第三章
第三章 転
有馬は信用できない。
そう悟った俺は、次の一手を考えざるを得なかった。
誰か、この一連の騒動の関係者で話が聞けそうな人物に思いを巡らす。
霧島さんは何か知っているだろう。あと、他には……?
俺は昼休みに、横溝たちと一緒に焼きそばパンを食べながら、牛乳を飲み込んでいた。みこは女子たちと一緒にランチ中だ。
そういえば、もう一人ダークホースがいるな。これは盲点かもしれない。
「小石川、ゲームばかりやってないで、お前もオレのように彼女を作れ。高校生にもなって彼女もいないようでは将来出世できないぞ。ある研究によると……」
このゴールデンウイーク中に、あの横溝にガールフレンドが出来たらしい。
他校の生徒らしいが、物好きもいたものである。天変地異でも起こらなければ良いが。
小石川は僕の彼女はモニターの向こうにいるし、などと不毛なことを言っている。
「二次元の女の子は年を取らないし、いつでも僕のことを好きでいてくれるからいいんですよ。僕もゲーム機の電源を入れさえすれば、世界中のイケてる男たちより、遙かにモテますからね。僕は三次元の女の子には興味ないんですよ」
小石川はそんな悲しいセリフを眼鏡を直しつつ、得意げに語っている。彼は末期症状だな。
「なあ、見沢。お前は嫁さんと、どんな夜の営みを送っているんだ? 黙ってパンばかり食ってないで、エロエロ、じゃなかった、いろいろ教えてくれよ」
横溝がにやけた間抜け面で、俺に訊いてくる。アホか、こいつは。
「俺とみこは、ただの幼馴染みだぞ。百歩譲って、俺がみこに胸を揉ませてくれと頼んだとしても、あの女は俺に悪霊が取り憑いたと真剣に思って、神様とやらに『天の父なる神様、どうか悠一さんから、サタンを追い出させてください』とか言って、聖書の角で俺が死ぬまで、ぶん殴り続けるような奴なんだぞ。今まで胸どころか、唇に触れたこともない」
横溝はつまらなそうである。
「勿体ねーな。お前、それでも男か? 日本男児として恥ずかしいと思わないのか? それでもチ○コ付いてるのか?」
「思わないな。あと、食事中に下ネタは止めろ」
情けない、と横溝は肩をすくめて嘆いている。
「第一、お前は喋り方が良くない。どうしていつも国語の教科書みたいな、お坊ちゃんみたいな喋り方をする? 丁寧も過ぎると無礼なんだぞ。もっと日本語の乱れを取り入れろ。何が『思わないな』だ。せめて『思わねーよ』くらい言ってみろ」
余計なお世話だ。俺は美しい日本語が好きなんだよ。
「兎に角だ。小石川は今年中にリアル彼女を作れ。そして見沢は嫁と子供を作れ。以上だ」
そう言って横溝は紙パックのコーヒーを飲んでいる。
昼休みが終わろうとしていた。
お前が口を出したせいで、俺は懸案事項の検討が充分に出来なかったじゃないか。
五時限目、六時限目、そして帰りのホームルームが終わると、みこがいつものように、俺の傍にやってきた。
「有馬先輩の機嫌は直ったのでしょうか? 部室に行きますか、悠一さん?」
「ちょっと有馬とは話をしたくないな。あの男は信用できない気がするんだ。みこも気を許すなよ」
そう俺が言うと、みこは、
「人を疑うことは良くないことです。それは寂しくて、悲しいことなんですよ」
そう諭すように言ってくる。
一般論としては、そうなんだろう。
しかし、先日、有馬が俺を問い詰めようとしたときの態度が気にくわない。油断ならない人物だと、俺は直感したのだ。
「あの草薙花恋という女、いや、女の子のクラスか居場所を知っているか?」
問われたみこは、首を傾げると、
「クラスはちょっと、分かりませんね。あと学年も分かりません。でも、確か風紀委員じゃなかったでしょうか、彼女は」
そういえばかなり前、部室でみこの写真を無理矢理撮ったとき、風紀委員の腕章を付けていたな。
