第五章:さよならの代償13
「ありゃりゃ、予想より起きちゃうのが早かったみたい」
ヒイラギの体内時計は正確だ。
こんなあなぐらで過ごすのはもう慣れっこになっているため、外の様子もなんなく察することが出来た。
青い闇が無慈悲な太陽に貫かれ色を失っていく。夜明けだ。
後ろから軽快な足音がする。
暗闇に怯えた様子は微塵も無い。
入り組み、ほとんど光の入らないノースの道は何かを隠すのにはもってこいの場所なのだが、それがセイラとなると別だったようだ。
今回は教訓を与えるためにも手加減はしなかった。
丸一日眠っていても可笑しくない力を込めたはずなのにヒイラギのすぐ後ろに迫っているということは、予想の半分の時間で目覚め、なおかつ正確な道をすばやく選んですすんできたことになる。
嬉しいのだか悲しむべきか悩むところだ。
セイラが予想以上に出来ることにはぞくぞくする。
鍛え上げればきっとルカに並ぶだろう。
懸念は一つ。その優秀さがあだとなる。
「不味いなぁ。鉢合わせしちゃうかな?」
それはほんの少し困るのだ。
任された計画はちゃんとやり遂げなければ意味がない。
今回のセイラの件はほんのおまけだ。
飽きずに商人のふりをして城へ紛れ込めば、一人の娘が声をかけてきた。
それがヒューロムのキアだということは事前にセイラの話を聞いていたため疑いようがない。
彼女のお願いを聞いて思わず笑ってしまった。
険しい顔をされてすぐに引っ込めたけれど、嘲りは目にも宿る。
馬鹿な娘だ。
与えられたものでは満足できない。
もっともっともっと。
不相応のものを望み続ける愚か者。
もう少し賢ければユザに向いていたかもしれないけれど、間抜けな小娘など寂れた田舎がお似合いだ。
今頃、報酬を求める手紙を受け取って青くなっていることだろう。ああ、愉快愉快。
「ふふ。……うん?」
セイラの足取りが鈍った。
この辺は一本道が続き、迷う場所など無いのに。
途中には祈りの場と呼ばれる空間が数箇所ある。
どういう仕掛けなのか、そこにだけ外の光が入ってくる場所があるのだ。
その一つには変なものが住みついていることは知っていたが、そこは随分と前に通り過ぎた。
先ほど通り過ぎた祈りの場はノースの道の中で最も開けた空間だ。
そこが山脈に穿たれた道だということなど忘れてしまいそうなほど広い。
そこに夜明けの光が入り込み、その光景に魅入っているのかと思ったがぼそぼそと話し声らしきものがする。
「んん? まさかサクヤ殿がしくじった? そんなまさかなぁ……ねぇ」
でも、もしも万が一にも情が移ってしまっていたら。
十年以上も共に過ごしてきたのだから絶対にありえないと言えない。
ヒイラギだって、役立たずのルルダーシェを押し付けられて辟易していたのに、今では別にいいかだなんて思っているのだから。
想像以上に成長した可愛い生徒をサクヤは手にかけることが出来るだろうか。ヒイラギはとんと跳躍し祈りの場へと急いだ。
その場所まではさほど遠くない。
たどり着いた時にヒイラギは思わず奇妙な表情を浮かべてしまった。
セイラと話しているのは背がとても高いことを除けば凡庸とした青年だった。話し方ものろくてヒイラギは苛立った。
あんなのに街から付けられていて気がつかなかった!
羞恥で頬が熱を持ったのが分かる。
「セイラ。戻ろう。ここは良くない」
「うん」
あんなのにセイラが手を引かれているのを見て苛立ちは頂点に達した。
懐に隠していた鋲が唸った。
目にも見えない速さで打ち出された鋲は青年の腕を傷つける。
次の鋲は足の皮膚を裂いた。
「トッド?」
沈みこむトッドに慌てて声をかければ血の匂いがする。
「どうしたの?」
セイラがもう一つの気配を察して辺りを見回した。
闇の一点と目が合った。
それが見知った青年の姿をとるのに時間はかからない。
天井から降り注ぐ青白い光が不気味に青年を闇から切り離す。
「ヒイラギ……」
「やぁ、セイラ」
ヒイラギが進み出れば、顔を歪めたトッドが広い背中へセイラを隠す。
気に入らない。気に入らない。
「君、邪魔だよ」
微かな音と共に無数の鋲が打ち込まれた。
それは、とてもゆっくりに見えた。大きな体が傾いでいく様も、立ち上る砂煙も。
ずんと地が揺れた。
「トッド!」
地に伏した体に力はなく、無数の傷からは血が滲み出している。
鋲の一つはトッドの身体を貫通して背後の壁へと刺さっていた。
「トッド! 待って、起きてよ。ねぇ」
血塊が零れ落ちた。
咽るたびに、大量の血液が全身から噴出した。
いくらきつく押さえようとも、セイラの小さな手では限界がある。両手はすぐに真っ赤に染まった。
「セイラぁ。無理だよ。」
目の前にヒイラギの足が見えた。
視線を上げていくと、困ったように口の端を上げるヒイラギの姿がある。
「それ、かして!」
「えっ?ちょっ……あ~それ取られると肌蹴ちゃうんだけど」
油断している間に、腰に巻いていた紐をひったくられる。
その紐で結んでいるだけなので、でろりと衣ははだけてしまう。返して欲しいと言う前に、それはどっぷり赤に染まっていた。
「そっち持って!」
「あ、うん」
勢いに押され、差し出された紐の一片を持たされているのだが。可笑しな状態だ。
「あ~セイラぁ? あのさ、その人傷つけたの、ボクなんだけど……そんな奴に治療の手伝いさせる?」
