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プロローグから第一章終わりまで

プロローグ


 家が隣で仲が良くって、頭脳明晰、容姿端麗、年の頃十六歳、街でその手の男から必ず声をかけられる幼馴染み。そんな女の子がいたら、最高だぜ! って思うだろ? 普通は。でも、この広い世の中には例外はある。

「ごきげんよう」

 四月。満開の桜の下、少女たちの声が涼やかに鳴る。

「あら、お姉様。ごきげん…」

 ごす。

 軽やかな朝の風景に響き渡る不協和音。女生徒二人が地面に突っ伏した。その近くには、仁王立ち(におうだち)になった少女の姿があった。

基督(きりすと)教は同性愛厳禁! 悔い改めなさい!」

 周囲ドン引き。

 そんなセリフを口走った彼女は、何故か制服の後ろにミカン箱を背負っていた。華奢で小柄で凜とした姿と、『さわみっこ』と銘柄の刻印がされているミカン箱。その刻印の上にはバツ印が打たれて『布教台』と墨で書かれている。はっきり言って異様だ。

「いいですか! パウロの書簡(しょかん)に次のような一節が……!」

 朝の校門入ってすぐの場所で。少女と犠牲者二名を遠巻きに、登校途中の女生徒たちが取り囲んでいる。

 私立カノン女子学園高等科。蘭学(らんがく)とキリスト教文化がセットになって日本に流入して、江戸時代から近代、現代へと変遷しながら、各地に設立されていったミッション系大学の附属高校の一校。その正門付近での騒ぎ――なんだが、そんなことはどうでも良かった。何故なら、俺たちはここの生徒ではないからだ。

「帰るぞ、みこ」

 有無を言わさず、少女の腕を引っ張って戻ろうとする。

「やめてください! わたくしは今大切なお話をしているのです! いたた……」

 腕を引っ張っても(らち)があかないので、仕方なく耳を引っ張った。さすがの彼女も引き摺られていく。

「痛い。痛いってば! 放してください! 悠一(ゆういち)さん!」

「ただの朝の挨拶だろ。偏った小説の読み過ぎだ。第一、自分たちの高校の入学式に遅刻しそうだ。他校に喧嘩を売っている暇はない」

 冷ややかな視線に見送られながら、はた迷惑な少女を回収する俺。今朝、偶然同じタイミングで家の門を出た時点で、爽やかに、おはようございます、なんて言われて微笑まれたのがいけなかった。真新しい彼女の制服、白の丸襟ブラウスの上に紺のブレザー、チェック柄のプリーツスカートにタッセルローファー、そんなものが新鮮に映ったのがいけなかった。背中にはサッチェルバッグの代わりに、中学時代と同じ木製のミカン箱を背負っていたというのに。

「過ちを(いさ)めているのです! わたくしの布教活動は即ちわたくしのライフワークなんですよ! み、耳を引っ張るのはやめて! 難聴になったらどうするんですか!」

釈迦(しゃか)に説法って言葉を知らないようだな」

「異教徒のことは知りません! ああ、こっちの高校に入学したかったのに! 自分の賢さを呪いたい!」

 失礼にもほどがある、とはこのことだ。この腐れキリシタンめ。

「黙れ、さわみっこ」

「わたくしの名は、みこです! 御国(みくに)みこ! そのあだ名はやめて~!」

 俺の高校生活最初の日。ぎゃあぎゃあ喚きながら、涙目で抗議する幼馴染みとの、うららかな春のそんな一幕があったとは、ご近所の皆さんもいずれご周知になることであった。


第一章 起


 入学式なんて、どの高校でも退屈なものだし、校長の演説なんて新入生は誰も聞いていないし、記憶にも残らない。在校生代表の生徒会長の練りに練ったスピーチだって、何も訴えかけてこないし、やはり記憶にも残らない。残ったのは、入学式が行われたという事実くらいの消し炭みたいなエピソードぐらいのものだ。

 興味があるとすれば、クラス分けや、そのメンツがどういう奴か、誰と友達になっておいた方がいいかの線引きをするくらいだ。あと、女子生徒に可愛い子がいたほうがいいな、くらいか。高校で彼女を作る気もなかった俺は、女子に期待することといえば、勉強の疲れを癒やす目の保養になればいいな、という程度のものだ。

 クラスの担任になった竹村という若い男性教諭は、ひとしきり自身の高校生のあるべき姿についての持論を熱弁し、最後に、三年短し学べよ学生、という捻りも面白味もない言葉で締めくくって、自己紹介の運びとなった。

 正直、これは高校生活最初の通過儀礼かもしれない。

 廊下側前の席から、窓際最後尾まで各々自己紹介が始まった。緊張のあまり挙動不審になってしまった者、受けを狙って外してしまい取り繕う者、自己顕示欲の塊みたいな者、等々――。クラス中央後方の俺は、早々に無難な線でいくことに決め、そして無難に挨拶を終えた。誰も興味を持たなかったようだが、それで構わない。自己紹介で重要なことは人間観察であって、自己表現ではない。

「出席番号三十九番、御国みこ」

 女子側最後尾の、みこが席を立った。自然と男子生徒の視線が集まる。彼女はにっこりと微笑み、静かに口を開いた。



「な、なんですか、急に……」

 通学路の途中で、俺はみこを駅のホームの人気のない端っこまで無理矢理連れて行って、丸い円柱まで追い詰めた。

「お前に言っておきたいことがある。今日まで言っておかなくてはいけないと前々から考えていたが、なかなかできなかった。本当は、中学卒業の時に言うつもりだったが、言いそびれてしまったことだ」

 みこの顔が眼前にある。腕のいい彫刻家に美しい少女の像を依頼するなら、その顔はこうするだろうという、黒目がちの目、整った鼻筋、小さくて艶めいた唇がそこにあった。その肌は絹のように白い。おまけに少し上気していて、目を合わせていると妙な気になってしまう。

「そ、そうだったんですね……悠一さんも……。そんなこと、興味なさそうだったから、わたくし、全然気づけなくて……」

 瞳を逸らすみこ。ショートボブのシャンプーの香りが鼻腔(びこう)をくすぐる。後ろのミカン箱さえなければ、美しい少女の像は完成していたことだろう。

「一度しか言わないからよく聞いてくれ……。俺は先輩から聞いたが、やはり志樹(しじゅ)高校でも一般の高校同様、校内での宗教活動は厳禁! 布教しようものなら、即退学だ!」



「……というわけで、皆さんと楽しい高校生活が送れたら、それは素晴らしいことだと思います。以上です」

 女子からは、まばらな、男子からは喧しいくらいの拍手が起こって、自己紹介はつつがなく終わった。

「なあ、お前」

「ん? 何だ?」

 横にいる短髪の男子生徒が、俺の耳元に手を持ってくると囁いた。

「オレは横溝っていうんだが、今朝お前、河合駅で彼女に壁ドンしてたよな? どういう関係なんだ?」

 ちっ。余計なところを見られたものだ。

「……腐れ縁だ」

 俺は正直に答えた。

「愛の告白をしたのか、やっぱり」

「するか!」

 俺が小声でそう返答すると、横溝はにやけた顔をして、

「御国さんって彼氏いたりするのか? 大人しそうだけど、そういうのって分からないからな。お前は知っているのか?」

 それは俺が、みこに関して、よく訊かれる、よくある質問の一つだった。

「みこに彼氏……。それはあり得ないな。というか、やめておけ。それが、お互いのためだぞ」

 いつものようにあしらう俺。こんなやりとりは毎回のことで、いささか食傷(しょくしょう)気味だ。

「どういう意味だよ? オレ、彼女に興味あるんだけどな。このクラスで一番の綺麗どころじゃないか」

「余計なこと言わなきゃ、そうかもな」

 自己紹介が一通り終わって、竹村教諭の有り難いようで、どうでもいい話が続いている。そんな中、横溝とやらは食い下がって、

「それってどういう……」

「なあ、横溝。世の中には知らない方がいいこともあるさ。淡い想いは青春の一ページにしておくことだな。それがいいぞ、若人よ」

 俺は奴の肩に手を置いて諭す。

「ジジくさいな。お前」

「俺の名は、お前ではなく、見沢悠一(みざわゆういち)だ。さっき、言っておいただろ」

生憎(あいにく)、オレは男の自己紹介なんぞ、興味ないんでね。自己紹介は、女子の人間観察の為にのみ存在する」

 こいつは、俺に似ているのかもしれない。方向性が違うが。

 竹村教諭は生徒たちに入学資料や教科書を配布した後、

「それでは、今日はこれで終わりだ。一応、解散だが、残ってクラスメートとの親睦を深めるのも、クラブの勧誘に参加するのも、帰って風呂入って寝るのも、君たちの自由だ。高校生になった以上、自分のことは自分で決めるんだぞ。明日から、通常授業になるから、そのつもりでな。県下一の進学校、志樹高校の名を汚さないように、気概を忘れないように、自覚を持て! ボーイズ、ビー、アンビシャス! だ! わはは!」