「風紀委員は何処にいるものなんだ? ちょっと彼女と話をしてみたいんだが」
「うちのクラスにも風紀委員さんがいらっしゃるじゃないですか。悠一さんのお友達の小石川くん。彼に訊いたら、いかがですか?」
そうだ。
そういえば、小石川は風紀委員の役を無理矢理押し付けられたクチだったな。
先月の中旬辺りのホームルームで決まったことだ。
各クラスにつき一名割り当てられることになっていたはずだった。目立たないので、すっかり忘れていた。
俺とみこは、帰り支度をしていた小石川のところへ行くと、
「なあ、風紀委員の草薙花恋という女の子について何か知らないか? クラスとか、放課後に何処にいるのか、とか」
小石川は、あの気の強い女の子ですか? と言って、
「僕は苦手で話したことはないんですが、確か2―Cのクラスから来ていますね。委員会では委員長より発言力がありますから、覚えていますけど」
「そうか、ありがとよ」
そう礼を言ってから、俺とみこは教室棟二階に上がる。
それにしても、あの女が俺たちの真上の教室で授業を受けていたとは少し意外だな。
「草薙さんと仲直りしに行くんですね。それはいいことだと思いますよ。でも、二年生のフロアへ行くのは、ちょっと怖い気もして抵抗がありますね」
「仲直りねえ……」
俺は頭を掻いた。
あの女と友好な関係が築けるとは思えないが、そうできたら、都合はいいのだろう。
やはり、二年生連中は少しばかり、一年生とは雰囲気が違った。
体格もいいし、学校にすっかり慣れ切って校則ぎりぎりの微妙なラインで、要領よくやっている感じだ。女子の方も垢抜けている。
背丈の低いみこが怯え気味なのも仕方ない。
そういえば、有馬も霧島さんも、この階にいるんだったな。
2―Cのクラスまで来た。見知らぬクラスの中を覗き込むのは、ちょっと気が引けるが、ここまで来て引き返すわけにも行くまい。
居た。ツインテールの髪をした草薙は席に座って、手鏡を見ながら赤いリップを付けている。
これから遊びにでも行く気か?
俺は間抜けな刺客の彼女しか知らないから、メイクなんぞしている草薙に何となく声を掛けづらい。
みこも来年の今頃はルージュなんか唇につけたりするようになるんだろうか。
俺が教室の入り口で逡巡していると、
「今日こそ、一緒にあたしたちと、お茶してくれるわよね」
「毎日、部室で何やってるの? まさか彼女と待ち合わせ?」
「時雨くん、誰とも付き合わない主義って言ってたじゃない!」
女の子たちの声が後ろの方から聞こえてきた。
うげ。
どうやら俺たちの傍を有馬が通り過ぎていくようだ。見つかったら、ヤバいな。
彼女たちの声は、そのまま遠ざかっていった。
ホッと胸をなで下ろす。
そっと右をみると、やはり女の子たちに囲まれた有馬の後ろ姿があった。
有馬のことだから、俺たちの姿に気づいても、見て見ぬ振りをしたのかもしれないが、何にせよ、今、声を掛けられたりしたら、いろいろと面倒なことになっていた。
「悠一さん、早く草薙さんに声を掛けましょうよ」
みこにそう言われてしまった。確かに、こんなところに突っ立っていても仕方ない。
俺たちは教室に入っていった。2―Cの連中が不審げに見てくる。
草薙が目線を上げる。目が合った。
「何で、あんたたち、ここにいるの!」
草薙はそう声を上げた。
さすがの彼女も、叫んだ際の勢いで、リップで顔に落書きをしてしまう、なんてドジは踏まなかった。
「まあ、そうカッカしなさんな、草薙さんよ」
俺は空いていた向かいの席に座った。草薙は口紅をラメ入りポーチに仕舞い込むと、
「私のところまでわざわざ出向いてまで、先手を打ちに来たわけ? 面白いじゃない! 受けて立ってあげるわ!」
そう言って立ち上がろうとするのを、みこが彼女の肩に手を置いてなだめた。
「今日は草薙さんと仲直りしに来ただけですから」
