第二章
第二章 承
「今日は皆さんに、悲しいお知らせがあります。皆さんの中にも、ご存じの生徒もあるかと思いますが――」
校長のスピーチが聞こえてくる。俺たちは朝一で、体育館に集められて全校集会に参加していた。そこかしこで女生徒たちの小さな嗚咽が聞こえてくる。
「亡くなった彼女が何を悩んでいたのかはまだ分かっていませんが、いじめなどの噂は聞いておりません。おそらく、進学するにあたり学業のことで悩まれていたのかもしれないという線で私たちは考えております」
横溝の欠伸が聞こえてきた。こいつの脳天気さは羨ましい限りだ。
「皆さんにマスコミの方々が取材を申し込んでくることがあるかもしれませんが、くれぐれも志樹高校の生徒の一員として、節度ある態度で接してください。憶測で話をすることは控えるようにしてください――」
校長のスピーチは続く。俺は昨夜の有馬の伝言のことを考えていた。
今日の放課後、部室に行けば、亡くなった三年生がどうして飛び降りを図らねばならなかったのか、本当の理由が分かるはずだ。
それにしても、彼女が飛び降りる寸前に見せた額の文字は何だったのだろうか?
「それでは、全校集会を終わりにしたいと思います。各自教室に先生方の指示に従って、戻ってください。校長先生の仰ったように、くれぐれもマスコミの取材には慎重に受け答えされることをお願いします」
教頭が話を締めくくると、俺たちは竹村教諭の後に続いて、1―Cのクラスまで移動した。
竹村教諭は、二限目から通常授業が行われることや、もし、悩み事があるのなら、遠慮しないで先生方に相談するように、と伝えて、変則的なホームルームを終えた。
「見沢、何考え込んでいるんだ?」
いつの間にか横溝が俺の席の隣にやってきて、
「お前も何か悩み事があるのか。バカなこと考えるんじゃないぞ。この横溝さまが聞いてやろうか? 相談料は……」
俺は右手を持ち上げると、奴のこめかみを指で思いっきり圧迫してやる。中身がないから、へこむかもしれないと思ったが、頭蓋骨だけはあるようだ。
「止めろよ、痛えな」
横溝は俺の手を振り払うと、
「で、実際のところ、何を考えていたんだ? エロいことだろ。どうせ飛び降りるくらいなら、最後に一発やらせてくれたらよかったのに、あたりか?」
俺は奴をぶん殴ってやろうか、と本気で考えた。
「ま、あまり思い詰めるなよ。学生の本分は、遊ぶことだからな。社会に出たら、金稼ぐことで頭を悩ませなきゃならなくなるんだからさ」
鼻歌交じりに、横溝は去って行った。こいつは社会に出ても、ぶらぶら遊んでいそうなタイプだな。
俺は授業にも身が入らず、もっぱらあの三年生の死の原因について考えていた。放課後に有馬は何を話すつもりなのだろうか?
*
すべての授業が終わり、ホームルームも済ませると、俺と同じようにこの時を待っていたらしい、みこが傍に来て、
「それじゃあ、行きましょうか。悠一さん」
「ああ」
二人揃ってクラスを出て行く。
俺とみこが一緒に行動するのが、クラスでは当たり前のような空気になっていたので、誰も気にも留めない。
「わたくし、もう、あの三年生の方のような人がこれ以上出るのは嫌です。昨日のこと、冷静に考えると、気が動転していたとはいえ、人の命を天秤にかけるような考え方をした自分を恥ずかしく思っています……あんなこと、言うべきではありませんでした」
みこは、しかし、どこか凜としていた。
「絶対に、彼女を死に追いやった黒幕を見つけ出して、反省させましょうね、悠一さん」
「そうだな……」
俺は少し言葉に窮した。
その黒幕とやらを見つけ出して、反省させるだけで良いのだろうか。それだけで済む話なのだろうか。それで彼女は報われることになるのだろうか?
「こんにちは」
宗教学研究会のドアを開ける。
「うわ、何だこれ?」
驚く俺の横から、みこも顔を覗かせて、
「まあ、どうしたんですか、この部屋は?」
同じように彼女もびっくりしている。
西側の窓は黒の遮光カーテンで閉められ、天井の蛍光灯も消されていて、唯一の光源はテーブルの四方に立てられたローソクだけである。
紫の布で覆われた、いつものテーブルの上には何十枚ものカードらしきものが並べられていて、その脇には、ご丁寧に頭蓋骨の模型まで添えられている。何か邪悪な儀式でもするかのようだ。
近寄ってみると、有馬は十字型に並べられたカードを見つめて、何かを考えている様子だ。その脇に、霧島さんが立っていて、同じようにテーブルの上に視線を落としている。
「どうしたんですか、一体、この部屋は?」
俺たちが入っていくと、霧島さんが唇に指を当てて、『しっ』と静かにして欲しいと合図してきた。仕方なく、俺は黙り込む。
有馬は顎に手を当てたり、指先でカードを軽く叩いたりしていたが、やがて背もたれに深々ともたれかかった。
「もう、良いですよ、部長」
「えっ……?」
霧島さんが困ったような顔をする。
「ああ、そうですね。僕が開けますよ」
有馬はそう言うと、蛍光灯のスイッチを入れてから、ローソクの火をスプーンのようなもので消して、遮光カーテンを開けた。
急に眩しくなって、俺は思わず目を細めた。
「何をされていたんですか?」
そう訊ねる俺に、霧島さんは、有馬くんの占いよ、と答えた。
有馬は再び席に着くと、
「古代から人類は卜占に頼ってきました。日本では、卑弥呼、いや、日巫女が天からの啓示を受けて、政治を左右していましたし、西洋でも同様です。最近では占いは、人々が恋愛運や仕事が円滑に進むかどうか等を知りたいと思って行われていますが、本来、神聖なる啓示を受けるためのもの、魔術の一種です。単なる遊びではないんです、これは」
それまで黙って聞いていた、みこが声を上げた。
「わたくし、これは許せません! 魔術は人を惑わせる退廃的な考え方です! 反基督教じゃないですか! 有馬先輩は邪教徒です!」
そう声を荒げる。有馬は嘆息した。
「そういう考え方もあることは知っています。暗黒の中世で、有名な魔女狩りが行われ、多数の何の罪もない人々が殺されました。過激なクリスチャンの御国さんは、そう思うだろうと思って今まで、お見せしませんでした。が、御国さんがクリスチャンなら、僕は魔術の嗜み(たしなみ)として占いもするんです。あなたが信仰を捨てないように、僕も占いは捨てません」
有馬は毅然とした態度で、みこに対峙した。
みこも、有馬を睨み付けて一歩も譲ろうとしない。
霧島さんは、ただ、うろたえているだけだ。ここは俺が何とか場を収めなければいけないか。
「みこ、お前は昨日、この世を去った女の子の命と、寛容でない自分の主張のどちらが大切だ? 有馬先輩は彼女のような人間をこれ以上出さないために、彼なりに尽力しているんだと思う。小さなことで、いや、価値観が多少違うからといって仲違いすることが、亡くなった女の子の為になるだろうか? 俺はそうは思わない」
みこは、しかし、引き下がらない。
「悠一さんがそう仰っても、これだけは許すことは出来ません。『世の友となるものは、神の敵となる』。失礼します!」
みこはそう言い残すと、踵を返して、部室のドアを乱暴に閉めて去って行った。
「見沢くん、追い掛けてください」
有馬が言った。
「彼女は相手にとって格好の獲物です。今、彼女を一人にしてはいけません。さあ、早く!」
俺は有馬の言葉を心の中で反芻した。相手? 彼には三年生の女子生徒を死に追いやった具体的な犯人が分かっているのだろうか。
「私もみこちゃんをこのまま放っておくのはよくないと思うわ。見沢くん、男の子ならこんな時、どうすべきか分かるかしら? 傷心の彼女の傍にいてあげてほしいな」
霧島さんも同調する。
仕方ない。
「分かりました。みこを追い掛けます!」
そう言って、部室を後にした。
*
みこの奴、何処へ行ったんだ?