 いつの間にか話が終わったらしく、竹村教諭はドアを開けてクラスを去って行った。

 ガールズ、の存在はどうでもいいのだろうか。

 クラーク先生はどう考えていたのだろう。きっと、深く考えていなかったに違いない。いや、どうでもいいことか。

 さて、どうしたものかな、などと俺が放課後の行動を考えていると、横溝が飛び出した。

「じゃあ、オレは竹村先生の仰るとおりに、御国さんとの親睦を深めにいくぜ。あとで後悔するなよ? そして邪魔するなよ、見沢」

「……勝手にするがいい。あの女は『不沈空母(ふちんくうぼ)』だぞ」

 みこのもう一つのあだ名、『不沈空母』。中学時代、何人の男が告り、そして撃沈していったことか。横溝もその英霊たちの石碑に、その名を連ねることであろう。

 俺はしばらく沈思(ちんし)黙考(もっこう)した挙げ句、校内をぶらつくことにした。

 ちゃんと、みこに釘を刺しておいたし、友人は……目ぼしい収穫はなかったが、そんなに急いでも仕方あるまい。

 クラブ勧誘のポスターでも見て回りたい気もしていた。

 あと、図書館――志樹高校は蔵書数が多いのが有名で、校舎とは別に、古風な洋館が建っているのだ――は、以前からチェックしておきたいと思っていたのだ。

 それにしても、と、俺はみこの周りに数人の男たちが群がっているのをさりげなく確認する。

 まったく嫌なものだな、ああいう輩たちは。まるで獲物に集るハイエナのようじゃないか。

 みこもみこで楽しそうに男たちの話に聞き入って、時々笑顔を見せているし。

 ああ、なんだか苛立たしいね。みこもバテレンじゃなかったら、所詮イケメンとやらを漁る浅ましい女に過ぎないのか。全くつまらないものだな。

 まあ、俺には関係ないけどね。そう、開き直って、教室を出て行こうと席を立つと、

「あっ、悠一さん、何処へ行かれるんですか?」

 みこが背後から声をかけてくる。振り返ると、笑顔のみこと、剣呑な顔でこちらへ視線を送ってくるハイエナ男たち。何だよ、その目つきは。

「俺は校内を観察してくるわ。ごゆっくり」

 そう言って、右手をひらひら振って廊下へ出ようとしたが、

「悠一さんっ!」

「……どわっ!」

 後ろからみこが抱きついてきた。

「今、悠一さんのお話をしていたんですよ。折角ですし、横溝さんたちとこの機会にご親睦を深められてはいかがですか?」

 いや、論点はそこじゃない。背中に胸が当たっているんだが。そして、クラスの雰囲気が微妙だし……。というか、静寂の(とばり)が降りたような……。

「ちょっと来い!」

 俺はみこの手を掴むと、その場から逃げ出した。『1―C』の教室から出て、昇降口まで突っ走る。

 廊下の生徒たちが訝しげに俺たちに視線を投げかけてくるが、そんなことは気にしていられない。

 俺は乱れた呼吸を整えると、少し動揺した顔をしている彼女に語気を強めて言った。

「みこ!」

「……はい!」

 彼女は笑顔を引きつらせつつ後退りしている。

「いいか、みこ。お前はもう高校生なんだ……。少しは自覚を持って行動しないと、取り返しの付かないことになるかもしれない。お父さんは、じゃない、俺はそれが心配だ……」

 俺の言葉に、こく、こく、と頷くみこ。分かってくれたのだろうか? 俺は咳払いして見せながら、

「お前も、もう年頃の娘なんだから、昔みたいにあまりベタベタ俺に引っ付いたりすると誤解されるだろ? 俺たち、もう高校生なんだぞ……子供の頃とは勝手が違うんだ」

 ふん、ふん、と頷くみこ。

「俺の言いたいこと、分かってくれたよな? じゃあ、みこよ、俺の言わんとしていることを申してみよ」

「……えっと」

 みこは小首を傾げながら、

「…………」

 しばらく手を宙にさまよわせて、何か考えているようだったが、

 どうやら言葉が出てこないらしい。俺は嘆息した。

「要するにだな、もう少し女性らしい慎みを持って、男の俺と節度ある距離感を保ってくれ。以上だ」

「……はぁい」

 みこはつまらなそうな返事をした。

「校内で布教したらいけないって言うし、仲良くしたらいけないって言うし、高校って勝手が違って、わたくし、とても不満ですよ……」

 俺みたく、みこも嘆息した。

「折角悠一さんと同じ高校に入れたのに、思い通りにならないことが多くてとても不満なのですよ……」

「諦めろ。人生そんなものだ。というか、今までが自由すぎたんだな。みこの場合は」

 俺は彼女の頭に手を乗せて諭した。

「まっ、これからは既成事実によって規制された世界を大人しく歩む術を身に付けてもらってだな……」

「……悠一さん、あれ」

 みこが壁を指さした。俺も目をやる。ポスターが貼ってある。部活の勧誘か。

「『宗教学研究会……。私たちは古今東西勃興(ぼっこう)した宗教の学びを通して、人間の普遍的な神仏に帰依する(さが)を研究しています。あなたも、私たちと一緒に思索の時間を持ちませんか……』」

 みこの肩が震え始める。

「『世界三大宗教であるところの仏教、キリスト教、イスラム教……これらの教えだけではなく、新興宗教についての考察も行っています。興味のある方は、是非実習棟2F、歴史資料室までおいでください……』」

 まさか、な。しかし、俺の悪い予感は的中した。みこは上擦った声で、

「こっ、これですよ! 悠一さん! この部活に入って、潜伏し、一年後に部長になった(あかつき)には、わたくしが基督教研究会に改変してしまえばいいんです!」

 みこは満面の笑みで俺を見た。俺は思わずたじろぐ。ダメだコイツ、早くなんとかしないと――。

「そ、そんな非常識なことするな! まるでどこかの危ない思想団体みたいなグレーな手段を使うんじゃない!」

 思わず右手で彼女を制する俺に、

「どうしてですか! 悠一さん! これはもはや聖戦なんですよ! 最初は皆さん抵抗があるかもしれませんが、そのうち、ああ、基督教って素晴らしい! 改宗して良かった! ハレルヤ! ってなりますから! わたくしがそうして見せますから!」

 みこは恍惚とした瞳で宙を見つめ、両手を組んでうっとりと思いを馳せ始めている。

 いかん! これはいけない流れだ! ここでみこを思い止まらせないと大変なことになる! 火は小さいうちに鎮火しておかねば……!

「ダメだ、ダメだ、ダメだっ! そんなやり方で信条を変えても、彼らは幸せになどなれない! お前のしようとしていることは、ただの部活乗っ取りじゃないか! そんなのは不許可だ!」

 俺も言葉に熱がこもる。

「いいえ! 悠一さんがダメと仰っても、これだけは曲げられません! わたくし、今から実習棟まで行って参ります! タラララ、ラン♪」

 みこは聞いてはくれなかった。こうなると、彼女の暴走は止まらない。子供の頃からそういう女だ、こいつって奴は。

「ちょ、待て!」

「待てませんことよ! 宗教学研究会の皆さん、待っててくださいね! 今から、わたくしが福音(ふくいん)を伝えに行きますから!」

 あーっ! 誰だ、こんなところに余計なポスター貼りやがったのは! って宗教学研究会のメンツか。

 そんなことは、もはやどうでもいい! 今はみこを止めることが先決!

 俺は全力疾走で、実習棟へ繋がる中庭回廊を突っ走る女、みこを追走する。

 みこの奴は、ウフフと奇妙な笑い声を上げながら、もの凄い速さで駆けていく。

 何だ、このでたらめな運動能力は! みこのか細い身体の何処にこんな脚力が!

「ぬおおおおっ!」

「きゃはははっ!」

 俺は決して足が遅い方ではない。

 だが、目前にいるみこに追いつけない!