みこの言葉を、草薙は鼻で笑う。
「冗談は止めて。私とあなたたちとは宿敵なのよ。誰が仲直りなどするもんですか!」
「どうしても、ダメか? お互い争い合ってもいいことなんか無いぞ」
俺の言葉に、みこも同調の言葉を口にした。草薙は口をへの字にして、ムスッとしている。このままでは埒があきそうにないな。
「じゃあ、こうしよう。一度、正式に決闘して、敗者は勝った方の言うことを何でも聞くことにする。これで、どうだ?」
草薙は俺の方を睨み付けていたが、
「いいわよ、それで。私が勝ったら、あなたたちには悪いけど死んでもらうわ。それでも、よくて?」
草薙が『それでも、よくて?』などとお嬢様言葉を使ったのは、この際いいだろう。しかし、みこを巻き込むわけにはいかない。
「みこは置いておいて。俺とお前とのサシの勝負にしよう」
「その条件は呑めないわね。私は二人とも片付けるようにと指示されているんだから」
俺は身を乗り出して問うた。
「誰に?」
「……ゆうぴょんには関係ない。言う必要も無い。どうせ、死んでもらうんだから」
ゆうぴょん、とは俺のことなんだろうな。
「あの三年の女子学生の飛び降り事件にお前は関わっているのか?」
「……知らないわよ。ゆうぴょんに答える義理なんか無いんだから」
俺は少し考えてみてから、
「じゃあ、冥土の土産に教えられる範囲で答えてくれないか。どうせ、俺が死ぬんだったら、問題ないだろ」
草薙は頬杖をついて、
「ゆうぴょんさあ……そんなこと訊いてどうするの? 私はあるお方からの命令で動いているだけよ。悪いけど、それ以上のことは答えられない」
参ったな。いい線狙ったと思ったんだが……。どうするかな?
「霧島さやかという女子生徒が何組にいるか知らないか? これは可憐な花恋さんでも答えられるだろ?」
「悪いけど、その娘のことはよく分からないわ。隠し事じゃなくて本当に私は知らないのよ」
やれやれ……。
「有馬時雨という男子生徒については何か知ってないか?」
草薙の表情が少し変わったのを、俺は見逃さなかった。
「知らない……もう、いいでしょ。私も忙しいんだから。あんたたちの質問に答えてあげる義理なんか最初から無いんだから。もう、帰ってくれない?」
「花恋先輩」
俺は思いきって、賭けに出た。
「な、何よ、いきなり……。変な呼び方しないで」
「俺は先輩との拳を交えた闘いの中で、気づいてしまったんだ。俺の中で、花恋先輩の存在が段々と大きくなっていることに。花恋先輩のことを考えると、俺は眠れなくなってしまうんだ。昨日も一睡もしていない。どうしてだか、分かりますか? 先輩」
草薙は返答に困っているようで、目を逸らしている。
「俺は花恋先輩のことが好きになってしまったんです。責任を取ってください」
死ぬほど恥ずかしかった。勿論、真っ赤な嘘なんだが。さあ、どうする、草薙さんよ。
「バ、バカなこと言わないで。そんなこと急に言われたって困るわ……。確かに私は学年、いや、学校一可愛いってことは知ってたけど、年下の男の子には興味ないの。ごめんなさい」
ちっ、やっぱりダメかよ。
「じゃあ、飛び降りる」
「えっ……?」
俺はダメ元で話を進めてみる。
「花恋先輩に振られたら、もう生きていけない。死ぬしかない。これから屋上から飛び降りて俺は死にます。さようなら、思い出をありがとう」
俺はそう言って、立ち上がると、2―Cのクラスを出て行った。追い掛けてこないものかな……。
「悠一さん、バカな真似は止めて!」
みこが追い掛けてきた。お前が引っかかってどうする。
その後からは、草薙の姿。
「ちょっと、待ちなさいよ! 命を粗末にしてはいけないわ! 勝手に死なれたら、私の暗殺命令が果たせなくなるじゃないの! 落ち着きなさいよ!」
草薙は俺の傍まで来ると、嘆息した。