俺は一旦、1―Cの教室まで戻ると、みこと親しかった女の子たちに訊ねてみる。うちらは見かけてない、との返事だった。
となると、みこは河合駅行きのバスに乗って、帰宅したに違いない。俺は急いで、バス停に行ってみたが、バス停の備え付けのベンチには、数人の生徒が腰掛けているだけで、みこの姿はなかった。
タイミングが悪く、ちょうど、バスが出発したあとのようだ。
俺もベンチに腰掛けて次のバスを待とうとしたが、みこに直接電話をかければいいとようやく思い至った。慌ててスマートフォンを取り出すと、電話が鳴った。みこからかもしれない。
急いで電話に出る。
「有馬です。あなた、何をやってるんですか?」
「みこがバスに乗ってしまったんですよ。だから、俺も次のバスに乗って……」
受話器の向こうで有馬の溜め息が聞こえてくる。
「これだから、魔力もなければ、頼りがいもない人間は使えません」
随分な言い方だ。それに魔力って何だ? そんな非現実的な言葉を使う方もどうかしている気がするが。
「御国さんはまだ校内にいます。面倒だから、場所を教えます。図書館の一階です。彼女はそこで禁帯出本の聖書関係の資料を読んでいます。早く行ってください」
そこまで分かっているのなら、お前が代わりに行けば良いだろ。
有馬にそう言おうとした矢先、電話は切れた。くそっ、仕方ない。
俺は校内に舞い戻って、急いで図書館へ向かう。ゲートを通過した途端、視界が歪んだ。
何だ、これは目眩か三半規管の狂いか?
だが、次の瞬間、顔の横を何かが素早く掠めていった。頬が焼けるように熱い。右手を当てて見てみると、べっとりと血が付着していた。後ろを振り返ると、小型のナイフが赤紫色の壁に突き刺さっていた。
素早く視線を動かすと俺はいつの間にか、淡く揺らめく、この壁にドーム状に包まれていた。
こんな壁が図書館にあるはずがなかった。そして、同じ空間には一人のツインテールをした少女の姿がある。
「無能力者は邪魔だから、死んでしまいなさい!」
志樹高校のブレザーを着た、目つきの鋭い彼女は妖しげな切っ先の鋭い小さなナイフを手にして構えている。
どこかで見たと思ったら、何時ぞやの、みこを無理矢理カメラで撮影した風紀委員の女ではないか!
「ちょっと、待て! 俺には状況がよく分からない! ここは何処だ? お前は何者だ? これは映画研究会の撮影か何かなのか……?」
「問答無用!」
彼女は両腕を胸のところでクロスさせると、素早く開いた。ナイフが雨あられと飛来してくる。避けようにも間に合わない!
無駄だと分かっていても、俺は反射的に上半身を腕で守ろうとした。と、俺の頭にズキッと痛みが走った。この痛み、前にも何処かで感じたような……。
――カラン、と乾いた音がした。
「うそっ! 『加護』!」
うっすらと目を開けると、驚いている女生徒の姿が見えた。足下には切っ先の鋭かった数本のナイフが、先端がぐにゃりと曲がって転がっている。
「話が違うじゃない! こいつはただの一般人のはず! 魔力があるなんて!」
なんだと、俺に魔力が? そんなはずはない。俺は今までこんな摩訶不思議なスキルなんて経験した試しがないぞ。ゲームの世界なのか、ここは?
「ちっ! ならば、これはどう?」
少女は目を閉じて、ぶつぶつ言い始めた。咄嗟に閃く。ここがゲームの世界なら、彼女がしているのは、呪文の詠唱のはず! ならば!
「させるかぁ!」
俺はナイフ女まで素早く駆け寄ると、思いっきり右手でぶん殴った。ファンタジー世界なら、攻撃してくる魔法使いに呪文が完成する隙を与えないのが定石である。
彼女は派手に吹き飛んだ。俺は確かに本気で拳を振るったが、よもやここまで自分のパンチに威力があるとは思わなかった。
がはっ、と呻いて少女は床に叩き付けられた。そのまま、ビクともしない。まさか、死んでしまったんじゃないだろうな? 手加減は、多少はしたんだが……。
「おい、大丈夫か?」
倒れた女生徒に駆け寄ると、上半身を持ち上げる。彼女は喀血した。ヤバいんじゃないのか、これ。
「し、雫さま……に栄光……あ……れ!」
と彼女は口にすると、ぐたりと身体が弛緩した。
マズったかも……。早く、手当てをしなくてはいけない! 救急車か? しかし、ここはゲームの世界なんだろ? 誰か何とか言ってくれ!
「悠一さんっ!」
みこの声がする。彼女は図書館に出現した謎の壁を、両手で引き裂いて、駆け寄ってきた。あーっ、何だか、もうメチャクチャなんですけど!
「早く彼女を保健室へ連れて行きましょう!」
「分かった、保健室だな!」
パチン、と何処かで指を鳴らす音が聞こえた。
それまで俺たちを覆っていた赤紫色の壁が緩やかに消滅していく。いつの間にか、俺たちの周りは現実を取り戻し、図書館の元の場所へと変貌していった。
「見沢くん、君は一体……いや、話は後にしましょう。彼女は念のため、御国さんの言うとおりにしてあげてください」
いつの間にか、渋面の有馬が立っていた。
彼はそう言って、図書館のゲートを通って去って行った。先ほど、指を鳴らしたのは有馬の奴だろうか?
がやがやと倒れた女生徒や俺とみこに、不審げな視線を送っている生徒たちの存在に気づく。すっかり現実世界に戻ったらしい。ここに長居は無用だ。
俺は女生徒を背中に背負うと、みこと一緒に図書館を抜けた。保健室のある南の教室棟へと向かおうとする。
「……放して」
背中から声が聞こえてきた。
「放せって言ってるのよ! この変態野郎!」
ガンッ、と頭を強打された。痛いな、何しやがる。背中に負った女生徒が暴れ出して、俺は抱えきれなくなって、慌てて彼女を降ろさざるを得なくなった。
「あなたは先ほどまで、大怪我をなさっていたんですよ。わたくしたちと、保健室まで行かないといけないです」
「うるさいっ! 無用な情けをかけて、これ以上、私を愚弄するな!」
女生徒は俺たちを、きっと睨み付けた後、みこの言葉を押し切って、自分の足で教室棟の方へと走って消えていった。
しばし、呆然とする俺だったが、
「あの様子だと、大丈夫みたいだな」
「ええ、そうかもですね。あっ、悠一さん、頬に怪我をなさってるじゃないですか!」
「ああ、これか。ちょっと、ナイフで切られたからな」
みこが傷口に顔を寄せてくる。ちょっと距離が近いよ、お前。
「わたくしたちも保健室へ行きましょう! 出血してますから!」
「大したことないよ。唾付けとけば治るよ」
「ダメです。行きましょう!」
みこが手を掴んで引っ張るので、仕方なく教室棟の方へ向かうことにした。彼女には自分で歩けるから、と伝えて手を繋ぐのはやめさせた。
俺は今までの出来事を整理しようと頭をフル回転させる。
突然、図書館ではない場所に誘われたこと、例の女生徒の現実ではあり得ない奇襲、そして、やはり現実ではあり得ない俺の不可思議な力の発生、等々――。
何だか、別の意味で頭が痛くなってくる。
「みこ、お前は図書館で何が起こったか分かるか? 現実離れした話でも今は何でも信じられる気分だから、遠慮なく言ってくれ」
みこが言うには、本を閲覧していると、突然謎の大きな球体が現れて、その中から、水の中から聞こえてくるような、くぐもった音で、俺や先ほどの女生徒のやりとりがあり、俺のことが心配になって、その壁を何とか潜れるように祈りながら壁と格闘したら、中に入れた、ということだった。
二人で身の回りに起きた出来事を突き合わせて検討したが、科学的で合理的な解答は得られそうもなかった。
「有馬先輩に訊くしかないな。あの人も妖しい世界の住人みたいだし」
オカルト雑誌の表紙を、座禅を組んで手で印を切って表紙を飾っている有馬の姿――。似合うかもしれない。精神世界に興味がある女性たちがポスター買っても不思議じゃないな、などと考え始める。いかんな、異様な体験をしすぎて、頭のキャパシティを超えたか。
保健室で適当に怪我の理由を説明したが、『傷が深くて縫う必要があるわね』と言われてしまった。そんなに酷いのか。
「応急手当はしておくけど、ここでは治療できないから、あとでちゃんと病院へ行ってくださいね。猫に引っ掻かれただけで、こんな傷になるのかしらね」
不審がられるが、事の経緯を事細かく告げたら、別の診療を受けさせられそうなので黙っておく。
保健室から出て、俺とみこが宗教学研究会の前まで行くと、『本日の部活動は終了しました』とプラスチックの小片がぶら下がっていた。
念のためドアを開けようとしたが、鍵がかかっている。
霧島さんも有馬の奴も帰宅してしまったらしい。霧島さんはともかく、有馬の奴は無責任すぎはしないか。
「仕方ない。今日は帰るか」
「そうですね。あっ、わたくし、ちょっと友達に用があるので、先に帰っていてくださいませんか? あと、病院でちゃんと縫合してもらわないとダメですよ」
「病院は嫌いなんだけどな」
「悠一さんの悪い癖ですね。明日、確認しますからね」
「面倒くさいな」
そんなやりとりを交わした後、みこと別れた俺は、一人で下駄箱に向かった。
「……!」
スニーカーの上に、何かが乗せてあった。何だろうか?
