第五章:さよならの代償17
現れた人物にほっとすべきなのか、身構えるべきなのか考えあぐねて、とりあえずナジュールが困惑顔を浮かべた。
これは正しい判断だったのだろう。顔に似合った問いはすぐさま音となって口から零れ落ちる。
「ジルフォード殿、なぜ、ここに?」
城の中でしか見たことの無い姿。
彼の色は儚い様に見えて、この闇の中でさえ存在を主張する。
「セイを探しています。ご存知ですか?」
「セイラ殿もこの中にいるのか。残念だが一緒ではないよ」
しばらく自由を奪われているうちにどうやらおかしな事態になっているらしい。
この中はさまざまな道が入り組んでいる。
ただ一人を探すのは困難だ。
ジルフォードとナジュールが出会えたのは、おそらくサクヤが大きな道を選んでくれたおかげなのだろう。
そう考えれば、もとよりサクヤはナジュールを殺すつもりは無かったのかもしれない。
最期の笑みのわけを探ろうとしてやめた。
どんな理由をつけたところで、サクヤの罪もナジュールの罪も消えてはなくならない。
ここが闇の領分でよかった。
己の罪を陽の元に曝け出されたら、しばらく立ち上がることが出来ないだろう。
「怪我を」
傍らに膝を着いたジルフォードに血臭の似合わない男だと思った。
闇に浸かった足元は赤く染まっているというのに、ナジュールは傷を負った半身どころか口元さえも獲物を仕留めた獣のように血で塗れているというのに、白い面はそんな世界とは無縁だ。
血なまぐさい唾を吐き、口元を拭ったが取り巻く匂いが変わってようには感じられない。
布を裂く音がした。ジルフォードが応急処置を試みているのだ。
「平気だ」
強がりを言ってみても思いのほか深かった傷口が焼け付くように傷む。
傷口を縛られると思わずうめき声がこぼれた。
「止血はしたけれど、早くちゃんとした治療をしたほうがいい。外に出ましょう」
促されて立ち上がれば、足元がふらついて体勢を崩す。
まだ香による戒めが完全には取れていないようだ。
「掴まってください」
淡々とした声には何の感情も滲んではいないようなのに、数かな苛立ちを感じ取ったような気がする。いや焦りだったのかもしれない。
セイラがこの中にいるのならば当然だろう。
手のかかる厄介者など放り出してさっさと先へと進めばいい。
「置いていけ。ジルフォード殿。私を生かしておいて良いことなどないぞ。生かしておけばいつかアリオスを攻めに来る。私はあの国を救わねばならなん」
撥ね退けようとした腕を逆に絡められ、身体を支えられる。
「そうするといい」
「本気だぞ」
からかわれているのかと思い、ナジュールの声は強くなる。
にらみつけたジルフォードの表情には読み取れるようなものはない。
「こちらも本気で迎え撃とう。……だがナジュール殿は生きて帰らなくてはいけない。あなたを待っている人がいる」
言葉に詰まり、ぐぅと唸り声だけが漏れた。
タハルはどうなっているのか。ルルダーシェは無事でいるだろうか。
気がかりは山ほどあるが、思うように動かない身体が厭わしい。
「それに、死ぬなら正式にアリオスを出てからにしてもらいたい。このままではセイが泣く。セイと貴方は仲がよいみたいだから」
「……あんたって澄ました顔して、さらっと酷いこと言うな」
最愛の妻が泣くから、何が何でもあと二日は生き抜けという。
皆に送られ城門をくぐった後のことは知ったことではないと。
こんな人物だっただろうか。そういえば、二人きりで話したことなど一度も無かった。
「私は、セイラ殿に求婚したぞ」
「そう」
答えに一瞬の逡巡もなかった。事実確認のためにだけ頷かれた。
相手になどならないと言うのか。
こんな状況だというのに、年下相手に腹が立つ。
いや、だからこそか。
「随分と余裕なんだな」
「余裕なんてない。セイのことは分からないことだらけだ」
ジルフォードの弱音めいた言葉におやと視線を上げる。
「セイが貴方を選んだとしても、私には止める術も無い」
何一つなしてこなかったツケが回ってきた。
見ないふり。聞かないふり。
傷つくのを恐れ、どうにか言い訳をつけて逃げていたのだ。
手を差し伸べられても、失った後のことを考えてしまい拒絶した。
去り行くものを引き止める方法など、浮んでは来ない。
「あんたが王だったよかったのに」
「そうかもしれない」
この言葉には驚かされた。
ジルフォードという人物はおおよそ権力というものに興味がないと思っていた。
「私が王ならば、ナジュール殿は楽にアリオスに攻め込むことができただろう。兄上を相手にするのは骨が折れる。残念だった」
「はっ! そうだな。あの御仁の腹を探るのは難しい。物腰の柔らかい人間に見えてなかなかの強情だ。確かに骨が折れそうだ」
ルルダーシェでは、まだ太刀打ちできないだろう。
まだ死ぬわけにはいかない。
香の効果が無くなったのか身体に力が戻ってくる。
「行こう。ジルフォード殿。きっとセイラ殿も大きな道にいるはずだ。大きな道は3通りしかない」
暗い坑道を重たい身体を枷に歩くのは、なかなか重労働のはずなのだが、ナジュールの頭は霧が晴れたかのように冴えていた。
「私にも弟が一人いてね、これがまた中々手のかかる奴なんだよ。それだけならよいのだが、周りがどうも煩くてね」
「ルルド殿でしょう」
「知っていたのか」
「イレズミの模様が同じだったから、親類だとは思っていた」
ほんの一瞬の間によく覚えていたものだ。
見せた時は興味のあるそぶりもなかったのに。
「ただの後継者争いならばいいのだが、どうもそれだけでは済みそうになくてね。……アリオスは、いやジルフォード殿はユザについて何かを知っているのか」
互いの距離を測る沈黙が続く。
ナジュールの声からは、先に手の内を見せるのは得策ではないと考えているのが感じ取れる。
折れたのはジルフォードの方だった。
「ササン暦224年、幾多の嘆きが染込む地に星落ちて、四つ国が誕生す。大陸の中央に生まれし国をエスタニアという。北の地に生まし国をタハルという。東の地に生まれしはジキルドという。そして西の地、嘆きの地に生まれし国をユザという」
「年代記の一部か」
失われし、古の年代記。
幻の五王国時代。それを知るのは、ほんの一部の者たちだけだ。
「城の中で見つけたけれど、傷みが激しくて全てを読むことは出来なかった」
「ジルフォード殿は古代文字が読めるのか。タハルにもいくつか文字の刻まれた粘土板があるんだが、如何せん読めるものが少なくてな。こういったことはエスタニアが得意そうだが……わが国とエスタニアは友好とは程遠い」
だからこそ、欲したエスタニアとの繋がり。
架け橋は亜麻色の髪をした少女。
幻想は突如現れた光源にかき消された。