「分かったわよ……。付き合ってあげるわ。今、私、フリーだし。勝手に死なれたら後味悪いし。感謝しなさいよね!」
なんだか、話がややこしくなってきたな。
「じゃあ、早速だけど、一緒に帰ってあげてもいいわよ。久しぶりにマルドナルドで照り焼きバーガー食べたいし」
そう言うやいなや、俺の手を取って、草薙は歩き出した。
「おい、何するんだ?」
「は? ああ、腕を組んでほしいわけ? 仕方ないわね」
草薙はそう言うと、俺に身体を密着させて、右手を絡ませてくる。
「悠一さんっ!」
俺が首だけ振り返ると、みこが半泣きで呆然と立ち尽くしていた。
*
俺は一体どうなるんだ……?
マルドナルドにて。草薙は紙ナプキンに乗せたポテトの山に手を伸ばしては、口に運んでいる。
俺は正直、自分の軽はずみな行動を後悔していた。
あんな、口から出任せなんかするんじゃなかった。好きでもない女の子に嘘の告白をかました挙げ句、みこを泣かせてしまった。最低じゃないか。
「何、暗い顔してんの?」
俺のおでこを草薙が指で突いた。
「ああ、そうか。みこにゃんのことね……。仕方ないんじゃない? ゆうぴょんは、みこにゃんより私のことを好きになったんでしょ? 確かに女の子を振るのは、辛いことかもしれないけど、そんなこと気にしてたら恋愛なんて出来ないでしょ」
俺は何も言えない。
「男と女なんて、そんなもんじゃない? 人の心は水みたいなものよ。熱くなったり、冷めてしまったり、変わっていくものだから。そんなに自分を責めたりしないの!」
俺はただ草薙の気を引き、うまく情報を引き出せば、それで良かっただけだった。こんな展開になるなんて思ってもみなかったのだ。
草薙は言いたいことは全部言った、という感じで、ハンバーガーを囓っている。俺は目の前にある自分のダブルチーズバーガーを口にしてみる。今の俺には残念ながら、美味く感じられない。
「ねえ、電話番号、交換しておきましょ」
草薙がそう言うので、俺は携帯を取り出し、言われるがままにした。
「ありがと」
このまま流れに任せて彼女に主導権を握られている場合ではない。
「草薙さん」
「花恋でいいよ」
俺は正直全部話そうと思った。
草薙に嘘をついたこと、みこに酷いことをして後悔していること……。
しかし、出来なかった。自分が草薙を騙したとは言いにくかった。
「いや、何でも無い」
草薙は、そっか、と言ったきりだった。俺の葛藤に気づいてもいないようだ。
「そうそう、私、謝っておかないとね。今まで、ゆうぴょんの命を狙ってたこと。でも、仕方ないのよ。私の師匠、魔術を教えてくれてる人に頼まれただけなの。別に、私、好きでゆうぴょんを殺そうと思ったわけじゃないのよ。その辺は誤解しないでね」
彼女は続けて、
「心配しなくても、もう、みこにゃんを狙ったりもしないから。それじゃ、余りにあんまりじゃない? 私だって、傷心の彼女の命まで狙うほど、酷い女じゃないのよ。雫さまには私から言っておくから、安心してね」
どうやら、草薙に俺たちの命を狙わせたのは、雫という奴らしい。この際、訊いておくか。
「雫というのは男か? 女か? どういう人なんだ?」
草薙は、うーん、と考えていたが、
「まっ、いいか。女の子、いや女性よ。あなたも何処かで見覚えがあるかもだけど、志樹高校の生徒会長さんよ」
なんだって? 姉のめぐみの友人じゃないか! そんな奴に命を狙われるような覚えはないぞ。
「どうして、その雫という女の子は、俺たちを狙ったんだ?」
「分かんない。どうしてかな? あの人、時々何考えてるのか分からなくなる時があるのよね」
ハンバーガーを食べ終えた草薙は、オレンジジュースを飲んでいる。
「質問ばかりで悪いんだが、三年生の女の子の飛び降り事件を知っているか?」
頷く草薙に、