俺はそれを手に取る。ピンク色の封筒である。後ろをめくると、封蝋がしてある。まさか……!
これは世にいうラブレターというやつでは?
封筒には丸文字で『見沢くんへ』と記されている。
明らかに女の子の文字だ。だが、みこのものでも、姉のめぐみの字でもなさそうだ。一体、誰が……?
まさか、横溝のアホがつまらないドッキリでも仕掛けているんじゃないだろうな、と思い、周囲を見回すが、人気はない。
それに、こんなにも手の込んだ悪戯をする知恵など奴の頭にはないだろう。ええい、ままよ!
俺は封筒を破って中を見てみた。
便箋には、『忠告 裏切り者が身近にいます。あなたの秘密を誰にも悟らせないで。 親愛なる友より』とだけ書かれていた。
愛の告白でも何でもなかった。悪戯にしても中途半端である。
多少期待していただけに、中身のない紙切れ一枚を恨めしくも思った。
一体誰がこんな訳の分からない紙切れを俺によこしたのか。
考えられるのは、霧島さんくらいである。彼女がどんな字を書くのかは分からないが、その他に仲の良い女子は浮かんでこない。
俺はその封筒と便箋を誰にも読めなくなるように細かく破った後、下駄箱近くのくずかごに入れた。
身近な裏切り者? 俺の秘密? まさか、ベッドの下の、女の子には、特に姉のめぐみにだけは露見してはいけない俺の秘蔵本のことではないだろうな?
めぐみにアレを見つけられようものなら、俺は一生奴隷としての生涯を送らねばならない。しかし、そんな男子高校生の誰にも口外できない懊悩を知っている奴がいるとは思えない。
くだらない疑心暗鬼に振り回されて、俺はどっと疲れてしまった。帰りに駅の近くにある形成外科に寄って、治療を済ませたあと、帰宅して早めに就寝した。
*
「少年よ……」
うっすらとした意識の中で誰かが俺の名前を呼んでくる。
「ジュースの若者よ。私……ごほん、ごほん……わしじゃよ、何時ぞやの駅で、おぬしに出会った最終解脱者のわしじゃよ……」
俺はしわがれた爺さんの声に目を覚ました。
いや、正確には俺は夢の中で目が覚めたらしい。夢の中で、これは夢だ、と気づくことがたまにあるではないか。今の俺はまさに、そんな状況だった。
「おぬしは“覚醒”したのじゃよ。つまり、わしがおぬしの中に眠っていた力を引き出してやったのじゃ。気分は、どうかの?」
どうせ夢の中で会うなら、可愛い女の子が良かった。それが、こんなしなびた爺さんと出会わなくてはいけないとは。
「おぬしの前には、大いなる災いが待ち受けていると星々が語っておる。じゃが、おぬしに秘められていた力で運命を切り開くが良い。裏切り者は身近におるから、くれぐれも私……ごほん、ごほん、との邂逅については沈黙していてね……ごほん、ごほん……沈黙するのじゃぞ」
うるさい老人だな。俺の下駄箱のアレもあんたの仕業か?
「男子の下駄箱にあんな物を忍ばせるのは、私に……ごほん、ごほん……わしにとって顔が真っ赤になるくらい恥ずかしかったの……恥ずかしかったんじゃよ。それなのに、あんなにもビリビリ破いて捨てたから、念の為に、こうして出向いてきたのじゃ。ゆめゆめ、わしの忠告を無駄にするでないぞ。分かったかの? ジュースの若者よ」
誰がジュースの若者だ。俺には見沢悠一という名前がある。
「では、見沢めぐみの弟よ……」
どうして、そこで姉の名が出てくるんだ?
「おぬしの力は限定された状況でしか使えぬ。おぬしが真に愛する者を守ろうとする時、身体能力は飛躍的に向上し、必要に応じて一部の防御魔法も呪文を唱えることなく発動する。言っておくが、余りにも力を発揮しすぎると、その反動で疲労も蓄積されるから、気をつけなさい。か弱いヒロインの為に傷だらけで戦う男の子……そして、その後の熱い抱擁と接吻……。一度でいいから、私もそんな風に守ってもらえたらいいのに……ごほん、ごほん、今のはナシじゃ」
俺も聞かなかったことにしたいね。少なくとも、爺さんから聞きたいセリフではないぞ。
「では、お姉さんによろしく伝えてくだされよ、めぐみ、じゃなかった、ジュースの若者よ。ついでにお前さんの傷も治してやっておこうかの。弟子がしたことの後片付けじゃて」
しつこいわ。人の名前を覚えない御仁だな。それに何だか馬鹿にされている呼び方だぞ、それ。
――ピピピピッ!
目覚まし時計が耳元で鳴り、俺は本当に目が覚めた。何だったんだ、さっきの夢は。
「……頭、痛え」
高校に入ってからというもの、訳が分からないことが多すぎる。少しは俺のメンタル負担も考えてくれ。
「……ん?」
俺は右の頬に手を当ててみた。痛みが取れている。
立ち上がって、鏡の前でガーゼを剥がしてみると、傷口が塞がっていて、完全に元通りになっていた。
「……何なんだ? 一体?」
俺は日常生活が少しずつ崩壊しているのを感じた。
*
「というわけで、現在完了形には、完了、結果、経験、継続の四用法があり……」
二限目の英語の時間だが、俺はまったくもって集中できていない。
何しろ、俺はどうやら、覚醒してしまったらしいのだ。
河合駅で爺さんに小金を恵んでやったら、杖で脳天を打っ叩かれて、愛する者の為なら、物凄いパワーと魔法すら使える、魔法戦士になってしまったらしい。
そして、ヒロインを救った暁には、俺は彼女からのご褒美としてキスまでしてもらえるようだ。それも、リアル世界の話で、だ。とんだ英雄譚だぜ、まったく。
あの正体不明の爺さんは俺に口止めをしたが、そんなことしなくても、こんな話を一体誰に出来るというのだ?
アホの横溝ですら、こんな話を俺から聞いたら、爆笑するか、哀れみの目で俺を見て病院行け、とか言ってくるレベルだぞ、これは。
みこの方に目をやると、一心不乱に板書された要点をノートに書き込んでいる。
昨日のことはまるで気にも留めていない風である。
昔から変わっている女だが、幽霊であろうが、ファンタジー世界であろうが、平気で受け入れてしまうようだ。
たとえ、校舎の壁めがけてドラゴンが炎を吐いても、冷静に消防に通報しそうなタイプだ。
エキセントリックで不穏な言動があるかと思えば、適応能力は高いらしい。
とても俺には真似できそうもない。おまけに、裏切り者が近くにいるとか、いないとか。 もう、俺の情報処理能力のキャパシティを完全に超えている。
成績が、ガタ落ちするかもしれない。
ふざけるな。どうして俺を現実世界から、みんな遠ざけたがるんだ?
