壱話 エピローグ
紅牙は徐々に閉じていた目を開いた。
真っ先に視界に捉えたのは、真理亜だった。それも寝そべり、彼女に膝枕され、見上げる形で。
「……あ、起きた?よかった……紅牙、何時間も寝てたんだよ」
――寝てた?……そういえば、そうだったな……懐かしい夢を見た気がする
昨晩寝ていなかった紅牙は、今になって風花との再会が、過去の記憶を呼び起こし、夢として出会いと別れを追憶させた。
紅牙にとっては数少ない良い思い出だったので、名残惜しい気持ちもあったが、いつまでもこの状態でいるわけにもいかず、起き上がった。
そこは星羅達の実家ではなく車内で、七人乗りのワゴン車の一番後ろの席にいた。
一つ前の席には、星羅と風花。運転席には明理が、助手席には美裕が座っている。
運転中の明理を除く全員が、起きた紅牙に視線を向けた。
「おはようっス。今は、東京に帰ってる最中っスよ。ボロボロの紅牙君を、新幹線に乗せるわけにもいかなかったんで、乗り捨てできるレンタカー借りたんス」
紅牙が訊ねるだろうことを先読みし、状況説明を怠らなかった。
「そうですか……すみません。迷惑かけて」
「かけたのは、迷惑じゃなくて心配っスよ。ちゃんと反省してるっスか?」
美裕は紅牙が起きるまで読んでいた星羅の家から拝借した洋書を音が鳴るように閉じて、迫力を表現しながら問いだす。
「すみません……でも、犯人の正体を暴き且つ、本人に仇をとらせるには、ああするしか方法が思いつかなくて」
「そうっスか……なら罰として、次の休みにアタシとデートするっスよ」
単にデートする口実が欲しかっただけの美裕に、隣で運転している明理は呆れ、紅牙はそこまで怒らせていないことに安堵し、笑みを浮かべた。
「いいですけど。罰というより、ご褒美ですね。でも、二人きりじゃないですよ?」
紅牙は隣に座っている真理亜を見て、美裕に真理亜の存在を伝えると、美裕は歯ぎしりし真理亜に鋭い視線を送った。
「そういえば、いたっスね!早く成仏するっスよ!大人のデートに未成年は邪魔っスから」
「なにそれ?だいたい、紅牙もオタク先輩も未成年じゃない!」
「ぷっ……オタク……確かに、美裕ちゃんの見た目は、オタクよね」
会話だけ聞いていた明理が、真理亜の一言に笑い出した。
「まあ、紅牙君に関してのオタクで、高校の先輩なんで、『オタク先輩』は否定しないっスけど!」
「あぁ。だから紅牙の方が仕事上は先輩なのに、紅牙が先輩呼びしてるんだ……ていうか、紅牙に関するオタクって……それ、ストーカーって意味なんじゃ……」
「取り憑いてる方が、ストーカーだと、アタシは思うんスけどね!」
引き直った美裕に、真理亜が口を出したことで第二ラウンドが始まった。
しかし盛り上がっているのは、明理、美裕、風花の三人だけ。姉妹はというと、何か言いたそうな顔で、紅牙を見続けている。
当然、紅牙も二人の様子がおかしいことには、気づいていた。
「どうしたんですか?二人とも。もしかして、背骨を折った時の速い蹴りの秘密が気になってるとか?――あれはですね。実は明理さんに注目が集まっている間に、こっそり……」
「ち、違うんです。月影君……その……」
紅牙の話しだした内容を否定すると、星羅は風花と見つめ、頷き合った。
そうして、次の瞬間、二人は頭を下げだした。
『ごめんなさい!』
姉妹は声を揃え、大きな声で紅牙に謝った。
不毛な口喧嘩をしていた三人は、突然の事態に驚きながらも、黙って行く末を見守っている。
「……いったい、何を謝ってるんですか?」
やはり次に口を開いたのは紅牙だ。
表情から謝ってくるのは、予想できたが、首を傾げる動作は、何を謝られているのか、皆目見当がついていない様子。
「昨日、『化け物』なんて、酷いことを言ってしまったから……」
「私は昔、出会った時、しつこく付き纏ったことかな。自分が寂しいだけなのに……こーくんの気持ちも考えないで私の感情を押し付けて……」
理由を話す二人の顔は暗く、風花の方は負い目から眼を潤ませている。
その風花の顔が、紅牙には幼き頃に見た、悲しい表情と瓜二つに見えた。
紅牙は開いた自分の掌を一度見てから、その手を十年前と同じ様に風花の頭に乗せた。
「いいですか……まず、星羅さんの方ですけど。何も知らなかったんですから、仕方ないですよ。そこまで気にしてません。そもそも、自分を化け物と本気で思っていた時期もありますから」
「でも昨日、私の前から去る時、牙が見えないよう悲しそうに顔を隠してましたよね?」
星羅は紅牙が気遣っているのではないかと疑ったが、紅牙は笑顔でそれを否定する。
「違いますよ。聞いてませんか?僕の牙が生える条件は、感情が昂ること。喜怒哀楽、問わずに――昨日のは……嬉しかったんです。再会できて。それで感極まって……つい」
「そうだったんだ……だけど……っ!」
紅牙は、それでもなお、謝ろうとする星羅の口元に人差し指を立てて、優しく口を塞いだ。
相手が、誰もが認める美男の紅牙だけあって、星羅の心臓は跳ね上がる。