「彼女を死に追いやったのは、誰なんだ? おま、じゃなかった、花恋さんか? それとも、雫さんか?」
草薙はポテトを口にしながら、
「私でも、多分、雫さまでもないわ。あの人、そこまで残忍じゃないもの」
「でも、俺たちを殺すように指示したんだろ?」
「それはそうだけど……。どうしてかな? 今度、雫さまに理由を聞いておくから。それにしても、ゆうぴょん、あまり食べないね。無理に誘っちゃったかな? ごめん」
俺の方こそ、あんたを騙していて申し訳ない。
そう心の中で、詫びた。
「時間が解決するわ」
えっ……?
「だから、みこにゃんのこと。私も彼女に酷いことしたな。いくらいきなり告られたとはいえ、見せつけるような真似したし。でも、すぐに、みこにゃんも心の整理がつくと思う。だから、ゆうぴょんもそんなに気にしなくていいのよ。だって、仕方の無いことだもの。人が人を好きになるなんて、仕方の無いことだもの」
俺はまた何も言えなくなった。今更、草薙にあれは、ものの弾みで、なんてことは言えなくなってしまった。もしかしたら、俺は引き返せなくなったのかもしれない。
「行きましょ」
草薙は席を立って、俺に手を差し出す。俺は迷ったが、彼女の手を取った。二人でトレイのゴミを捨てると、彼女は言った。
「でも、ゆうぴょんが私のことを、そんな風に考えてくれてたの、嬉しかったな。私、本当は寂しかったの。私、気が強いでしょ? だから、皆、私の言うこと聞くけど、陰口もしてるってこと知ってたから。いつも爪弾きだった。でも、ゆうぴょんはそうじゃなかった。ありがとね」
草薙の笑顔はとても素敵で、とても俺の心に突き刺さった。
*
その夜――。
俺は自室のベッドの上で、今日やらかしてしまった出来事について考えていた。
草薙から無理に情報を手に入れようと焦って、成り行きのまま、付き合うことになってしまったらしいこと。みこの気持ちを踏みにじってしまったこと――。
結果的に俺は、二人の女の子の気持ちをもてあそんでしまったのだ。こんなことが許されるはずがない。
たとえ罵詈雑言を浴びせられようとも、どちらかの女の子に頭を下げなくてはいけない。みこか、草薙さんか……。
みこ――いつも俺の傍にいてくれた幼馴染み。
彼女はちょっと過激なクリスチャンだが、思いやりのある優しい娘だ。
彼女に別れを告げるなんてことは出来ない。
草薙さん――俺たちの命を狙っていた、ちょっとドジな上級生。
いつもは強気で人を人とも思わない振りをしているが、本当は寂しがり屋。
彼女が見せてくれた笑顔が忘れられない。今更あの告白は無かったことにしてくれ、なんて言えるわけがない。
一体、どうすればいいのか……。
「勉強しまっせ、引越しのサクライ~」
そんな時、隣室から、姉の鼻歌が聞こえてきた。テレビの某CMソングらしい。
俺は脱力した。
人が真剣に人生の問題を考えているのに、あの馬鹿姉は呑気にどうでもいい歌(?)を真夜中に大声で口ずさんでやがる。
「ホンマかいな、そうかいな、ハイ♪」
めぐみは上機嫌らしい。
俺は耐えた。このシリアス係数格差の諸問題に対して、俺は耐え続けた。
「阿部さんは言うよ『やらないか?』。こだまが響くよ『アーッ♂』♪」
もはや姉が何を歌っているかは意味不明だ。ただ、分かるのは怒りのゲージが限界を超えてしまって、必殺技を連続でコンボできるくらいに溜まってしまったことだ。
「うるさいぞ、何時だと思ってやがるんだ! この猫被りBL腐女子がっ!」
俺は壁を足蹴にして、思わず禁断の呪文を唱えてしまった。もしくはパンドラの箱を開けてしまった。
「…………」
しん、と静寂が辺りを包んだ。
しまった! と思っても時すでに遅し。
ぎぃ、と部屋の扉が静かに開いてくる。鬼女の眼が鋭い光を放った、という所で、俺の記憶は途切れた……。