 彼女は実習棟まで渡りきると、階段を素早く駆け上がる。

 いかん、あの先には絶対領域的な禁断の地があるはず! みこの侵入を許してはいけない!

「くそっ! 右か左か?」

 遅れて階段を上がり切ると、みこは迷わず右に折れた。

 初めての場所なのに、何故みこには部室の場所が分かるのか、もはや俺には分からなかった。神懸かりとはこういうことなのか?

「……させるかぁ!」

 俺も右に曲がり、みこの追跡を続ける。

 くそっ、河合駅で困った顔をした駅員に、(くだん)のミカン箱を預けてこなければ多少はこの追跡劇も楽だったのかもしれない。

 なんて、考えていても仕方のないことだし、もうそんな余裕もなかった。

――バンッ!

 ついにみこは部室に辿り着いたらしい。

 彼女は扉を乱暴に開けて、開口一番、叫んだ。

「一年C組、御国みこ! 入部させていただきます!」

 ちっ、間に合わなかったか!

 俺は歓声が上がっているらしき歴史資料室、すなわち宗教学研究会の扉まで追いつくと、息も絶え絶えに、こう叫ばざるを得なかった。

「……同じ……く、一年C組! 見沢悠一! です! 入部……させてもらいます!」

 それは、みこの暴走を食い止めるための苦渋の選択であった。



「今日は二人も入部希望者が来てくださって、嬉しいわ」

 コトッ。

 目の前に紅茶と洋菓子が置かれた。

「――どうぞ」

「ありがとうございます」

「すみませんね……」

 みこと俺はそう答えて、軽く頭を下げた。

 給仕してくれた男子生徒は愛想なくさがると、テーブルの向こうに静かに座って、黙って新聞を広げた。

 歴史資料室は整然と片付いていた。

 左右には書架が並んでいて、こぢんまりとした図書室のように見える。

 棚の中は書籍の背表紙が綺麗に並べられていて、床には塵一つ落ちていなかった。

 向かって正面には西向きの窓。その向こうに見えるのは、天音(あまね)市の街並みだ。

「ちょっと、この部屋は採光が悪くてごめんなさいね。ええと……」

 ニコニコと笑みを絶やさず、穏やかそうな女性が言葉を続ける。彼女は髪を肩辺りでまとめ、前に垂らしている。

「御国みこ、と申します」

「見沢悠一です」

 そうそう、と相槌を打つ女性――この学校の女生徒なのだろうか?

 しかし、彼女はピンクニットに、白いフレアスカートを身に着けていて、どう見ても私服なのだが。

「私はこの宗教学研究会、部長の二年生、霧島(きりしま)さやかと申しますの。以後お見知りおきくださいね」

「はい、宜しくお願いいたします。先輩」

「よろしく。といいたいのですが、俺たちは、本当に心から希望者にすぎないので、この紅茶をいただいたら、退散……」

 ごす。

「くっ……!」

 みこの肘鉄が俺の脇腹を直撃した。テーブルに突っ伏す俺。

「どうかなさいまして? 見沢くん?」

 霧島さんが不思議そうに俺を見やる。

「何でもありませんよ、ね? 悠一さん?」

 にこやかに微笑むみこ。うぐぐ……。みこよ、いつからお前はそんな女に成り果てたのか……。

「御国さんが見沢くんの脇腹を肘で突いたんです、部長」

 学校指定の紺のブレザーに身を包んだ先ほどの男子生徒が、静かに新聞を一ページめくってそう答えた。

 この男、さっきから新聞に視線を落としたままなのに、一部始終がどうして分かったのだろうか。

「あらあら、そうでしたの? 見沢くん、大丈夫ですか? 御国さん、めっ、ですよ」

「ごめんなさい。部長さん、悠一さん」

 しゅんとなるみこ。

「僕の名前は、有馬。有馬時雨(ありましぐれ)。先ほどのやりとりに気づいたのは、そうですね……男の勘です」

 そう、新聞紙男――有馬がやはり新聞から目を逸らすことなく、自己紹介めいたことを口走った。

「有馬先輩も二年生の方なんでしょうか?」

 みこの問いに、

「そうですが?」

 無愛想な有馬は新聞から目を逸らすことなく返答する。

 こいつ、わざとやってるんじゃないだろうな。

「有馬先輩って格好いいですね! 女の子たちが放っておかないのではないですか?」

 確かに有馬という男は、同性から見てもルックスは良かった。

 パーマをかけたミディアムヘアに端正な顔立ち、筋肉質で長身。正面から見たら、さぞ、いい男ぶりなんだろう。

 それにしても、髪型は校則違反ではないのか。

 すると、有馬が俺の方を見た。

「…………」

 なんだ、この間は。

 正面から見ると、はっきりとイケメン君と分かるが……。

「やっぱり! 格好いいです!」

 みこが口に手を当てて、嬉々としてそう言った。

 なんか、ムカつくんですけど、この先輩、それに展開も。

「そうですね……自分で言うのもなんですが、僕はモテますね。女性の求愛を断るのに、いつも罪悪感を感じてしまうのが辛いところです」

 しれっとそんなことを言う有馬。やはり、こいつは腹立たしい男だ。

「それは、ちょっと残念かもです!」

 みこの声は、まったく残念そうではない。明らかに会話を楽しんでいる風である。

 中学時代に『不沈空母』の名を欲しいままにしたお前は何処へ行った?

「でも、女性からだけではありませんね……出るんですよ、この部屋」

「……あっ、有馬君。その話はこの子たちにはまだ早すぎるわよ?」

 霧島さんが慌てて口を挟む。

「すみません、部長。ですが、今のうちに言っておいた方が彼らのためだと思いましてね」

「出るって何がですか?」

 みこの問いに、

「……幽霊」

 霧島さんがポツリと呟いた。

 そう言えば、何となく先ほどから、この部屋から四人以外の気配を感じてはいたんだが……まさかな。

 東側のグラウンド方面からは、ホイッスルの音と、体育会系部活動のメンバーたちの声が響いている。

 この部屋の窓辺からは、夕日が西から差している他、もっぱら天井にぶら下がった蛍光灯の明かりだけが、俺たちを照らしていた。

 書籍に埋もれた部室。その他には何もない教室――。

「わたくしは、それも楽しそうでいいと思います」

 束の間の静寂をみこの紅茶を飲む音が破った。

「そう言ってくれるとありがたいわ」

 霧島さんは微笑む。

「部長の仰るとおりです」

 有馬も無愛想な顔で追随(ついずい)する。

「あの、ですね……。わたくし、実は……」

 みこが口を開きかけたが、何故か俺の方を見る。ああ、そういうことか。俺はかぶりを振った。

「……ごめんなさい。何でもないです、今のは。この部は、現在お二人だけなんですか?」

 俺はみこが選択を誤らなかったことに安堵した。

「そうね……。二人だけね、現役は。昔はもっと居たのだけれど」

「三年生は受験ですからね。うちの高校は期待されていますからね。親とか教師とか、何より自分自身に」

 そうだな……。俺も、多分みこも、バカなことやれるのはせいぜい二年生くらいまでなんだな。あとは、受験に追われる身になるのか。

「無理に入部は勧めないわ。本来なら、仮入部という形を取ることになるけど、うちはそういうのはしないの。幽霊も部員のうちですし、ね? 有馬くん」

 霧島さんがいたずらっぽく笑った。

「部長の仰るとおりです。放課後、この歴史資料室は、宗教学研究会の部室となります。おいでになるなら、ご自由に。気が向かなければ、それもまた、お二方のご自由です。ただ、時期が来れば入部届を出す必要はありますね。この高校の部活はすべて生徒会の管理下にありますので。あくまで便宜上の話です」

 有馬は淡々とそう話すと、再び新聞紙に目を落とす。

「ただね」

 霧島さんは言った。

「お二人に会えて、今日は楽しかったわ。できれば、また来てほしいのが本音ね。ここは一応、宗教学研究会って銘打っているけど、堅苦しく考える必要はないわ。どうして、この世界には宗教が必要なのか。人間の救いとは何か。救われるってどういうことか。そういう受験に必要な高校のカリキュラムに全然関係ない話をするところなの。あとは雑談。人類が問いかけてきた問いは、今を生きている私たち自身の問いでもあると、私は思うわ。それは、もしかしたら、受験勉強よりも大切なことかもしれないわね」