俺は異世界の勇者になって世界を救うより、現実世界で堅実な人生を歩みたいんだ!
いい大学、いい会社に入って、二十代後半くらいで結婚して、休日には子供をテーマパークに連れて行ったりして、マイホームを建て、老いてからは孫の顔を見て、幸せを実感する、そんな人生を送るはずだったんだ。
俺は、放課後まで失望と闘い、煩悶し、ついに一つの結論を出した。
スマートフォンで有馬からの電話を着信拒否設定し、メールもラインも連絡手段をすべて拒否にしておいた。
みこがいつものように俺の隣にやってきた気配がした。俺は机に突っ伏したままだった。
「悠一さん、具合が悪いのですか? 昨日のお怪我のせいですか?」
心配そうな、みこの声が頭上から降ってくる。
「部活には出られそうですか? それとも、もう、帰られますか?」
俺は半身を起こすと、みこに向き直った。彼女の顔の割りに大きな瞳を真っ直ぐに見る。みこも目を逸らさない。
「部活は辞める。霧島さんにそう伝えてくれ。それと、みこにも辞めてほしいと思っている。お前があの部活に関わると、また危険なことが起こるかもしれない。俺はお前を助けることが出来るかもしれない。だが、貴重な高校時代を棒に振るのは御免なんだ」
しばらく沈黙が降りた。
「では、わたくしも、辞めます。悠一さんがそう決めたのなら、仕方ありません。わたくしも、辞めます。わたくしは、笑顔の悠一さんをずっと見ていたいから」
彼女は申し訳なさそうに続ける。
「ごめんなさいね、悠一さん。悠一さんは、きっと一人で悩んでいたのですね。大丈夫ですよ。わたくしは、どんなことがあっても、あなたの味方です。悠一さんに辛いことや、苦しいことがあるならば、半分は私が引き受けます。だから、もう悩まなくてもいいんですよ。今まで、悠一さんの辛さに気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
みこは俺の肩にそっと手を置いた。俺はみこの手を握ると、静かに引き離した。
「みこ、俺は女の子に好意的に接してもらうことは嬉しいが、同情や情けをかけられるのはあまり好きじゃない。お前はいつも優しいし、それは得がたい美徳ではあるが、行き過ぎた優しさは必要ない」
みこは頷いた。
「では、一度だけ、部活に顔を出してきます。わたくしと、悠一さんの分の退部届を提出しに行きます。すぐに戻ってきますから、待っていてくださいますか?」
「すまない。今、俺はあの部室を訪ねたくはないんだ。そうしてくれると助かる」
みこは立ち上がると微笑んだ。
「すぐに戻りますから」
そう言い残して、彼女は教室を去って行った。俺は再び机に俯せになった。
*
それからどれくらい時間が経ったのだろうか。
俺が机から顔を起こすと、教室には誰もいなかった。
窓の外は暗い。
すでに日没が過ぎてしまったのだろうか。
どうやら、俺は予想以上に疲れていたようで、そのまま眠りこけてしまっていたらしい。
みこは……?
彼女が部室へ向かったことまでは記憶していたが、あれからどうなったのだろうか?
無事に退部届を出したのだろうか?
みこは教室へ戻ってきて、眠っている俺を起こすまいと先に帰ったのか?
俺はぼんやりと頬杖をついていたが、急に彼女のことが心配になり、電話をかけてみた。
「……?」
受話器からは何も聞こえてこない。
留守電でもなければ、電源が入っておりません、とのメッセージも流れてこない。何かがおかしい。
すると、竹村教諭が教室に入ってきた。
「何だ、見沢。まだ居たのか。もう六時を回っているぞ。帰りなさい」
「先生、みこ、いや、御国さんを見かけませんでしたか?」
竹村教諭は怪訝な顔で、
「御国? そんな生徒は知らないが」
「……は? 冗談は止めてくださいよ。このクラスの担任でしょう? 御国みこ、出席番号三十九の御国、ですよ」
ふーむ、と竹村教諭は頬を掻いていたが、
「このクラスは三十八人しか居ないぞ。何か、勘違いでもしてるんじゃないのか?」
勘違いって、そんな……。
「先生、悪ふざけは止めてください! 俺と同じ南中学校出身の御国です! ほら、髪が短くて、背も低い、女子生徒ですよ! 数学と英語が得意で、結構可愛い感じの女の子です!」
竹村教諭は困った顔をしている。
「見沢くんには申し訳ないが、そんな生徒は私の受け持ちではないよ。他のクラスじゃないのかい?」
俺は呆然とした。まさか、みこがいないことになっている……?
「失礼します!」
俺は慌てて、宗教学研究会の部室に向かった。
だが、『本日の部活動は終了しました』というプラスチックの小片がかけられていた。
くそっ!
俺はバス停から三柿野駅を経由して、河合駅へ向かい、チャリ(自転車)で、みこの家まで訪ねた。
チャイムを何度も押すと、みこの母親が出てきた。
「まあ、どうされましたか? うちにどんなご用?」
「みこは? みこはまだ帰ってこないんですか?」
俺の問いに、
「……みこ? みこというのは、どなた?」
おばさんは首を傾げた。
「おばさんの娘さんですよ。俺の幼馴染みで、今は志樹高校に通っているんです。覚えてらっしゃらないのですか?」
おばさんは困惑した顔で、
「私ども夫婦には、子供はおりませんよ。見沢さん家もご存じのはずですが」
そんな、馬鹿な……。
「夜分にお邪魔して申し訳ありませんでした」
そう非礼を詫びて、自宅に戻る。
俺は二階にある、姉のめぐみの部屋を開けた。
めぐみは机で読書をしていたが、こっちを見るなり、
「ちょっと、ノックもしないで入ってこないでよ。絞め殺すわよ」
そんな、いつもの恫喝も、気にしている余裕はなかった。
「なあ、姉貴。俺には幼馴染みの、みこっていう女の子がいたよな? この前もカノン高等科で一騒動起こした女の子。姉さんがあんまり好いていない娘なんだが」
めぐみは、本にしおりを挟むと、こちらへ椅子を回転させて、
「知らないよ、そんな娘。あんた、寝ぼけてるんじゃないの?」
「なあ、みんなでグルになって俺をからかってるんだろ? 本当は、皆、みこのこと、知っててとぼけてるんだろ? 頼むから、悪趣味な冗談は止めてくれ」
めぐみは嘆息する。
「みこ……ねえ。ちょっと、聞いたことないわね。それより、あんた、大丈夫? 顔が青いわよ」
俺はそれ以上、何も言えずにドアを閉めた。
「そうだ、アルバム……!」
南中学校の卒業アルバムを押し入れから取り出して、ページを繰る(くる)。
どうか、いますように! どうか、いますように!
だが、みこが所属していたクラスのページに、彼女の顔写真は載っていなかった。彼女が入っていた吹奏楽部の写真にもない。
「何故だ! どうしてなんだよ……」
卒業アルバムが滲んだ。いつも一緒に居た、みこ。
小学校の時、初めて二人で一緒に入学写真を撮ってもらった時、彼女はそっぽを向いていた。あの頃は喧嘩もよくしたなあ。
みこが『宝物』にしていた祭りの露店で買った、安っぽい指輪を窓から投げ捨てて、後でこっぴどく叱られたこともあったっけ。
中学校時代は一時期お互いを避けるようになった頃もあったけど、二年生の時には『友チョコ余ったから』と言って、俺にラッピングされた包みを渡して、逃げるように去って行ったこともあった。
三年の文化祭では巨大アートの企画が持ち上がって、絵の具を手に、学校に遅くまで残って、必死になってモナリザの模写を完成させようと頑張ったこともあった。
俺がバケツの水をひっくり返したものだから、その部分だけ、台紙を取り除いて、二人で何とか修復した。完成した時には、二人で笑ったなあ。
でも、どこにも! すべての写真の、みこの映っていた部分だけが、後ろの背景に置き換わってしまっている。
俺から、思い出まで取り上げる気なのか?