「……悠一、いつまで寝てるの! もう朝よ! 起きなさい! っていうか、起きろや、コラ!」
げしっ。
誰かが俺を足蹴にしてくる。しかし、体が動かなかった。
「やばっ! 昨夜は、ちょっと激しすぎちゃったかな、テヘ☆」
めぐみの声が聞こえる。
「母さん、悠一、風邪引いたみたい。学校、休むって!」
何勝手に設定作ってやがる。
俺は抗議の声を上げたかったが、声帯はぴくりとも動かなかった。
いかん、このままでは俺は死ぬのかもしれない。
「すまん、悠一。姉を許せ」
これは、いけない。意識障害というやつか……。
俺の記憶は再び途切れた。
*
「……悠一、悠一ってば。いつまで寝てるの! 起きて!」
姉のめぐみの声がする。もう、朝か。また、蹴飛ばされるんだろうな……。
俺は、ぼんやりとそんなことを考えた。
誰かが俺の額の上に手を置く感触が伝わってきた。
「熱は、無いみたいね……。ほら、しゃんとする!」
俺は身体を揺り動かされて、ゆっくりと目を覚ました。めぐみの顔が目の前にあった。
「あんた、身体は大丈夫? 起きられる?」
めぐみは俺の目の前に、透明な液体の入ったコップを差し出した。
「ポカリよ。汗を掻いた後にいいから、飲みなさい」
「ああ、ありがとう」
俺は身体を起こして、言われるまま口にした。美味しかった。しかし、めぐみがこんなに親切な態度を取ってくるなんて、どういう風の吹き回しだ?
「はい、これ」
めぐみがカップアイスを差し出した。ラムレーズンじゃないか。
「これで、姉を許せ」
「……は?」
「とにかく、姉を許しなさい。これで足りなかったら、もっとあげるから、許しなさい」
なぜアイス中毒の姉が、俺にこれを渡すのか意味が分からなかった。
めぐみは咳払いすると、
「悠一、あなたは風邪を引いて寝込んでしまって、丸一日学校休んだのよ。お姉ちゃん、心配で心配でそれはもう仕方なかったわ。そういうことだから、これは取っておきなさい……。みこちゃんがお見舞いに来てるけど、会えそう?」
みこが……?
俺は迷った。が、わざわざ見舞いに来てくれているのに、断ることなど出来ない。
「会うよ」
めぐみは空のコップを受け取ると、部屋から出て行った。それにしても、ラムレーズンも風邪にいいのだろうか? めぐみの考えることはよく分からない。
しばらくして、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「みこ、です。入ってもよろしいですか? 悠一さん」
「ああ……」
みこに合わせる顔など無い。そんな資格もない。
みこは制服姿で、部屋に入ってきた。
「お身体は大丈夫ですか? 辛くないですか?」
みこは目を腫らしていた。
きっと沢山泣いたんだろう。俺の軽はずみな行動に沢山傷ついたんだろう。
「みこ……いや、みこさん……こそ大丈夫か?」
みこは笑って見せた。
「わたくしは、いつも元気ですよ。でも、ちょっと疲れたかな……ホームルームが終わったら、まっすぐ帰ってきてしまいました」
「みこ……悪かった」
俺はベッドから降りると、土下座した。
「こんなことをしても、許してもらえるとは思ってない。だが、せめて頭を下げさせてくれ。俺はお前を苦しめるような、そんなバカな真似をしてしまった」
「悠一さんは苦しんだんですね……わたくしも、苦しみました……」
頭上から彼女の声。俺は顔を上げると、誤解を解こうとした。
「ちょっと待ってくれ。これには深い事情があってだな」
やはり、二人に正直に伝えなくてはダメだ。たとえ、二人とも自分のもとから去っても、仕方ない。
「わたくしは、悠一さんに甘えていましたのかもしれないです。悠一さんはいつも、わたくしの傍にずっといると勝手に……」
すすり泣く、みこの声、表情、嗚咽。
これはヤバイ。アカン展開や……。早く訂正しないと手遅れになる!