 有馬は黙って新聞を読んでいた。

 俺はみこと部室を出る前に、疑問に思っていたことを訊いてみた。

「どうして霧島先輩は制服じゃないんですか?」

 霧島さんは不思議そうな顔で、

「だって、もう放課後ですもの。私は今は高校の制服を着ている必要はないんじゃないかしら? 間違っているかしら?」

 そう答えた。



「で、そうするんだ? 日和見(ひよりみ)ウイルス『さわみっこ』よ」

 暇乞い(いとまごい)をした俺たちは、物のついでに実習棟の各教室を回っていた。

 視聴覚室、理科実験室、情報処理教室……。どれも、放課後は各部活の部室へと様変わりしているようだった。

「正直、毒気を抜かれた感じですね……。あんなに、いい人たちを、わたくしの都合で振り回してはいけないことに気づきました。ちょっと、熱にうなされていたかもしれないです」

 俺の肩にも頭が届かないくらい背が小さなみこ。こうして二人で並んで歩くのは、慣れているとはいえ、アンバランスだといつも思う。

「さて、これからどうするんだ? 俺は教室にはあんまり戻りたくない心境だから、このまま図書館を見学させてもらうが、お前はどうする?」

 うーん、とみこは伸びをすると、

「わたくしは、一旦教室へ戻りますね。悠一さんとはただの幼馴染みなだけだと誤解を解かなくてはいけませんし、クラスの女子とも仲良くなっておかないといけませんから。これはこれで面倒くさいことなのですよ」

 何が面倒なのかはオレにはよく分からなかったが、

「そうか。じゃあ、駅で預かってもらってるミカン箱を忘れずに受け取っておけよ。もう、学校に持ってくるんじゃないぞ」

 みこが俺を見上げる。こうしてみると、やっぱりみこは美少女なんだと改めて思う。

「あれは布教台ですよ。あの上に登らないと、御言葉(みことば)を伝えるときに、わたくし、背が低くて、周りの方のお顔を見ることができませんから。お祖母さまの形見なんですよ」

「普通はそういうことはしないものだぞ」

 俺の言葉に、みこが言い返した。

「わたくしにとっては、それが普通なんですよ。わたくしの大切なアイデンティティーなんですから!」

 みこからバテレンの教えを取り除いたら、どうなるんだろうか。きっと、そこら辺の可愛らしいが、つまらない女の子になってしまうのかもしれない。みこはみこでいいのかもな。

「悠一さん、今、わたくしのこと、心の中で変な女だと思いませんでしたか?」

 みこの問いに、俺は答えた。

「思ったさ」



 志樹高校の図書館は、噂通り立派なものだった。

 もともと、この洋館は昭和初期にドイツ人の富豪が建てたもので、幸運にも第二次世界大戦で焼け残ったという逸話がある建物である。

 老朽化したものを戦後、改築して現在も使われている。

 あまりに手を加えすぎていて、過去の面影は実際のところ、ほとんど残っていない。

 それなら、新しい建物を最初から建設すればいいのだが、この建物自体が、反戦の記念碑的意味合いを持っているらしい。俺もそれ以上詳しいことは知らない。

 図書館に入って、最初は戸惑ったが、入り口向かって右にある、貸出窓口に座っている司書の案内を受けて、一階に設置されているゲートに学生証を入れると、入館することができた。駅の改札口と同じ構造だ。

 三階建て。

 一階は館内閲覧専用の禁帯出図書や百科事典などがあり、二階は文系寄り、三階は理系寄りの図書があるようだ。

 俺が二階への踊り場にさしかかると、セミロングの一人の少女が大量の書籍を抱えて降りてきた。

 うちの高校のブレザーとは違い、彼女はセーラー服を着ている。カノン高校の女生徒らしい。

 そういえば、志樹高校の図書館は県内の高校生にも開放されているんだっけ。

「おっと……」

 危なっかしい足取りだ。

 そして、俺の危惧したとおり、彼女は盛大に転倒した。

「あたたた……」

「大丈夫ですか?」

「……ごめんなさいね。大丈夫ですわ」

 品のある澄み切った声だったが、何処かで聞き覚えがあった。

 俺は散らばった図書を拾い集める。歴史物の書籍が多い。(くだん)の少女を見て、俺は凍り付いた。向こうもこちらへ視線を向ける。

「何だ、あんたか」

 彼女の声色が変わった。

 相手は俺の姉貴の、めぐみだった。

 俺がこの世で苦手な物を挙げるとするなら、一番目は、蒸し暑い夏の夜中にキッチンの水回りで蠢く(うごめく)茶色いGであり、二番目はこの女である。

「早く拾ってよ。ついでに、家まであんたが持って行ってくれない? 重くて、重くて」

 だるい、とか言いつつ姉は立ち上がった。ふてぶてしいにも程がある。仕方なく、俺が全部本を回収してやり、彼女に手渡す。

「ほら。そして、部外者は消えてくれ」

 俺は立ち去ろうとする。が、姉は床に一旦書籍類を置くと、俺の肩を掴んだ。

「じゃあ、半分でいいから。持って帰って」

「あのな……。新しい門出の今日の日に、可愛い弟に、そんな物持たせる姉がどこに居るんだ?」

「ひあ」

 自分自身を指さす、姉、めぐみ。

 一瞬、意味が分からなかったが、ここ、と英語で言ったつもりらしい。

 彼女は鞄の中から折り畳まれたビニール製の塊を取り出して拡げた。携帯用の買い物袋だ。

「ほら、これあげるから。貸し出し手続きが済んだら、この中へ入れるといいわ」

 ちっ、仕方ないな。俺は不承不承(ふしょうぶしょう)半分引き受けた。

「ありがと。例によって礼はしないけどね。あと、それから!」

「まだ、何かあるのか?」

「今日、みこちゃん、カノン高等科(うち)に来たみたいね。騒ぎがあったって報告受けたから」

 姉は嘆息してみせる。

「困るのよね~。カノン高等科(うち)の風紀が乱れるじゃない。何とかしてよ、あの()の常軌を逸した宗教活動」

 姉はこう見えて、カノン高等科の生徒会長なのだ。信じられないかもしれないが、事実なのだ。

 俺も信じたくはない。お嬢様高校の顔ともいえる存在の正体が、こんな姉だとは。

 おまけに志樹高校の生徒会長とは親しい間柄らしいというから、俺にとっては先行き不安要素の一つである。

「みこちゃんも、高校生になったら、少しはお淑やかになるかも、なんて期待は所詮楽観的希望でしかなかったか。ちょっと、彼女の考え方、カルトっぽくて良くないと思う。自称プロテスタントらしいけど」

 姉は、みこのことをあまり良くは思っていない。

「とにかく、カノン高等科(うち)には、もう来ないように言っておいて。じゃあね」

 彼女はそう言い残して、階段を降りていった。颯爽と舞うように。また猫を被りおって、この女は。

 確かにみこは変わっているかもしれない。だが、めぐみは彼女に対して少し手厳しいのではないか。

 三階まで姉の余計なお土産を持って上がる。

 姉のめぐみがいて良かったと思ったことはない。

 少なくとも俺にとっては、めぐみ、であった例しがない。災悪とでも名付け直したいところだ。

 目当ての心理学関係のコーナーまで来ると、適当に本を漁ってみる。

 俺は大学は心理学専攻に進むことを検討していた。漠然と興味があったからだ。

 何処にでもあるような、規模の小さな書店に置いてあるカジュアルな心理学関係の書籍と言えば、『血液型で分かる性格診断』とか『人間関係が良くなる本』などの一般受けするタイトルばかりだが、大学で学ぶ心理学は全然違う、ということを俺は最近知った。

 『行動主義』とか『オペラント条件付け』とか『弁別(べんべつ)』などのキーワードなどが飛び交う全く違う科学であり、日本では文系科目であるが、アメリカでは理系の学生が学ぶ領域なのだそうだ。

