黒崎さん
日の出前、まだ濃紺色の世界に自慢のSUVを走らせる。黄ばんだヘッドライトに照らされた道路。その白線を次々に置いてけぼりにするように、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
この時間はまだ交通量が少ない。ずっと前を走っていた白い車のテールランプが、朱色の尾を引いて左に消えていった。僕は窓を少し開け深呼吸する。早朝特有の湿り気を帯びて、なおかつしびれるように冷たい空気。そして馴染み深い潮の匂いが肺にしみこんでいくような気がした。
「そろそろかな。」
ゆっくりとブレーキを踏んで減速する。ハンドルを切って寂れた民家に囲まれた小道の方へ曲がる。カーブミラーが車の光を反射する。小道の向こう側にいた猫の瞳が濃紺のなかで煌めき、車を進めると逃げていった。街の外れにある寂れた小さな漁港。ここが目的地だった。
真っ白な街灯に照らされた駐車スペースに車をとめる。相変わらずペットボトルや漁具の残骸が散らかっていた。バンッ。静寂と薄青色に包まれた誰もいない漁港にドアを閉める音が木霊した。僕は砂利の敷き詰められた駐車場に降りて、海の様子を観察する。港湾内の橙色の常夜灯の下、岸壁に接した濁った水面でぱしゃぱしゃと小魚が何かを捕食していた。
僕は車に戻ると、バックドアの取っ手をつかみ引き上げる。ピピッと音がした後、シューーと音を立ててドアは上方に移動する。薄オレンジの車内灯のもとで僕は相棒を取り出す。艶消しブラックでしなやかに曲がるブランクス、腰がある一方で繊細にあたりを捉える穂先、僕の手に合わせて選んだリールシート。そして紺鉄色の3000番台のリール。リーダーの結びつけられた1.0号のPEラインをロッドのガイド通し、先端にスナップを結び付けた。
僕は自分のポーチのジッパーをジジっと開くと、中に餌木(イカ釣りをするルアー)が入っているのを確認した。もう一度海の方を見ると空にうっすりと山吹色が差し始めている。潮風が優しく頬を撫でる。冷たいけれども、嫌いじゃない。
「今日は釣れるかな。」
一人呟き、昔のことを思い出す。もう10年以上も前か。僕が大学1年生のときだった。
「これで釣れますかね。」
僕は初心者向けの安っぽい黄色のロッドと、キス釣りをする天秤仕掛けに青虫をつけた。5月半ば、緑の芽生えを感じる蒼天快晴の休日、子供たちやファミリーが後ろでボール遊びをしている海浜公園だった。
「わからんね。」
そう答えた黒崎さんは5月になっても擦り切れたよれよれの灰色の長袖のジャージを着ていた。白髪交じりの短髪に、いくつか歯が抜けてしまっている口元。下手すればホームレスと間違われてしまうような姿だった。
僕はとりあえず仕掛けを波止から投げてみるが、糸を離すタイミングが遅くて明々後日の方向へ飛んで行ってしまった。
「もっと遠くに飛ばさんば。」
黒崎さんは言った。結局その日は何も釣れなかった。
蒸し暑い8月のあの日の夕方。波止から続く水平線は柿色に染まり、海面はそれをきらきらと反射している。僕は春先と同じような仕掛けを持って自転車で海浜公園を訪れた。
「最近どうね。」
ぶかぶかのチェックシャツと色あせた野球帽をかぶった黒崎さんは僕に聞いた。定年後することもなくて暇だったのかもしれない。黒崎さんは僕がここに釣りにくる時だいたいほとんど姿を見せた。
「久々に来ました。いまから釣れますかね。」
「わからんね。」
“わからんね。”黒崎さんの答えは、いつも同じだった。僕は、天秤重りとキス針に引っ掛けた青虫をロッドのしなりを使って投げ入れる。春先とは違って綺麗な放物線を描いた仕掛けはボチャンと少し遠くの水面に音を立てて落ちた。
「キスは足で釣るけん。」
「足で釣るってどういうことですか。」
「群れで移動しておるけん。それを探すとよか。」
この日は、22㎝のキスが釣れて、黒崎さんも「ふとか~。天ぷらにするとよかたい。」と言ってくれた。
秋も、寒さに震える冬も、その次の春も、夏も、それから僕は何回もその釣り場に通った。いつも僕が黒崎さんに「釣れますかね。」と聞いて、帰ってくる答えは「分からんね。」だった。当時の僕にはその言葉の意味がよく分からなかった。
僕はリーダーに繋がれたスナップを開いて、3.5号の餌木を引っ掛ける。自分の手のひらに刻まれた皺の深さを見て、時の流れを感じる。あの時と同じ春先。今日の狙いは春イカだ。
「ふふっ。」
僕は一人で失笑する。そりゃ“分からん”よな。働き始め車を手に入れた僕は、もう当時の釣り場に行くことはなくなった。それ以来、黒崎さんには会っていない。
ザクザクザクと砂利を踏みしめて防波堤の先端へと歩き出す。濃紺の空はすでに赤金色の光とグラデーションになっていた。海面は静かにざわめき、その生命感を裏付けるように小さなさざ波は黄金に輝いた。僕は薄橙色にそまった白いコンクリート波止の先端に立って、小さく振りかぶる。そしてシュッ音を立ててロッドから餌木は射出された。赤マーブル色の餌木は程よい速度で放物線を描き、沖の潮目にぽちゃんと落ちる。
「分からないから、ずっとこんなに熱中できるんだ。」
20秒のフォールを挟んでシュンシュンシュンとロッドを3回しゃくる。その瞬間、穂先がクイっと曲がりジジジィとドラグが子気味良く音を鳴らす。僕は咄嗟にドラグを締めてロッドと立てる。ロッドがぐにゃりとしなる。力強いツッコミ。少なくとも1kg超え。イカのジェット噴射だ。
「だからたまらない。」
興奮と爽やかさの入り混じった気分で、僕は呟いた。
END
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