「でも、悠一さんは……ごめんなさい。これ以上、もう何も……」
みこは立ち上がると、勝手に部屋を出て行こうとする。
「俺の話を聞いてくれ!」
「最後に、これだけは言わせてください。わたくしは、悠一さんを……あなたを……待っています。わたくしは……悠一さんはわたくしの……心に決めた人です!」
彼女はそう言い残すと、わっと泣いて、ドアを閉めて去っていった。
「…………」
どうしよう、この展開。
こういう場合、どうしたらいいか教科書なんかに載っているわけが無い。
俺も十六年しか生きていないし、こんな事態を収拾したことが無い。
打つ手なし。
そういえば、みこは思い込みも激しかったっけ。
悩むこと小一時間。ラムレーズンはすっかり溶けてしまった。
*
学校に行くのは気が重かった。しかし、二日も続けて休むわけにも行かないだろう。
俺は玄関を出ると、みこの家を眺めた。
あの二階に、みこの部屋がある。
彼女はあれからどうしたのだろうか。そんなこと分かりきっているじゃないか。だが、みこのことを考えないわけにはいかなかった。
一人でチャリに乗って、一人で河合駅から電車に揺られた後、一人で志樹高校経由のバスに乗る。
当たり前だが、この時間帯は、同じ高校の連中ばかりだ。皆、騒々しいくらい楽しげに話をしているのが、俺の孤独感を一層強めた。
教室に入って、自分の席に着く。みこの方を見ると、彼女は一人で文庫本を読んでいた。
もう、一緒に登校することもないのかもしれない。
「よう! バカは風邪引かないって言うけど、そうでもないみたいだな」
横溝が肩を叩いてきた。
「そうだな」
俺は気のない返事をする。
「何だ、まだ調子が悪いのか? 無理して学校なんか来なくてもいいのによ。オレなら、担任から催促が来るまで、ゴロゴロしてるぜ。あんま、真面目になりすぎると、将来、過労死するまで働かされるぞ」
担任の竹村教諭が教室に入ってきた。
「今日は全校集会があるから、体育館に移動してくれ」
クラスの連中は、例のやつか、などと話をしていた。
俺は晴れない気持ちのまま、竹村教諭が先導するクラスの集団に混じって、体育館へと向かう。
クラスごとに生徒が並び、教師たちも、それぞれ所定の位置に立つと、やがて、校長先生が壇上に姿を見せた。
「今日は、皆さんに悲しいお知らせがあります。昨夜、学校の屋上から一人の生徒が飛び降りを図り、亡くなられました。お亡くなりになったのは、二年生の草薙花恋さんです」
俺は、ハッとした。今、なんて言った?