 『犯罪心理学入門』という比較的ソフトなタイトルを手にして、俺は閲覧テーブルに腰掛けた。

 すると、目前に女子生徒の一団がやってきて、何やら会話を勝手に始めやがった。

「……先輩から、聞いたんだけど、この図書館って出るんだって」

「……何が?」

「だから、幽霊が……」

 またか。

 今は桜咲く四月だというのに、怪談か。夏に話せ、そういうことは。

 そして、静粛さが要求される図書館では会話自体しないでもらいたいものだ。

「決まって土曜日……閉館後の図書館で……」

 うるさいぞ! お前ら! と口に出す勇気はない俺なので、場所を変えることにした。

「……涙を流しながら……口づけ……」

 少女たちは、口づけ、というフレーズに小さく歓声を上げた。怖がっているのか、盛り上がっているのか分からない。

 俺は彼女たちが囁く場所から離れた。女三人寄ればかしましいとは、このことだ。



 数週間が経ち、高校生活に慣れてきた頃。

 俺とみこは結局、放課後は歴史資料室、つまり、宗教学研究会で過ごすのがルーティンとなっていた。

 所属する部活として、俺は体育会系は最初からパスする予定だったし、文化系にも目ぼしいものが見つからなかった。

 いや、正直に言えば、情報処理部に入ろうと思っていたのだが、姉であるところのめぐみから、『あんたは隣のみこちゃんの監視役に決まったからね。友達と話してたら、そういう流れになったら頼んだ。あんまり騒ぎを起こしたくないの。分かるわよね? これも、お互いの学校の風紀のためだから』などと、めぐみ容疑者は極めて自己中心的かつ卑劣な供述をして、翌日には部員届けが受理されていたのである。

 もちろん、俺はそんな物には署名してないし、提出もしていないが、志樹高校の生徒会長が部員届けを勝手に作成して、勝手に受理した形になっていたのである。

 そう、めぐみの友達とは、志樹高校の生徒会長のことである。

 カノン高校でのみこの振る舞いを、姉から聞いて決定事項にしてしまったのだ。はっきりいって、これは女性生徒会長二人が結託した暴挙であり、悪の枢軸といっても良い。

 俺には部活を選ぶ権利すらないらしい。

「あの女、今に素っ裸にした後、冬の川に簀巻(すま)きにして流してやる……!」

 俺は暗い復讐劇の妄想で、自分の心の隙間を埋めるしかなかった。

「悠一さん、表情が最近、暗いですね。何か、お悩みでもあるのですか?」

 みこが心配そうに訊ねてくる。

「いや、ねえよ……!」

 言葉遣いまで歪む始末だ。

「『だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで……』」

 みこは聖書の一節らしき文言を俺の耳元で囁くと、

「イエスさまもこうおっしゃっておられますから!」

 そう微笑んだ。みこにとっては、自分が回復呪文か何かでも唱えた気分らしい。非常にご満悦な様子である。残念ながら、俺には何の効果もないが。

「……ありがとよ」

 半ば義理でそう礼を言う。その時、俺はカノン高校の純粋無垢な生徒たちに、めぐみが頭に三毛猫でも乗せている姿をなだめすかして撮影してやり、写真を校庭にばらまいてやる妄想で頭が一杯だった。あんたらのコーコーの生徒会長さんは、妖怪猫かぶり女じゃけえのう、と広島弁で筆書きしておくことも忘れない。

「宗教学研究会にふさわしいやりとりですこと」

 霧島さんは相変わらずニコニコして、穏やかに俺たちのやりとりを眺めている。

 彼女は今日も私服だ。

 そして、それは最初に会ったときと同じ服装である。

 俺は突っ込みを入れたかったのだが、常識人として女性にそんな失礼なことは言えなかった。

 彼女なりのポリシーがあって、その上下セットがいたく気に入っていて、クローゼットにずらりと同じ服が入っているのか、それとも単に洗濯が面倒なのかは分からない。

 みこもあえて、そのことに触れないし、有馬も同様であった。

「今日は、わたくしから提案があります!」

 みこが挙手すると、はい、御国さん、と、霧島さんが指名する真似をして面白がる。

「わたくしは一度、皆さんをちゃんとした基督教教会にご案内したいと思っています! 机上の空論だけでなく、実際の教会の雰囲気を把握することも有意義ではないかと思うのです!」

 もっともらしく聞こえるが、中学の社会見学の授業でも同じ発言したよ、この人。結局、自分が毎日曜日ごとに通っているキリスト教会へ案内しようとした、新手の宗教の勧誘だよ、それ。

「……却下だな」

「ど、どうしてですか! わたくしたちには、外の世界に触れることも必要です! 『書を捨てよ、町へ出よう』と昔の偉い人も言いました!」

「なら、最初の本は、みこの一番大切な本にするか」

 俺はテーブルの上に置いてあった、みこの古びた聖書を掴んだ。

「や、やめて~! それだけはダメです!」

 みこは俺の手から聖書を取り返そうと、あがいている。

「……バカップル」

 先ほどから分厚い本に視線を落としていた有馬が口を開いた。仕方なく、

「……ほら、返す!」

 俺はみこに聖書を返してやると、彼女は涙目で、それを大事そうに抱きしめた。

――ピシッ!

 突然、部室内に奇妙な音が響いた。

――バキッ、パリン!

 何の音だ?

 俺は思わず部屋を見回す。

「あらあら、また、おいたをして……」

「まったくです、部長。彼女たちには困ったものです」

 有馬は視線を上げると、ふんわりと微笑み続ける霧島さんの方を見て、無表情に頷いてみせる。

「あっ……あそこ、見てください!」

 俺は左側の書棚のガラスの一枚に亀裂が走っているのに気づいた。みこも同じ箇所を見つめた。

「あのガラス、さっきまでは割れていなかったはずです!」

「……どうして、ガラスにヒビが入ったんでしょうか? 経年劣化というものでしょうか?」

 みこの問いに、

「そこは張り替えたばかりですからね。なに、心霊現象というやつですよ。よくあることです」

 有馬は事もなげにそう答えると、読書を再開した。

「……よくあるって、大変なことじゃないですか、これ!」

 俺は思わず椅子から立ち上がって叫んだ。霧島さんは笑顔のまま、

「見沢くんも、こういう環境に早く慣れてくれたら嬉しいんだけどね」

 そう答える。

 意外だったのは、みこが怯えなかったことだ。彼女は、

「幽霊って本当にいたんですね」

 などと?気に感想を述べている。すると、有馬が俺たちを見て、

「ガラスといえば、他に割る方法を思いつきますか、見沢くん、御国さん」

「え……?」

 こんな非常時にクイズを出すのか、この男は。

「例えば、物を投げつける、とかでしょうか? ボールとか」

 みこが答えた。有馬は頷いて、

「それも一つの方法ですね。他には? 見沢くんは何か思いつきますか?」

 俺に振るのか。

「そうですね……。ええと……」

 俺はしばらく考えて、一つの答えが浮かんだ。有馬は俺の返答を待たず、

「そうです。見沢くんが考えたように、冷たい水と熱湯を用意すれば良いんです。どちらかを先にガラスにかけた後、もう一方をかける。熱湯をかけた後、冷水をかければ、熱膨張したガラスは瞬時に割れます。そして、砕けたガラスと、熱くも冷たくもない水が残ります。面白いと思いませんか? こういう事例。電気もプラスとマイナスが接触すれば、豆電球を光らせることが出来ます。陰と陽、この二つが合わさったとき、今までなかった不思議な現象が起きる。実に興味深いことです」

 有馬はそう言って、何かに思いを馳せているようだ。

――バンッ!