なあ神様、あんた、いつも、みこの言葉を聞いていたんだろ。なら、どうしてこんな酷い仕打ちをするんだよ。みこは、あんたを信じていたんだぜ。あんた、それを裏切る気かよ。
(悠一さん……)
不意にみこの声がした。俺は思わず顔を上げた。
(わたくしの傍に来てほしいの。外に出てきて)
「みこ……なのか?」
俺の問いかけに、
(そうよ……表に出てきて)
俺は急いで部屋を出て、家の門を開ける。夜の帳の降りた、家の前の路地に出る。静けさに包まれた住宅街。
「何処にいるんだ、みこ、姿を見せてくれ!」
(中央橋で待ってる)
俺はチャリを出すと、ペダルを漕いで北へ向かう。
人っ子一人いない大通りをひたすら進んでいく。
チャリの車輪の音だけが響く。やがて、中央橋に辿り着いた。
「みこ、何処にいる?」
満月に雲がかかっている。月明かりと街灯が中央分離帯を挟んだ、二車線の道路を照らしていた。車は一台も通らない。
(わたくし、天国にいるの)
「何だって?」
(何の苦しみもない、素敵なところよ。そこで一緒に暮らしましょう?)
「お前と一緒にか?」
(そうよ。悠一さんはとても疲れていて可哀想。すぐに楽になれるわ。ほら、そこの柵を越えてみて?)
俺は鉄の柵に手を掛けた。眼下には柏木川の河川敷が見える。
(飛び降りてみて。大丈夫よ、痛くもないし、何も怖いことはないわ。悠一さんがそうしないと、わたくしと会えないんですもの)
「いや、しかしだな……」
(悠一さんは、わたくしのことが嫌い?)
「そういう問題じゃない。俺はまだこの世に未練がある。それに、みこ、お前がたとえ天国にいるとしても、お前はそんなわがままを言うような女の子じゃなかったはずだ」
褐色の柵を前にして、俺は空を仰いだ。
沈黙が降りた。
(そう……やっぱりダメか……じゃあ、手伝ってあげる)
「えっ……?」
俺の身体が勝手に動いた。両腕に力が入って身体が持ち上がる。今度は右足が持ち上がって柵の上に足がかかった。
「……みこ?」
彼女からの返答はない。その時、何かに腰を掴まえられて、バランスを崩した俺は地面に叩き付けられた。意外と柔らかい感触がする。
「悠一さんっ!」
また、みこの声だ。
「しっかりして!」
俺は平手打ちを食らった。何度も、何度も。
「目を覚まして! バカな真似は止めて!」
痛い。それでも、誰かが俺の頬を叩き続ける。
(……ちっ! 本物が来たか)
俺は我に返った。
気がつくと、場面は夜の中央橋から、夕日が照る校舎の屋上に変わっていた。
俺の目の前には、みこの姿があった。彼女は泣きながら、手を振り上げている。
「もう少しだったのに! 忌々しい!」
そう女の声がして、遠くで乱暴に硬質の扉が閉まる音が聞こえてきた。
俺はみこの手を掴んだ。
「みこ、お前か? 幽霊じゃないんだな?」
「悠一さん! どうして、飛び降りようとなさったんですか! どうして、こんなことを……!」
俺はゆっくりと半身を起こした。みこは俺の傍らで泣きじゃくっている。俺は状況を把握するのに少し時間がかかった。
「そう、か……」
どうやら、俺は件の女子生徒が飛び降りた柵を乗り越えようとしていたらしい。
ぞっとした。
危うく、彼女の二の舞になるところだった。それにしても、あの一連の出来事は何だったのか?
「みこ、お前は部室に行ったのか?」
「そんなことより、死にたいくらい辛かったのなら、どうしてそう言ってくれなかったんですか! わたくしで良かったら、いくらでも相談に乗ったのに! 悠一さんにとって、わたくしは、そんなにも頼りない存在だったんですか!」
いや、そうじゃなくて。
「悪い夢を見ていたんだ。俺はみこがいなくなった世界にいて、お前の呼びかけについていったら、中央橋で、『天国にいるから、一緒に来て』とか言われて……。それで橋の柵を乗り越えかけたところで目が覚めたんだ」
みこは涙を手で拭いている。
「わたくしは、たとえ天国へ旅立ったとしても、悠一さんを道連れにしたいなんて思いません!」
いや、だから。
「全部、夢の話さ。俺も死ぬ気は無かったんだ。でも、勝手に身体が動いて柵を乗り越えかけたんだよ。どうしてかな? まさか!」
これも誰かが誘導したというのか? しかし、今まで“女子生徒”しか不審死は遂げていないはず。
「なあ、俺の額に何か文字か記号が書いてあるか?」
みこは俺の前髪を手で少しかきあげたが、
「何も書かれてないですよ」
そうか。じゃあ、手口が違うのか?
俺には夢遊病者の体質はないし、今まで経験したこともない。
やはり、誰かが……そういえば、最後に若い女の声がしたな。
「みこ、俺の傍に誰かいなかったか?」
「わたくしは悠一さんのことで頭がいっぱいで、よく覚えてません」
そうか。考えても良く分からないな。
みこがこの世界から消える悪夢に、身体が勝手に動いて柵を乗り越えさせられる件、最後に聞こえてきた女の捨て台詞……。
やはり誰かに誘導された気がする。俺もターゲットにされているのか?
「これは参った。実に由々しき事態だ」
髪の毛をクシャッと掻いて、ごちる。
俺が宗教学研究会を辞めようが、得体の知れない敵は襲ってくるんだ。
どうやら俺の順風満帆な人生設計は、この一連の事件を解決しない限り、頓挫したまま、というわけか。乗りかかった船、という言葉の通りか。
やむを得ない。あんな悪夢を見せつけて、俺を弄した借りはきっちり返させてもらう。
「みこ、心配させてすまなかった。どうやら俺も狙われているらしい。それから助けてくれてありがとう。もう少しで、死ぬところだった」
「そんなこと当たり前です。わたくしは、他の人でも助けますし、悠一さんなら尚更のことです」
俺は、みこが今までどうしていたのかを訊いてみた。
彼女曰く、部室に行ったが、部活はやっていなかったらしい。教室に戻ったが、俺の姿はなかった。なにやら悪い予感がして学校中を探したが、何処にもいなかったので、もしかして、と思い屋上に上がったら、施錠されているはずの扉が開いていて、俺が柵を乗り越えかけているところを発見した、ということだった。
またしても、屋上の鍵は開いていたのか……。
「一度、職員室へ行ってみよう。あの例の鍵を誰かが借りたはずだ。そいつが怪しい」
みこも頷いた。
俺たちは一階の職員室へ向かった。先生方が、机に向かって仕事をしている。鍵を管理している人が分からなかったので、たまたま居合わせた竹村教諭に訊ねる。
「屋上の鍵だって?」
竹村教諭は俺たちに説明した。あの鍵は誰も持ち出さないように、他の学校の鍵とは別に校長の金庫に厳重に保管されているそうだ。そして、その番号を知っているのは、校長と教頭だけで、誰も金庫に近づいたものはいないらしい。
俺たちがその鍵が開いていたことを告げると、職員室は騒然となり、竹村教諭含めて数人の教師たちが俺たちを先頭にして、屋上へと一緒に確認の為、上がっていった。
「あれ……?」
扉の錠前を回すが、鍵がかかっていた。おかしいな、独りでに閉まったりするわけがないのだが。もしや、合鍵か?