「……草薙さんが何を悩まれていたのか詳しいことは現在調査中ですが、いじめなどの事実はなかったと聞いております。先生方の見解では、彼女は学業のことで……」
俺の耳に、それ以上、校長の杓子定規な説明は入ってこなかった。
あの草薙、いや花恋が死んでしまった……。
俺の心に走馬燈のように、彼女のことが浮かんでは消えていく。
俺の背中で暴れていた花恋、柏木川の河川敷でゴミを拾っていた花恋、遊園地の着ぐるみパンダ、ハンバーガーショップで、俺に手を差し出す花恋、そして最後に見せた笑顔……。
俺は涙腺が緩みかけたが、ぐっと堪えた。自分が情に脆いことは知っていたが、それではダメだ。
泣いたって、花恋は帰ってこないのだ。
教頭のマスコミの取材云々、という話が終わって、教室へ移動し、また変則的なホームルームという流れになった。
さすがの俺も授業を聞く気にはなれなかったので、早退する、と竹村教諭に伝え、教室を去った。
*
俺は一人、校門を出て、バス停まで歩いていた。
途中、校舎の屋上を見上げる。
花恋……。
あの場所から、彼女は『消えてしまった』。
感傷的になるのを抑える。ダメだ、しっかりしないと。
バス停まで辿り着き、ベンチに腰掛ける。
人の気配がしたので、そちらを見ると、みこだった。彼女は黙って、俺のところまで歩いてくる。そして、何も言わずに俺の隣に腰掛けた。
しばらく、俺たちは一言も言葉を交わすことはなかった。
やがて、バスが来て、俺はみこに声をかけた。
「乗らないのか?」
みこはサッチェルバッグを背負うと、ステップを上がる。
この時間帯は乗車している客も少ない。俺がバスの一番後方の椅子に座ると、みこも隣に腰掛けた。
「草薙さんのことは気の毒だった」
「うん」
みこは小さく応えた。
「本当は、俺は草薙さんに特別な感情を抱いていたわけじゃなかった。本当は彼女が知っている情報が欲しかったから、好きだなんて出任せを言ってしまった」
「うん」
みこは怒った素振りも見せずに、応えた。
「結果的に、みこを傷つけてしまった。釈明の余地は無いと思っている」
みこは黙って聞いていたが、
「わたくしの罪の告白を聞いていただけませんか」
そう前置きして、
「わたくし……草薙さんが居なくなればいいと思いました。彼女の存在を疎ましく思いました。洗礼を受けた身でありながら、そんな恥ずべき思いに駆られていました」
沈黙が降りる。
「わたくし、何の為に、日曜礼拝をしてきたのでしょうか。十戒の中に、『あなたは殺してはならない』という文言がありますが、わたくしは心の中で、彼女を殺したのかもしれないです」
みこは涙を拭いた。
「私は最低な女です。悠一さんの傍にいる資格もありません。草薙さんに、呪われるかもしれません。むしろ、そうされた方がいいと思っています」
俺は何と彼女に声をかけるべきか悩んだ。
「みこ、俺たちは完璧な人間ではない。俺の間違いに比べれば、お前の思いは些末なことだ。俺は草薙さんに申し訳ないことをしてしまった。悔いている。みこの感じたこと、思ったことは、俺の責任だ」
みこは応える。
「そんなこと、ないです。悠一さんは、誰よりも優しい人です。だから、草薙さんも惹かれたんだと思います。わたくしは、今、罪深いことをしているのかもしれません。亡くなった草薙さんのことで、悠一さんに近づこうとしているのかもしれないのだから。卑怯な女なんです。わたくしは、卑怯者です」
みこはハンカチを握りしめていた。
「なあ、みこ、他の奴らが草薙さんのことを忘れてしまっても、俺たちは大人になっても憶えていような。それくらいしか出来ないかもしれないが、草薙さんのことは、絶対に忘れないようにしよう」
「うん……」
バスは三柿野駅に着き、俺たちはバスを降りると、河合駅行きの電車を待った。
「悠一さん、わたくしのことを許してくださいますか? 罪深い、この女を許してくださいますか?」
俺は言った。
「ああ、許すよ。俺も最低のクズ野郎だが、みこの傍にいてもいいか?」
みこは頷いた。
俺はみこの手を取った。彼女は一瞬驚いたが、俺の手を握り返した。