「……ひっ!」

 今度は背後から、かなり大きな音がした。俺は思わず情けない声を上げてしまった。

 恐る恐る振り返ると、腕章を付けた女生徒たちの一団が、開いている部室の扉付近に立っていた。先ほどの音は彼女たちが勢いよく扉を開いた結果らしい。

「……御国みこさん、いらっしゃいますか?」

 その中のツインテールの髪をした、目つきの鋭い少女が、ずかずかと部室に入ってくる。

「治外法権ですよ、ここ」

「部長さんは黙っていてくださいますか!」

 有馬のどうでもいい冗談を少女は一喝した。幽霊ではなく、生身の人間らしい。

 俺はその時、少し違和感を覚えた。

「あなたが御国さんね」

 少女は自分が風紀委員であること、みこの写真が一枚必要なことを早口で伝えると問答無用とばかりに素早くカメラを取り出すと、みこを無断で撮影した。

「ちょっと、何なんですか! 勝手にわたくしの写真を撮らないでください!」

 さすがのみこも抗議の声を上げたが、

「私は風紀委員だからいいのです。生徒会長の指示に従ったまでですから」

 そう訳の分からない理屈を告げると、足早に廊下側に戻り、乱暴にドアを閉めた。女生徒たちは去って行ったようだ。

「…………」

 部室に静寂の(とばり)が降りた。

「一体、何なんですかね、あの連中は?」

 俺の問いに、

「風紀委員さんたちよ」

 いつもの表情を崩さず霧島さんが答える。

「いや、それは分かっているんですがね……」

 俺はどうして風紀委員が部室に乱入したのか、どうして、みこが写真を撮られなければいけないのかを訊ねた。

「簡単なことです。興味があるからです」

 有馬がいつものように本に視線を落としたまま答えた。

「生徒会長の特別なお気に入り、としてね」

 有馬の意味深な言葉に、みこが不安そうに訊ねる。

「どういう意味なのでしょうか? 場合によっては、わたくしが、その生徒会長さんの脳天をかち割らなくてはいけない話になりますよ」

 そう穏やかじゃないことを口走る。

「マークされたってことね。見込みがあるのね、御国さんは」

 霧島さんは独り頷く。

「有馬くん、やっぱり生徒会長さん対策をするのかしら?」

「この章を読み終えたら、そのつもりですが」

 霧島さんと有馬は、俺たちそっちのけで勝手に話を進めている。

「さっきからお二人で何の話をなさっているんですか?」

 俺は率直に訊いてみたが、

「それは後のお楽しみね。悪いけど、新入部員のお二人には、ちょっと席を外してもらえないかしら? 私は有馬くんと大事な話があるので。これは部長命令ね」

 霧島さんは珍しく素っ気なく返事をした。俺はみこと顔を合わせた。みこの頭の上にはクエスチョンマークが出ていたかもしれない。

「……分かりました。いや、良く分かりませんが、俺たちは帰ることにしますよ。みこ、行くか」

 不承不承(ふしょうぶしょう)帰り支度をして、部室を去る俺に、みこも慌てて倣った(ならった)。

 俺は今日の一連の不可解な出来事に思いを馳せる。

 この部はどこか変わっている。それに大切な話って何なんだ?

「これから部長と乳繰り合うだけのことです」

「……え?」

 振り返って聞き返す俺に、有馬はこちらを見やって、

「冗談です。精神を集中できる環境が必要なだけです。それと、御国さんはまだ大丈夫ですから、慌てて突飛な行動をすることは避けてください」

 そう告げると、代わりに、霧島さんが手を振って別れの挨拶をした。



 自宅の前で、みこと別れる。

 みこは、例によって、わたくし、友達とこれから駅前で布教してきますから、とか、布教台を忘れずに持って行かないと、とか、今日はわたくし、聖霊に満たされているんです、等々の相変わらずエキセントリックな発言を残して、隣の家に消えていった。一度、その友達とやらの顔を見てみたいものだ。

 俺も自分の家に帰宅すると、リビングのドアを開けた。

 南向きの日当たりの良い部屋にテレビと観葉植物が配置されている典型的なリビングルームで、取り立てて珍しいこともない一室だ。

 その中央で、姉のめぐみが、セーラー服のままカーペットに寝そべって菓子をぽりぽり食べながら、少女漫画を読んでいる。

 テーブルの上には、ティーカップが二つ置いてあって、そこにある菓子の袋から、手探りで菓子を摘まんでは口へ運んでいるのだ。

 靴下は片方脱げているし、十字架のペンダントが転がっている。だらしないこと、この上ない。

「めぐみさんよ、そのペンダントは大切な信仰の証じゃないんですかね?」

 不毛な質問だと思いつつ、姉に問うてみる。めぐみの奴は、

「ああ? ペンダント? あんた、馬鹿ね。ロザリオっていうのよ。首に付けるものじゃないし。こんな物、購買に山積みになって売ってる飾りみたいなもんだし」

 はい、はい、そうですか。そういえば、こんなやりとり何回もしてるような気がする。

「誰かお客さんが来てたのか? カップが二つあるぞ」

「来てた。さっき帰った」

 そうかい。俺はソファーに座って、ネクタイを緩めた。

「その様子だと、随分親しい間柄だったようだな」

「そだよ。あんたの学校の生徒会長さんだもん」

 うっ……。

 悪の枢軸の片割れが居たのか。

 そういえば、この腐れ姉貴が余計な入れ知恵したばっかりに、俺は宗教学研究会という十字架を背負わされたんだったな。

「その生徒会長さんってのは、どんな人なんですかね? 一度、ご挨拶したいんだが」

 この拳でな。

「ってか、こんな展開ないっしょ。これは連載続かないわ。あと、数回で打ちきりとみた」

 めぐみさ~ん、俺の話、聞いてますかね?

「なあ、姉貴。俺の学校の生徒会長さんがどんな人か知っておきたいんだが、聞いていらっしゃいますかね?」

「コーラ取ってきてくれたら、教えてあげないこともない」

 仕方ないな。俺はキッチンの冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出して、グラスに注ぐと、姉の目の前に置いた。

「一言で言うと、変な人かな」

 姉は一口飲んで、漫画を読み耽っている。

「めぐみさんみたいな?」

「……殺すぞ、ワレ」

 俺は即座に土下座した。すんませんでした、姉御……。

「別の言葉で言えば、オカルトマニアだよ。なんか、あの()、本気で魔術師目指してるらしいわ。時代錯誤(じだいさくご)も甚だしい(はなはだしい)って思うけど、本人はその気だから、誰にも止められないね。このあたしも(さじ)を投げた」

 魔術師だと……?

「ファイアボールとかメテオストームとか使えるのか?」

 火の玉で敵を攻撃するとか、宇宙に漂う微少な浮遊物体を誘導して地上に落として、大爆発を起こすというアレ(呪文)のことである。

「そじゃなくて、自らを霊的に高めて、神の深淵(しんえん)を見たいとか言ってた」

 そうか、そうだったのか。それは別の意味でメテオストームかもしれない。地球が滅んでも仕方ないな。

「なんか、隣のみこが狙われてるようなんだが、どうしてか姉貴は分かるか?」

「知らん。黒ミサでも開くんじゃない? エロイム・エッサイム、我は求め、訴えたり! とか言って、みこちゃんの喉笛(のどぶえ)に短剣突き刺すとか」

 俺はバカ姉貴の言葉に動揺して、思わずソファーから立ち上がった。

「それって、本当なのか? みこは今とても危険な状況にあるんじゃないのか? 生命の危機なのか? どうなんだ、実際のところ!」

 姉のめぐみはしばらく押し黙ったままだったが、口を開いた。

BL(ボーイズ・ラブ)最高! 萌えるわ~! やっぱ、このキャラは総受けで決まりね!」

 俺はめぐみの言葉に脱力して、思わずソファーに身を預けた。が、

 みこに危機が迫っているかもしれない!

 しばらくして虚脱状態から復活した俺は慌てて彼女に電話をかけた。残念ながら、留守電で繋がらない。

 こうなったら、仕方ない!

 俺は着替える時間を惜しんで、家を飛び出した。背後から、バカ姉貴の『コンビニでアイス買ってきて!』という声を振り切っての出動である。

 姉のめぐみは、たとえ真冬であろうともアイスばかり食う女なのだが、この際そんなことはどうでも良かった。

 駅前って言ってたな、確か。最寄りの河合駅が一番確率が高いと踏んだ俺は、チャリ(自転車)に乗って駅方面へと向かおうとして、門から出た。

 その時、スマートフォンが鳴った。俺はすぐに電話に出る。みこからかもしれない。

「見沢くん、河合駅に向かうんですか?」

 電話の相手は有馬先輩だった。

「そうですよ! みこに魔の手が忍び寄っているかもしれないんです! 忙しいから、切りますよ」

「大丈夫です、と言っておいたはずですが。まだ、アルカナがその時でないと告げていますから、軽挙妄動(けいきょもうどう)は慎んでください。あなたには後ほど大事な役目がありますから、その時のために自重してください。これは副部長命令です」

 そう伝えると、電話が切れた。

 何なんだよ、どうしろっていうんだ?

 俺は少し考え込んだが、やはり、みこを探すことにした。有馬の副部長命令とやらより、彼女の身の安全の方が重要だ。

 中央橋の上り坂をペダルを漕いで進む。

 入学したての頃は、河川敷に花見客がごった返していたが、その桜も今は散り去り、緑の葉を茂らせている。

 河合駅のロータリーまで辿り着いた。バス停やタクシー乗り場が点在している。

 ちょうど電車が停車したところらしく、階段や下りのエスカレーターにはスーツ姿のサラリーマンらしき人々や、学生たちで溢れかえっていた。

 ストリートミュージシャンがギターを演奏していたり、ホームレスがベンチに横たわっている。ごくありふれた日常の光景だ。

 みこは何処だろうか? 果たして、ここにいるのか?