「だから、謝らなくていいですよ――もちろん、ふうちゃんもね。確かに、最初は『うざったい』って、思ってたけど。今は感謝してる。初めて、親以外の人の優しさに触れられたから」
星羅に次いで、風花にも笑顔を向けると、紅牙は二人から手を離し、引き締めた顔へ表情を変えた。
そうして一息の間を空け、紅牙は二人に頭を下げた。
「こーくん?」
前触れも無く、頭を下げた紅牙に星羅達は首を傾げる中で、紅牙は口を開いた。
「それと、すみません……謝るのは僕の方です。仇を取らせるためとはいえ、知らなくてもいいことを、知ることになってしまって」
「それって、お父さん達のやってた事ですよね?それなら大丈夫です。人の為に戦ってたわけですから。ね?風花」
「うん……でも、こーくんの親の件はやっぱりショックだったかな……だから、こーくんが謝るのは、間違ってるよ」
星羅は完全に吹っ切れているが、風花は幼い頃、紅牙と仲が良かっただけあって、後ろめたさは残している。それでも、最初に真実に知った時より、心の整理はできていた。
二人の強さに、紅牙が感じていた罪の意識も多少は軽くなった。
「そう言ってもらえると、助かるよ」
「こーくんはさ、私が初めて話し掛けた時、こーくんの両親を殺したのが私の親だって知ってたの?」
「いや、知ったのは大分後になってからだよ。その時は驚いたが…………それよりも、ふうちゃんにお願いがある」
「私に?なんでも聞くよ?」
風花の優しさに謝しながら、風花と出会った時と似た台詞を言い放つ。
「僕にはもう、係わらないでほしい。僕の周りは危険だし……僕は化け物だからね」
「それは嫌!せっかく再開できたのに、寂しいよ!それに、こーくんはどう見ても人だよ?」
――まるで、デジャヴだな……あの時と同じだ。
さすがに十年前に言った言葉を覚えていなかった風花は、真剣な眼差しで今の正直な気持ちをぶつけた。
逆に夢で過去の事を思い出せた紅牙は、笑い声こそ噛み殺したものの、表情までは殺せていない。
「……なんでも聞いてくれるんじゃなかったの?早速、前言と違うこと言ってるよ?」
「そうなんだけど……嫌なものは嫌なの。それに危険な事に巻き込まれても、こーくんなら、今日みたいに守ってくれるよね?」
泣きっ面ではなかったが、風花の純粋な瞳は変わっておらず、紅牙は否定し、風花を自分から遠ざけることができなかった。
「そりゃあ……約束したから。二人を守るって…………ずるいよ。それを出すのは」
紅牙の答えに風花は、ほんの少しだけ赤面させながら、嬉しそうに目を細めた。
「ごめん。でも、覚えててくれたんだ……嬉しい」
「ちゃんと覚えてるよ。お嫁さんになってくれるって、やつもね」
それとなく紅牙が約束の事を口にした途端、安全運転だった車が大きく横に揺れ動いた。
「え?な、なに?」
体を捻り後ろを向いていた風花が、この事態に慌て前を向くと、美裕が凍てつくほどの冷たい視線で風花を見ており、明理もバックミラーを介して同じ視線を向けている。
――ごめん、ふうちゃん。余計なこと言った。
赤かった顔が一気に青ざめた風花に向かって、紅牙は拝む様に顔の前で両手を合わせた。
「その結婚の約束って、子供の時の他愛無いものだよね?」
「そ、そうですよ!だから、もう無効です!」
「そうっスよねぇ……なのに、まんざらでもないって顔、してたっスよ?」
明理への弁明も空しく、すぐに美裕からの攻撃を受けたが、風花を責める声はそれだけでは止まらなかった。
「風花、言いづらいけど。月影君には他に好きな人がいると思うんだよね……」
紅牙が好きなのは自分だと思っている星羅は、遠回しに自分の紅牙に抱き始めた感情を伝えようとしたが、ここにいる全員が同じ思いを抱いていたりする。
ただし、風花には星羅の発言で、昨日の紅牙との出会いを思い出し、気掛かりな事があった。
「そういえば、こーくん……『彼女いる』って、昨日言ってたよね?」
顔色が悪いまま笑顔を作って確認する風花に、紅牙は恐怖を抱いた。
それは明理や美裕が時折見せる、好きすぎるが故の憎悪を含んだ瞳と似ているものだった。
「え?あぁ。言ったけど、あれは……」
あの場を乗り切るための嘘だと、説明する前に紅牙は気付く。風花に向けられていた視線が全て、紅牙に移動していることに。それも、憎悪を含んだ、例の瞳で。
――あ……こういう展開になるんだ……
今度は自分が責められることを覚悟した紅牙は、諦めて目を閉じた。
「モテるのも、大変なんだね……紅牙、真理亜だけは味方だよ?」
ただ説明しただけでは終わらないと真理亜も分かったようで、言い終えた後、紅牙の頭を撫で、紅牙が風花にしたように顔の前で手を合わせた。
「紅牙君……どういうことか、説明してくれよね?」
「もちろん、納得できるまで訊くっスよ」
「私も詳しく聞きたいです!いいですよね?月影君」
――え?なんで叶さんまで?……まぁ、この際、どうでもいいか。
残り数時間の帰り道もゆっくり休めると思っていた紅牙に、今日一番の難関が舞い込んだ。
恐怖の気持ちを隠し、目を開くと同時に紅牙はいつもの余裕ある表情を浮かべて答える。