先生方は渋い顔をしていた。俺たちがすぐにバレる嘘をついているとは考えにくいし、合鍵の存在があるなら、由々しき(ゆゆしき)事態である。
「この件は先生たちで解決しておく。君たちは決して口外しないでくれ」
教師たちはそう念を押して、引き揚げていった。
「これから、どうしましょうか?」
バス停まで一緒に歩きながら、みこが口を開いた。
「しばらく様子見だな。後手に回るのが悔しいが。あとは、また部活の先輩との話し合いくらいだな」
結局宗教学研究会とは縁が切れないな。そういえば、まだ有馬と話もしていない。彼とは一度じっくり話す必要がある。
「そういえば、明日からゴールデンウィークですね」
みこの言葉で、しばらく連休が続くことを思い出した。
ここのところの不穏な出来事に悩まされていて、すっかり忘れていた。
俺は手放しでは喜べなかった。休みがあるのは嬉しいことだが、今の心境は休日を楽しめるようなものではない。
休みの間に、俺やみこの身に何かあるかもしれない。
みこが何か期待した目で俺を見てきた。何だ、気持ち悪いな。
「休みの間にわたくしの身に何か起こったらと考えると不安になります」
みこは微塵も不安の欠片も感じられない笑顔で、俺の前方で体をくるりと方向転換して言った。彼女の仕草は、よく青春ドラマとかにあるワンシーンを彷彿とさせた。
「誰か一緒に過ごしてくれる、頼りがいのある男の子と一緒にいたいです。そんな人、何処かにいないでしょうか? ね? 悠一さん?」
みこはニコニコしている。霧島さんの真似でもしているつもりか?
はあ、分かった。
「みこ、頼りになるかどうかは分からないが、俺と一緒に過ごすか? 嫌なら、別に……」
みこは含み笑いをして、
「いいですよ。何処に行きましょうか? わたくし、高校生になったら、一度東京ネズミ―ランドへ行ってみたかったんです。いろんなアトラクションで素敵な彼と甘い一時を過ごして、二人で夜景を見たりなんかして、盛り上がって初めての……もう、何言わせるんですか、悠一さんはっ!」
そう言って、勝手に俺の身体を打った。痛いな。盛り上がってるのは、お前の脳内だけだろ。
「あんな有象無象の人混みだらけの場所なんか別に行きたくないな。どっか近場の公園で砂遊びでもするか? 金かからないし」
みこは呆れた顔で、ジト目で俺を見ると、
「それ、本気で言っているなら、悠一さんに一生彼女は出来ませんね……がっかりです」
「冗談だよ。悪いが、ネズミ―ランドは無理だな。遠いのは新幹線に乗ればいいだけだが、俺は人混みが大嫌いだからな。あれは一種の拷問みたいなものだぞ。となると、どうするか?」
俺はちょっと考えて、
「じゃあ、折衷案で、近場の遊園地ぐらいにするか。そこも混むだろうけど、ネズミ―ランドよりはずっといいだろうし。待ち時間も余りかからないだろうしな」
「はあ……仕方ありませんね。悠一さんは今一つ女の子の気持ちが分からない人ですね」
みこは非常に残念そうな顔で、ぼそっと呟くようにそう言う。
「布教台持ってくるなよ?」
「えっ……?」
俺はちゃんと釘を刺しておく。
「あのミカン箱な。アレを持ってきて、人心を惑わすようなことはするなよ。特に何も知らない幼気な子供たちを、みこの怪しげな考え方に染めるような真似はしないでくれ」
しかし、みこは意外なことを言った。
「イエスさまは子供を祝福されました。遮る人を制し、乳飲み子たちを呼び寄せて『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』とおっしゃっています。だから、ちょうど良い機会です。わたくし、布教台の上から、大事な御言葉を子供たちに聞かせたいと思っています」
俺は嘆息した。はあ……これだから、みこの奴は。
「遊園地に無許可でそんな宗教の勧誘ができると思っているのか?」
「ダメでしょうかね……? じゃあ、許可をもらえるか電話しておきますね」
本当にみこの頭はお花畑だな。
「無理だな。電話するまでもないよ……もう少し現実を真っ直ぐ見ようよ、みこさん……」
「理想を忘れた現実に価値はありませんよ?」
みこは大真面目に言う。
確かにそうかもしれないけどさ。面倒くさい。長くなりそうなので、
「布教台持ってくるなら、遊園地はやめて、近場の公園で砂遊びに決まりな」
「本気ですか?」
「本気と書いて、マジと読みます」
みこは非常に残念そうだ。
「分かりましたよ……。遊園地でも布教できない世の中なんですね」
そんなことを言って、落ち込んでいる。
これだから、みこに彼氏ができないんだよな。
*
みこと遊園地で遊ぶことになった当日。
彼女も女の子だから、デートといえなくもないが、所詮みこである。そんなに気を遣わなくてもいいだろう。
俺はタンスから適当に、丈の長い白無地のTシャツとグレーのパーカーやらを上に着て、下は黒スキニーパンツとレザーブラックの靴で出掛けることにした。
金を余分に持っていきたかったので、姉に金の無心をしようとしたが、関節技で殺されそうになったので、諦めた。めぐみは油断すると、すぐに暴力に訴えようとする。まったくもって姉の風上にも置けない奴だ。
待ち合わせ場所は、玄関を出た先に午前十時集合だ。隣同士というのは、利便性が高いな。帽子も被ろうかどうか迷ったが、止めて、玄関の門扉を開いた。
「よう! 早いな。今日は晴れて良かったな」
みこは、すでに待っていたようだった。
「今来たところですよ、悠一さん」
みこはそう言った。今来たも何も玄関先じゃないか。まあ、細かい突っ込みはこの際いいか。
「今日はガーリーに決めてみました。どうですか?」
みこはそう言って、くるんと一回転して見せた。
イエローのロングTシャツにサスペンダーつき白スカート、その上から白チュールスカートを身につけて、黒リュックを背負っている。ミカン箱じゃなくて良かった。
「そんな格好で、チャリに乗る気か?」
「歩いて行くんですよ。大事なことなので、もう一度言います。今日はガーリーに決めてみました! 似合いますか?」
あー、ハイハイ。そうですか。
「似合う、似合う。馬子にも衣装ってやつだな。駅まで、歩くのかったるいな」
みこは不満そうである。悠一さんは女心が分からない人ですね、とか何とか、ぶつぶつ呟いている。
「仕方ない。じゃあ、歩くか」
「チャームポイントは、この十字架のペンダントです」
しつこいな。
「それは、アレだろ? ええと、ロザリオだ」
「違いますよ! これはファッションとしてのペンダントです! わたくしは、カトリックではありませんよ」
何だか、ややこしいな。面倒くさい。ここは、みこの顔を立ててやるか。
「みこ、今日は一段と可愛いな」
「もう、悠一さん、そんなこと言わないでください。恥ずかしいじゃないですか!」
みこは照れくさそうな嬉しそうな顔になった。お前が言わせたんじゃないか、という言葉をぐっと飲み込む。これ以上、話を長引かせたくはない。
俺と、何やら上機嫌になったみこと一緒に住宅街を抜け、中央橋を渡ろうとする。
「悠一さん、ちょっと河川敷まで降りてみませんか?」
「遊園地じゃないのか?」
「何だか、寄り道したくなったんですよ。ダメですか?」
女心と秋の空、というが、気分がころころ変わるやつだな。
「まあ、いいか」
俺とみこはコンクリートの無骨な階段を慎重に降りていく。緑の桜が生い茂る、芝生の上まで来ると、みこは、
「風が気持ちいいですね、悠一さん」
「そうだな」
これも悪くないか。可愛いと評判の、みこと一緒に過ごす時間もいいものなのかもしれない。白スカートの先からはシースルーのチュールスカートが揺れている。みこにしては、色っぽいかも。
「あっ、ゴミが捨ててある……」
みこは桜の周辺の、ビール缶やら、潰れた紙コップやら、汚れた菓子の袋やらを見つけると、しばらく、何か考えていた様子だったが、
「悠一さん、少しゴミを拾いませんか?」
「……は?」
みこは悲しげな表情で、
「だって、こんなにも散らかっているんですよ。誰かが拾わないと綺麗になりませんから。ちょっと、コンビニまで行ってきます!」
「おい! 遊園地は?」
俺は声を掛けるが、みこは法面の階段を登って行ってしまった。
「…………」
俺は嘆息した。どうしようか?