 俺はチャリを駐輪場に駐めると、人混みの方へと向かおうとした。その時、

「そこの少年」

 俺に声をかけてくる声がした。

 振り返ると、杖をついた老人が立っていた。みすぼらしい格好をした、何処にでもいそうな爺さんである。

「百円くれ、いや税込み百二十円。きっと良いことがあるぞ」

「…………」

 ふざけるな、と言いたかった。が、俺は寝食(しんしよく)にも困って路頭に迷っているのかもしれないと思って、財布から百二十円渡してやった。

 俺も将来落ちぶれて、この老人のようになるかもしれない。情けは人の為ならず、というやつだ。

 老人は金を受け取ると、(ふところ)にしまい込んで、

殊勝(しゅしょう)な若者じゃな。では、礼をせねばならんな」

「いや、それはいい。忙しいんで」

 そう言って、立ち去ろうとしたが、彼に肩を掴まれた。

「まあ、そう言いなさんな。私、いや、わしはこれでもインドの山奥で修行した身。仙人ですの……ごほん、ごほん、仙人なんじゃ」

「それは凄いですね。でも、急いでいるので、礼はいいですから」

 認知症なんだろうか? 気の毒に。

 俺は肩に掛かった老人の手を、できるだけ丁寧に引き離そうとしたが、ビクともしない。

 何だ? このか細い腕を振り払えないとはどういうことだ?

「では、サービスしてやろう」

 老人は目をくわっと見開き、

「おぬし、只者(ただもの)ではないな!」

 そう言い放って見せた。何の真似だろうか?

「……すみませんが、そろそろこの辺で勘弁してくださいませんか?」

 老人は、決まりが悪そうに、

「今のは、若者が謎の修行僧から言って欲しいランキング上位三位に入るセリフを言ってあげたの……ごほん、ごほん、言ったみたのじゃがイマイチだったかな?」

 はい、そうです。意味すら、良く分かりませんでした。

「ご老体には申し訳ありませんが、俺、人を探してるんですよ。この手を放してもらった方が正直嬉しいです」

「今のは単なるつかみじゃ。これからが本番よ……ごほん、ごほん、本番じゃ」

 この老人の言葉は時々おかしくなるな。

「おぬしは御国さんとやらを探しておるんじゃろ?」

「……!」

 どうして、その名前を。この老人、只者(ただもの)ではないな……。あれ、どっかで聞いたセリフだぞ、これ。

「その少女なら、ここにはおらんから、とにかく落ち着きなさい。では、始めるぞい」

 老人は左手の杖を持ち上げると、何やらぶつぶつ唱え始めた。聞いたことがない言葉だった。何を言っているのか、さっぱり分からない。

「……はうあっ!」

 そう、最後に言い放ったかと思うと、俺は杖で頭を思いっきり強打された。意識が一瞬飛んだ。

「……何するんですか、あんたは!」

 さすがの俺も、キレかれた。老人はぺろりと舌を出して、

「ごめんね……じゃなかった、すまんかったの。じゃが、今のおぬしには必要な儀式だったから、許しなさい」

 何なんだ、この訳の分からない爺さんは。

「そんなことより、みこ、御国みこという女の子は、本当にいないんだな? どうしてそれが分かる? 何故知っている?」

 詰め寄る俺に、老人は、何、少々、星々の運行に心得があるんじゃ、もう帰っていいぞ、それから、お姉さんに宜しく伝えてくだされ、云々(うんぬん)と言って、近くにあった自販機でジュースを買って、飲み始めやがった。

 俺はどっと疲れてしまった。何だか、馬鹿馬鹿しいことに時間を費やした気がする。この怪しい老人の言葉はやはり信用できない。

 それから、俺は河合駅付近をくまなく探したが、結局みこは見つからなかった。どうやら、ここで布教とやらをしていたわけではないらしい。

 相変わらず携帯も繋がらないし、日も暮れかけてきたので、仕方なく帰路に着いた。河合駅を去る頃には、さっきの老人の姿はどこにもなかった。

 俺は、自宅へ戻り、リビングの扉を開ける。と、目の前には、仁王立ち(におうだち)になった姉、めぐみの姿があった。俺は背筋が凍り付いた。

「随分と遅かったじゃない。ラムレーズンはあったんでしょうね? まさか、溶けてないでしょうね?」

 その後、バカ姉貴に投げ飛ばされて、俺は三途(さんず)の川の手前まで意識が飛ぶ羽目になった。



 それから数日後、霧雨の降る放課後のことだ。

 俺はそれなりに親しくなった横溝や小石川というクラスの仲間と一緒に、窓際あたりにたむろして、ごくごくありふれた日常会話で時を過ごしていた。

 姉のめぐみに冥府(めいふ)の入り口まで強制送りになった日にも、みこは無事に布教活動とやらを終えて帰宅してきたし、今現在もって何事もなく、学校生活を送っている。

 俺が気を揉んで、みこの帰りを待っていたあの日は、彼女が、今日も誰もわたくしの言葉に耳を貸してくれなかった、とか、あやうく警察署まで連行されそうになった、等という話を聞かされたり、牧師さまに自主布教なんて止めるようたしなめられているけど、どうしましょう? などと相談を持ちかけたりされただけで危惧していたようなことは結局起こらなかったのだ。

 クラスでは、いつの間にか、俺は地味系男子として、みこは不思議ちゃんとして認知されることとなった。

 みこは、学校では布教こそしなかったものの、結局、自分がクリスチャンであることを公言したし、時折、おそらく神様とやらに祈りを捧げていたり、聖書では何たらかんたらとか口にしたりしたから、クラスの連中は、そっち系の人間として彼女を把握したらしい。

 黙っていれば、クラスのメジャーグループに君臨できただろうし、言い寄る男子連中も今よりずっと多かったに違いない。

 みこは、自身の多分に偏った信条のために、実りある青春を棒に振っているのかもしれない。実に勿体ない話である。

「今日は、嫁さんは帰宅したのか?」

「あいつは、単なる幼馴染みであって、嫁ではない」

 苛立ちながら、俺は横溝に返答した。

 横溝の奴は、最近、みこのことを、勝手に俺の嫁と冷やかすようになっている。まったくもって、腹立たしいことだ。

「でも、あんなに可愛い幼馴染みがいて、いいなあ」

 眼鏡をかけた小石川が言う。彼はクラスでは一番目立たないキャラだ。

「みこがもっとノーマルな性格だったらな。所詮、世の中にはギャルゲーに出てきそうな幼馴染みなんて居ないのさ」

 達観したように俺が答える。と、その時、

「屋上だ!」

「今度は、3―Aの女生徒らしいです! 早く行きましょう、竹村先生!」

 なんだなんだ?

 二人の教諭が廊下を走っていく姿を垣間見る。

「大変、大変! 学校の屋上から飛び降りようとしている生徒がいるんですって!」

 教室に残っていたクラスの連中は騒然となり、最初に女生徒たちが、遅れて男子生徒たちが、我先へと昇降口の方へ向かって行く。

「見沢、オレたちも行こうぜ!」

 横溝はそう言い残すと、クラスの連中に倣った(ならった)。仕方ない。

「俺たちも行くか」

 俺と小石川も昇降口へ向かう。

 どこからやってきたのか、多数の生徒たちが階段を駆け上がっている群れに出くわす。みんな、好きだな、こういう騒ぎ。

 その他多数の集団に加わった俺たちも、昇降口を登り切ると、普段施錠されているはずの屋上へ繋がる扉が開いていて、現場では、大勢の生徒たちで埋め尽くされていた。

「早まるんじゃない!」

「何が原因だ? 先生たちに相談してくれ!」

 竹村教諭や他の教師たちが思い止まらせようと、口々に声を張り上げている。

 別の先生方もいて、俺たち生徒に、お前たちは教室に戻れ! と叫んでいるが、野次馬の生徒たちに解散する様子は見られない。

「これじゃあ、よく分かりませんね」

 小石川の言葉に、ああ、と返事をする俺。

 実習棟側の校舎を臨む北向きの方角には、物見高い生徒たちの壁ができていて、(くだん)の女生徒の様子はよく分からない。

 俺もまさか生きている間に、飛び降りを図ろうとする修羅場(しゅらば)に出くわすとは想定もしていなかった。

 俺と小石川はこの騒ぎの中、突っ立っているだけであったが、

「おい、こっちに来いよ!」

 横溝が強引に俺たちの手を引っ張って、人ごみを押しのけて進んだ。

「何だ、乱暴な」

 俺の言葉を意に返さず、横溝が先導して、少女の姿が見える場所まで歩を進めた。

 果たして。

 屋上の柵の向こうに、女生徒が一人、今にも転落しそうな様子で立っていた。彼女は靴を脱いで、その後ろ姿しか分からない。

「なあ、ベスト・ポジションだろ?」

 横溝が得意げに俺たちに言う。この非常時に、何がベストなものか。

 と、その時、少女がこちらを振り返った。

 霧雨と強風の吹く中、彼女の髪がなびいている。

 その瞳は何処かうつろで、焦点が合っていないようだった。

 額には、見たこともない文字が記されている。

 何だ? どうして、こんな記号が額にあるのか……?

