に笑んで頷いた。
「まぁ、そうなの?ありがとう、では遠慮なく頂くわ」
蜜柑を食べつつ、子供の様に手を差しだそうとした時、それでは失礼します、と座布団に座る彼女側近くにじり寄った佐太、思いもかけない行動に、驚き身をすくめるおぼこな松子。
きゅっと目を閉じた。蜜柑の香りが側に来る。口の中の房をきゅっと噛んだ。ぱっと広がるすっぱい冷たさ、ごくんと飲み込む、どきどきとする。流れる血潮がいっときに熱くなる様。
「よくお似合いで、おめでとうございます」
声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、頭を下げている男の姿。髪に手をやるとそこには、珊瑚玉、あのかんざしが挿されていた。
「全く………あの朴念仁といい、旦那様といい私は男運がなかった」
結婚した総領息子は、洋行帰りのハイカラだったが、昔の女が忘れられない哀れな男だった。小指には女に渡そうとした指輪。蜜柑を食べつつ忌々しい事を思い出す。
「初夜に寝ぼけて他の女の名前を呼ぶかね、せめてその日ぐらい指輪を外せと、私は思った、だから……」
夫婦とは色恋では無いとわかってはいたが、何か物悲しく思った松子。翌朝化粧箱に忍ばませてきた、あの朱色の玉かんざしを取り出すと、髪に挿した。心の中の憂さが晴れた気がした。
それ以来触りがない限り、彼女はそれを身につけた。
「それにしてもおぼこ相手だとはいえ、手のひとつや接吻とか考えなかったのかねぇ、全く佐太も……今思えば抱きついてやればよかったかしら、秘事にしとけば誰もわからなかったろうに、ほほほ」
髪に手をやる、かんざしをずっと抜く、しばらくそれを眺め、やがて朱色の色に唇を寄せた松子。あの時、蜜柑の香りが近くにあった。最後に愛おしげに珊瑚に触れた手代。
……やは肌の あつき血汐にふれも見でさびしからずや 道を説く君。
「道などあれは説かなかったが、思えば私の唯一無二の恋だったのかもしれない、ならば旦那様とは似たもの夫婦、ふふふ」
蜜柑をもう一つ手に取ると、窪みに指を深く入れ、さくと二つに割った。弾ける香りを楽しむ松子。皮を剥き小房に分け口に運ぶ。冷たい酸っぱさが広がる。
シュンシュンと湯気が柔らかく広がる隠居部屋に、シュッとした蜜柑の香りが染み込むような、外は北風が吹く師走の時。
終ー。
やは肌の あつき血汐にふれも見でさびしからずや 道を説く君、与謝野晶子、みだれがみより抜粋。