やることがなくて時間を持て余してしまう。柏木川に石投げでもして遊ぶか? いや、それは少しガキっぽくていかんな。
「悠一さん、お待たせしました! よっと!」
みこはコンクリートの階段を、手にビニール袋を下げて降りてくる。
「気をつけろよ! 危ないぞ!」
「分かってますって!」
みこは無事、俺の傍まで来ると、
「はい、これ、悠一さんの分」
「……?」
彼女は白い小さなビニール袋の中から、分厚い粗大ゴミ用のビニール袋を取り出して、俺に渡した。
「どうするんだ、これ?」
みこは俺の疑問に、不思議そうに小首を傾げた。
「だから、ゴミを拾うんですよ。一緒に川を綺麗にしましょう。こういうことは、気づいた人がやらないとダメですから」
そう言い終わると、ゴミ拾いを勝手に始める。俺は呆気に取られた。
「遊園地は?」
「喋ってないで、早く悠一さんも、ゴミを拾う!」
そんなバカな。俺たちは清掃ボランティアでも何でも無いぞ。
みこは黙々とゴミを手にしては、袋に入れている。
しばらく突っ立っていた俺も、仕方なくゴミを片付け始めた。どうせ、今のみこに何言っても無駄だからな……。
それにしても、結構あるぞ、これ。例の花見客のゴミは市の清掃係がおそらく回収したんだろうが、その後に捨てられたものか?
三十分くらい経過しただろうか。
「もう、いいんじゃないか? そろそろ引き揚げようぜ、みこ」
「あと、ちょっとしたらね」
みこと、俺は、また河川敷の清掃を続ける。一時間後、
「なあ、遊園地行くんじゃないのか? 腹も減ってきたし。もう、いいだろ?」
俺の言葉に、みこは、
「もう少しだけ、もう少しだけ、やってからね」
「…………」
こうなったら仕方ない。俺は心が折れそうになるのを我慢して、黙々と作業を続ける。それから、二時間経過――。
「二人ともそこまでよ!」
誰かがそう叫んだ。俺たちは一瞥したが、すぐにゴミを拾い続ける。無視されたツインテールの少女がまた叫んだ。
「この草薙花恋が、あなたたちの命を速やかに絶つ!」
袋詰めのゴミが二十六個出来上がった。はあ、先は長いな……。
「この花恋が……。ちょっと、聞いてるの、あなたたち!」
みこが彼女のところへ行くと、空の大きなビニール袋を渡して、
「あなたは、あっちをお願い」
そう言って、自分が元いた場所へ戻って、ゴミを袋に回収する作業を続ける。
「これをどうしろっていうの? 私は刺客なのよ! あなたたちを殺しに来たの!」
俺とみこの声が同時に重なる。
「喋ってないで、ゴミを拾う!」
少女は沈黙した。そして、みこの指示した場所でゴミを拾い始めた。
「終わったら、勝負だからね!」
などという声が聞こえてきた。
やがて、日も暮れかけた頃。
「終わったな……」
「ええ」
俺たちは、みこがコンビニで買ってきた、ビニール袋すべてにゴミを詰め終えた。もう、これ以上は無理だ。体力的にも、時間的にも、余裕がない。
空を仰いで伸びをする。
「見て、悠一さん。あれ、一番星でしょうか?」
「はは、そうだな。おそらく宵の明星、つまり金星だよ」
俺とみこは二人で星を眺めた。
「素敵ですね、悠一さん」
「そうだな。あの星に比べれば、俺たちの存在なんて、ちっぽけなものだな」
ツインテールの少女がゴミの詰まった大きな袋を抱えて持ってきた。そして、法尻に置いた。ゴミ袋は一カ所にまとまり、すべての作業は終わったのだ。
「燃え尽きた、何もかも……」
ツインテールの少女は膝をついた。
「立てますか? 草薙さん」
「……ありがとう」
草薙はみこの手に掴まって、立ち上がった。
「私、忘れていた大切な何かを思い出したわ」
彼女の目からキラリと光るものが見えた。俺たちも微笑む。
草薙は目頭を拭いて、
「今日のところはこれで勘弁してあげる。でも、次に会ったら、私たちは敵同士よ」
そう言い残して、去って行った。
「今日は、もう帰ろう。なに、遊園地はいつだって行けるさ」
「そうですね、悠一さん」
俺たちも河川敷をあとにした。俺も忘れかけていた大切なサムシングの欠片を見つけた気分だった。
*
翌日。
俺たちは天音市の遊園地に遊びに来ていた。
俺は所詮みこ、ということで気合いの入った服装などせず、昨日と同じく、あくまでカジュアルな格好だ。
みこは先日と同じ服を着ている。
何故なら、みこは淡いブルーのラッフルオフショルダートップスと、白無地のショートパンツ、ピンクのバッグという出で立ちで玄関先に現れ、本人曰く『大人可愛い系』などと、のたまったのを阻止したからだ。
はっきりいって似合ってなかった。
中学生が姉の服を無理矢理着ている感じがするぞ、と指摘してやると、みこは激怒して手に負えなかったので、手を焼いた俺は仕方なく『昨日のスカートから透けた生足は正直萌えた』などと何とか説き伏せたのだ。
背丈が低いんだから、格好もそれに合わせてくれないと困る。
みこは『悠一さんは、エッチですね』などと俺を罵っていたが、それでも着替えに戻ったのだから、みこの思考回路はまったくもって謎だ。
遊園地はやはり混んでいた。特に入り口のゲートでは、かなりの時間待たされた。園内に入ると、幾分か人混みも緩和されて、俺は少しホッとした。
「初めはジェットコースターにしましょうか……と思ったけど、止めときます。ジーンズ系にすれば良かった」
みこは残念そうだった。俺は安堵する。楽しいはずの遊園地で、わざわざ怖い思いをすることもないだろう。
「お化け屋敷にしましょうか? でも、あれは子供だましみたいなものだし」
「みこだまし……」
俺は思わずそう言ってしまい、みこに睨まれた。
「メリーゴーランドにしましょうか?」
「それは高校生が乗るものじゃないな……」
「じゃあ、観覧車」
というわけで、俺たちは『三十分待ち』の札の下がった最後尾の列に並んだ。家族連れやカップル、友達同士で来たらしい面々が楽しげに会話しながら連なっている。
「わたくしたちもカップルに見えるのでしょうか?」
「多分、兄妹じゃないか? 妹を引率する兄って感じで」
そう返答すると、みこは俺の足を蹴っ飛ばした。痛いな。めぐみみたいな真似はよせ。
「お嬢さん、これをあげましょう」
いつの間にか傍にやってきた着ぐるみパンダが、みこに風船を渡した。
「わあ、ありがとうございます!」
隣の子供たちが、僕も、私も! とパンダにせがんだが、無視してパンダは去って行った。なんだ? まだ、風船、沢山持っていたのに。
みこは風船の糸に下がっていたカードを眺めた。
「何でしょうか? これ?」
俺が見ると、『殺害予告! 今日こそ、二人の命、つまり、おどれらのタマ奪ったるで! 花恋だけに可憐な魔術師見習いより ゆうぴょん、みこにゃんへ』などと下手くそな文字で書かれていた。
ああ、また、あの女か……。俺は、げんなりする。何が、可憐な魔術師見習いだ。みこはカードの糸が付いた部分だけ破ると、風船を子供たちに渡している。
「どうやら、あの草薙とかいう女が俺たちを狙っているようだな」
「そうみたいですね……。仲良く出来たらいいのに」
そんなことを話しているうちに、俺たちの順番が来た。
「申し訳ありませんが、混雑しているので、四名様ずつでお願いします」
そう、係のお姉さんに言われるまま、俺たちは乗り込む。
「あっ……」
俺とみこの真向かいには、何故か有馬の姿があった。彼は隣に女の子を連れている。こんなところで出会うとは思わなかった。向こうも、俺たちに驚いた様子だ。
「奇遇ですね、有馬先輩」
いつも冷静なはずの有馬の奴は、動揺を隠せない様子だったが、
「……はて、誰のことです? 僕、いや、私の名は……山田、そう、山田太郎です」
「…………」
天音市の街並みを眺めるどころではなかった。
「いやですね、有馬先輩。誤魔化さなくてもいいじゃないですか。隣は彼女さんですか?」
みこの言葉に、話を振られた女の子は、
「私も……山田……じゃなかった、そう、佐藤……、佐藤花子です」
随分、古風な名前だな。ちょっと、待て。この人、何処かで見覚えがあるぞ……。何処だったかな?