 ふっ、と少女の身体がゆっくりと傾き、そして消えた。

 一瞬のはずだが、まるでスローモーションのように俺には映った。そして、バンッ! という凄まじい衝撃音が聞こえてきた。

 人が地面に叩き付けられた時、こういう音がするものなのか、と俺は少し見当外れなことを思った。

「落ちたぞ!」

「警察と消防はまだなのか! 救急車は?」

 周囲に怒号が響く。

「お前たちは見るな! 下がれ、下がれ!」

 教師たちは必死になって、柵から覗き込もうとする生徒たちを制している。

 卒倒する女生徒が出たり、口から汚物を吐き出して、うずくまる生徒もいる――。

 混乱を極めた様相に、さすがに横溝も青ざめて、

「嫌なもん、見ちまったかも」

 などと、今更後悔の念を口にする。

「祟られなきゃ良いけど」

 小石川が言う。

 俺はその時、実習棟の屋上に人影があるのに気づいた。

 黒ずくめのその人物は、しばらく転落現場を見ていたようだが、俺と目が合うと、さっと踵を返して消えてしまった。

 実習棟の屋上も施錠されているのに、どうして一人だけ入ることができたのだろうか。

 泣き崩れる女生徒たち、興奮して騒いでいる男子生徒たち――。

 教師たちも喧々諤々(けんけんがくがく)としていたが、どうやら、意見の一致を見たらしく、一斉に、集まっていた生徒たちを校舎の屋上から閉め出し始めた。

 俺たちも、その流れに乗って、階段を降りていくことにした。途中、

「やっぱり志樹高校なんか来なきゃよかった! この学校、呪われてるって、うちの中学では有名だったし! 次はあたしかもしれないし!」

「ホント、そうだよね。聞かされるのは幽霊の話ばかり。しかも、全部が女の幽霊ばかりじゃない?」

「知ってる? この学校の周りに、よくパトカー来てるでしょ。なんでも、女の子たちの連続不審死で警察の巡回パトロールコースにここも入ってるらしいよ!」

 噂話が聞こえてくる。

 そういえば、姉のめぐみも、俺が願書を出す際に、志樹高校は止めとき! と言っていた記憶がある。

 友人が志樹高校にいるのに、どうして俺にそんなことを言ってくるのかよく分からなかったが、もしかしたら、この学校の不吉な噂を知っていての彼女なりのアドバイスだったのかもしれない。

 ともかく、今日、みこが真っ直ぐ家に帰宅したのは不幸中の幸いだったな、と思った。彼女が現場に居合わせるようなことがあったら、感受性の高いみこの心は深く傷ついて、トラウマになったかもしれない。

 そうだ。そういえば――。

「ちょっと、実習棟に用がある!」

 俺は横溝たちにそう言い残すと、足早に階段を降りようとするが、誘導に回っている教師に首根っこを引っ捕まえられた。

「勝手なことをするな! ゆっくり降りろ! 将棋倒しになったら、お前はどう責任を取るつもりだ!」

 と頭ごなしに言われ、渋々従うことにする。確かに反論する余地はなかった。二次被害が出ることを教師たちも恐れているのだ。

 もどかしい気持ちで、ようやく一階まで降りたところ、予想通り、中庭回廊へと続く扉は閉鎖されていた。俺は嘆息する。当たり前の話だ。教師たちが転落現場に生徒たちを近づくのを許すわけがない。

 だが、俺の真意は、悲惨であろう現場を見物したいわけではなく、実習棟の歴史資料室、すなわち宗教学研究会の部室に行きたかっただけだ。

 俺は一旦教室へ戻ると、嫁に電話か? などと横溝の下世話な言葉を無視して、相手に呼び出しをかける。だが、残念ながら、電源が入っておりません、という冷めたメッセージが聞こえてきただけだった。

「……くそっ!」

 俺は有馬に電話をかけたのである。

 彼には俺が認めたくはない事柄ではあるが、五感を超える摩訶不思議な力や、未来を予測する力みたいなものがあると、これまでにうすうす感じていたから、例の少女の飛び降りも未然に防げたのではないかと詰問(きつもん)するつもりでいたのだ。

 今は部室へ行くことが出来ないし、電話も繋がらないのであれば、どうすることも出来ないではないか。

「俺、帰るわ」

 そう言って、俺は鞄を引っ掴むと、クラスを出た。頭を冷やすべきだということは分かっていたが、どうすることもできなかった。

 校舎を出ると、サイレンのけたたましい音が響き渡り、警察関係者たちが何かを叫んでいたり、救急隊員たちも同様に忙しそうに動き回っていたが、そんなことは、もう、どうでもよかった。

 とにかく、家に帰って、ベッドに横になって、何も考えなくていいようにぐっすりと眠ってしまいたかった。



「……悠一、悠一ってば! 起きて! っていうか、起きろや、コラ!」

 げしっ。

 いきなり、脇腹に激痛が走った。

「痛っ……! 何するんだ、いきなり!」

 叩き起こされた俺が、周囲を見回すと、ボータ―トップスにジーンズ姿のめぐみがベッドの脇に立っていた。

「夕食も食べずに何寝てんのよ。あんたに、来客よ。ごゆっくり~」

 姉のめぐみはそう言い残して、部屋を出て行った。

 俺は頬を叩いて、眠気を覚ます。

 そうだ、俺は今日、飛び降り事件に出くわして、家に帰ると、そのままベッドに倒れて眠っていたんだっけ。

「悠一さんっ!」

 部屋のドアには、いつの間にか、花刺繍のワンピースを着た、みこが立っていた。泣きはらした顔で、俺を見ると、走り寄ってきて、そのまま抱きついてきた。彼女の身体の重みが俺にのしかかる。

「おい! いきなり、何だよ! あんまり、引っ付いたりするなって、以前あれほど……」

「良かった、本当に良かった……」

 みこは俺の胸元で泣きじゃくっている。

 彼女の嗚咽に、俺は言葉を失った。

 みこは、俺の顔を見上げると、

「さっき、友達から電話がありました。校舎の屋上から飛び降りて亡くなった人がいるって……。わたくし、もしかしたら、悠一さんかもしれない、って思って、心臓が止まるかと思いました。でも……亡くなってしまった三年生の方には申し訳ないけど、それが悠一さんじゃなくて、本当に良かった……」

 みこは、そう言うと、涙を流しながら笑った。そして、笑顔と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、もう一度、俺の胸元に顔を埋めた。

「ごめんなさい、取り乱したりして。でも、もう少しだけ、このままでいさせてもらっていいですか……?」

 みこは俺のスウェットの上着にしがみついている。俺はどうすべきか迷ったが、みこの頭に手を置いた。

「俺がそう簡単に死ぬわけないだろ。俺がいなくなったら、お前みたいな多分に偏りのある女が常識という名の道を踏み外した時、軌道修正してやる奴がいなくなるじゃないか。だから俺は死んだりしない。絶対に、だ」

 みこは頷くと、顔を上げて、ベッドの脇に座り直した。

「そうですよ。わたくし、時々羽目を外す時があるから、悠一さんは、傍にいてくださいね。絶対ですよ」

 俺は頷いて見せた。みこは、はにかんだ顔で照れくさそうに笑みを見せると、

「あと、伝言があります。有馬先輩からも電話がかかってきたので、お伝えしますね。『見沢くん、もし、君が今回の不幸な出来事を二度と繰り返したくないと思うなら、諸悪の根源を絶たねばならない。明日、志樹高校の部室で、皆でお会いしましょう』だそうです」

 俺は部屋のタンスから、ハンカチを取り出して、みこに渡した。彼女は、ありがとう、と礼を言って、涙を(ぬぐ)った。

 その夜、俺は自分が随分と果報者(かほうもの)なのかもしれない、と思った。

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