「ところで有馬先輩、例の学校の図書館での一件ですが」
折角なので、訊きたかったことを口にすると、
「はてさて、何のことです? 私は山田。ただの通りすがりの山田です」
有馬はあくまでシラを切るつもりらしい。
はあ……、もういいや。有馬のデートを邪魔するのも、アレだしな。
「分かりました。そういうことにしておきましょう。続きは高校で」
俺は嘆息した。気まずい沈黙が降りる。
そういえば、有馬と隣の女の子は、どことなく雰囲気が似てるな。まあ、これ以上の詮索はするまい。
「そこまでよ、二人とも!」
突然、女の声が響いてきた。前方の上のゴンドラにあろうことか、ツインテールの少女、草薙が安っぽい黒マントのような物を身にまとって立っている。
「この漆黒の魔術師見習い、草薙花恋がその命、頂戴す……うわあっ!」
あっ、落ちた。
「大丈夫でしょうか? 草薙さん」
みこは心配そうだ。と、向かいの女の子が舌打ちして、
「あのバカ……!」
などと言って、何か小さな声でぶつぶつと呟いたかと思うと、片手を上げて、
「『衝撃緩和』!」
そう叫んだ。そして何事もなかったように、向かいの女の子は横を向いて、景色を見ている振りをした。
「…………」
あなた、すごく挙動不審ですよ? 通報レベルですよ? あなた、今、明らかに妖しげな術を使いましたよね? はっきり言って不審者じゃないですか? 云々。
俺の脳内で無限にそんな言葉が浮かんでは消えていく。
有馬の奴は平然と反対側を見ているだけだ。突っ込みづらい。
「悠一さん、わたくし、よく不思議ちゃんって言われるんですけど、あの方も同類なのでしょうか?」
みこが俺の耳元で囁く。バカ、聞こえるだろ。もしかしたら、物凄く危険人物かもしれないから、刺激するようなことは言うな。
ガタン、と音がして観覧車が止まった。
頭上のスピーカーから、『只今、危険を察知いたしましたので、安全装置が作動しました。しばらく、お待ちください』とアナウンスが流れ、俺たちは小一時間ほど、沈黙のまま、その場をやり過ごさなくてはならなくなってしまった。
*
翌日。
朝のホームルームでは、竹村教諭がゴールデンウイーク明けだからといって、弛んでると、二年後の受験では生き残れない、などと発破を掛けてきた。
俺も出来れば、悪夢のような今の状況から抜け出して、参考書片手に勉学に対する青雲の志を、それを邪魔する嵐のような性欲をエッチな本で解消しつつ、果たし続けるのが男子の本懐だと強く感銘を受けてしまった。
竹村教諭曰く、参考書の間にエッチな本を挟んでレジまで持って行く、という昔の笑い話があったが、これは男子受験生のあるべき姿としては正解である。
若者が学問で成功を収めるのは、いかに効率よく、勉学の妨げとなる性欲を解消するかにかかっている、といっても過言ではなく、それがたとえ、女子の間で憧れの的となっている男子であったとしても、この例に漏れることはない、云々(うんぬん)と。
「少年よ、参考書とエロ本を抱け!」
そう言い残して、ホームルームを終えた竹村教諭は輝いていた。クラーク先生も真っ青の名言だった。
それは男子の間では、竹村教諭は真実を喝破した英雄として、女子の間では、変態という名の犯罪者予備軍として、その名を歴史に刻んだ瞬間だった。
「悠一さん、何を考えてらっしゃるのですか?」
みこが部室へ向かう途中、そう訊ねる。
「女の子は気楽でいいな、と思ってさ。世の中には知らない方がいいこともある。俺も有馬も十字架を背負って生きている戦士なんだ。男はいつまでも無邪気な少年ではいられない」
「……バカみたいです。悠一さんも、あの先生に影響されては絶対にダメですよ」
白無垢のようなみこが、俺も変態紳士だと知ったら、どういう反応をするのだろうか。
「今日は、部活やってるみたいだな」
「そうですね。良かった」
部室の中から、有馬と霧島さんの声がしてくる。俺は歴史資料室の引き戸に手を掛けようとしたが、
「……の考え方には付いていけません!」
「……理念を……履き違えるな!」
なにやら二人は激しく口論しているようだった。俺の手が思わず止まった。みこと顔を見合わせる。今、部室に入るのはタイミングが悪いようだ。
「もう沢山、もう、いいです!」
霧島さんの大きな声がして、部室は静まりかえった。
俺たちは、しばらく聞き耳を立てていたが、物音一つしない。
「どうしましょうか……?」
「いつまでも突っ立っているわけにもいかない。入るぞ」
俺とみこは頷き合って、扉をノックした。
「見沢です。お話ししたいことがあって来ましたが、入ってもよろしいですか?」
返事がない。しばらく待ったが、一向に声が返ってこないので仕方なく、
「失礼します」
そう言って扉を開けてみる。
部室には不機嫌そうな顔で足を組み、新聞紙を広げている有馬の姿があった。霧島さんはいないようだ。
「今日は有馬先輩だけのようですが、霧島さんはどうなさったんですか?」
俺が訊ねても、有馬は渋面のまま返事すらしなかった。
みこは書架の間を探していたようだが、俺の耳元で霧島先輩の不在を告げた。
さっきまで声が聞こえていたのに。
俺も立ち聞きしてしまったことを悟られないように振る舞うことにした。
「有馬先輩、今、お時間よろしいでしょうか?」
「よろしくない」
有馬はそう言って新聞を読んでいるだけだ。
参ったな、訊きたいことが山ほどあるんだが。
普段、愛想のない有馬が機嫌を損ねると、取り付く島もない。
出直すべきか? そう俺が考えていると、
「第一に」
有馬が口を開いた。
「僕は君が何を考えているのか分からなくなってしまった。第二に、君の居場所も把握できなくなった。第三に、君に対してアルカナが力を無くしてしまった」
何のことだ? 要領を得ない俺に有馬が続けて、
「現に、今、君が僕の言葉にどう反応したか、まるで掴めない。御国さんは、もともと心が読めなかった。彼女には聖霊が宿っているから仕方ない。だが……」
有馬はぞっとするような目で俺を見た。
「見沢くん、凡人であるはずの君が、僕の魔力を弾くとはどういうことですか? こんなことはあり得ないことです。誰かに何かされましたか? それとも何かを手に入れましたか?」
俺は有馬に気圧された。
以前、不良に絡まれたことがあったが、その比ではなかった。蛇に睨まれた蛙、とはこのことか。
俺はあの下駄箱のメッセージや、夢で見た老人とのやりとりを思い出した。ここは正直に答えるべきではない。
「心当たりはありませんね」
有馬は疑念の目で俺を見ていたが、
「そうですか。何か思い出したら、聞かせてください。特に、何かを手に入れたのなら、是非お願いします」
そう言うと、視線を新聞に戻した。
俺は観覧車の件についても、有馬に訊いてみようと思っていた自分の愚かさを知った。とてもじゃないが、そんなからかい半分の質問など出来る空気ではなかった。
俺は図書館での一件を訊ねるべきかどうか迷った。
あの襲撃は誰の指示によるものなのか。それに、三年女子の飛び降り事件についても――。
有馬は、あのメッセージが告げたように“裏切り者”なのだろうか? 一体誰を裏切っているのか? 頭が混乱する。
――何かに迷ったときは、止めておいた方がいいよ。
いつだったか、姉のめぐみが、そんなことを俺に言ったことを思い出した。
何をきっかけにして、めぐみがそんなセリフを口にしたのか、思い出せないくらい遠い昔のことだ。
「今日は、日が悪いようなのでまた改めます。みこ、行こうか」
俺は有馬とのやりとりを不安げに見守っていた、みこにそう言って、部室を出て行くことを選んだ。
「見沢くん」
有馬が新聞紙を一枚めくって、声を掛けてきた。
「今日はすまなかった。虫の居所が悪かったことは理解してほしい。また気が向いたら、部室に来てください」