「君が怪我させたんだから、君が責任持つのは当たり前だろう!」
「う~ん」
とんでもなく、正論の気もするのだが、果たしてどうなのだろう。
「ボクさ、こいつ殺そうと思ってたんだけど」
「そう」
なんだかとても馬鹿らしくなってくる。
言われたとおり、引っ張ってやる必要なんかないのだ。
「離したら許さないから」
その言葉にヒイラギの表情が動いた。
にっと口角がつりあがる。
「許さないって、どうすんの?ボクと勝負する?」
「絶交する」
「ふへ?」
「それ離したら、絶交するから。もう一緒に遊ばないし、話もしないし、名前も呼ばない」
「……それは、ちょっと嫌かも」
セイラにヒイラギと呼んでもらうのは好きな気がする。
そばにいるのにちっとも呼んでもらえないとしたら、きっと嫌だ。
むむうと唸る。手を放そうか放すまいか。天秤がぐらぐら揺れる。
「でもサキの術使えば、意味無いんだけどね。街で会ったでしょ? 術士。セイラにヒイラギ大好きとも言わせることが出来るよ?」
「そうしたい?」
「う~ん。それも嫌かな?」
サキの術は人心を操れる。
けれど操られた人間はどこか生気がなく、ガラス玉のような瞳をしているように思う。
セイラはどうでもよいことにコロコロと表情を変えるのが面白いのだ。それが失われるのは良くない。
「ヒイラギ大好き」
「へ?」
「ヒイラギ大好きだよ。だから、離さないでよ」
「そんな取ってつけたように言われても」
セイラはヒイラギを見上げもせずに処置を続けている。
ヒイラギもほうと感心する手さばきのおかげで噴出していた血は次第に勢いをなくした。
セイラも安心したのだろう。一度トッドの頬を撫でると視線を上げヒイラギを瞳の中に捉える。
「トッドに死んでほしくないし、ヒイラギにトッドを殺した人になってほしくない」
予想だにしなかった強い視線にたじろいでしまった。
なんだがばつが悪くて下を向く。
「……何言ってんのさ。ボクはずーっとこうやって生きてきたんだよ。今トッドを殺した人にならなくても、きっと何処かでセイラの会ったことのある人殺してるよ?」
嘘だ。
「きっと」ではない。
自分はセイラの大切な人を手にかけたことがある。
そのことを知れば、絶交だなんて可愛らしいことは言えないに違いない。
自分の歩んできた道を嘆くつもりも悔いるつもり全くありはしないのだけれど、このことだけは知られたくないかもしれない。
トッドを殺した人の方が百倍ましだ。
「それでも、嫌だよ」
力を抜こうとしたまさにその時、被さるように告げられた言葉にもう一度布地を握りこんでしまった。
ああ、なんて馬鹿なんだろう。
またタイミングを失ってしまう。
「わがまま」
「わがままでいいの!」
「開き直るの? まったくいい性格してるよね。ルカそっくり!」
息を飲む。
それはどちらだっただろう。
「母様を知ってるの?」
ヒイラギの表情が歪んだのはほんの一瞬。まだそこまで教えてあげるつもりは無かったのだけれど、珍しく乱れた感情の性でいらぬことまで口走ってしまった。
光を帯びるセイラの瞳にとぼける気持ちは消えてしまう。
「ん~まあね」
「なんで知っているの? 会ったことがあるの? タハルに居たことがあるの?」
「ん~……」
矢継ぎ早の質問に答えないままでいるとじれったそうに身をよじる。
話してしまおうか。それともこのまま消えてしまおうか。きっとトッドを置いてまではヒイラギの後を追ってはこないだろう。
そろりと浮かしかけた足を地面へと縫い付けたのはセイラではなかった。
それは白い白い軌跡。
強烈な光の残像でもあり、無慈悲な影そのものでもあった。
急に膨れ上がった人の形をした気配にヒイラギの心臓は冷たい鉤爪で握りしめられたように縮む。
伸ばされた腕が向かう先を予想できたのに身体はぴくりとも動かない。
ようやく肺にたまった空気が出口を見つけたのは、ヒイラギの頬に温かなものが飛び散り、セイラの悲鳴が聞こえてからだった。
「君、何やってるの?」
白い魔物。
天上からの光を受けて真白に輝く髪。
白い頬を彩るのはセイラのおかげで生きながらえていた青年の赤。
それより尚鮮烈な赤がヒイラギを睥睨する。
目の前の青年は片手でセイラの髪を掴み、引き倒しているのを除けばあまりにも無防備に立っている。
彼の持っていたであろう剣はトッドの胸に深々と刺さったまま放置されたままだ。
それなのに敵わないと思い知らされる。声さえ出ない。
「いた……」
セイラにはまだ何が起こったのか分かっていない。ぎしぎしと痛む頭に涙が浮く瞳をようやく開けば、白い檻が見えた。
「ジ……」
名を呼ぼうとして凍りつく。
これは誰だ。
もしも髪をつかまれていなければ、すぐさま距離をとったことだろう。
流れる髪は天から注ぐ僅かな光を受けて白く輝いている。それ自体が淡く発光しているのかと見紛うほどだ。
セイラを見下ろす赤い瞳も火でも灯したかのように綺羅と光る。
けれど、美しいなどとは少しも思わない。
力任せに引かれて瞳を覗き込まれると魂の奥まで覗かれたようで総毛立つ。
「うっ、あぁ」
痛みで声が漏れる。
「これがセイラ? ふぅん? ルカに似てる? どうかなぁ」
「なんで……母様を」
「母様……母様ねぇ。まるで何も知らないの? ねぇ?」
更に力を込めて引き寄せられれば、全身が引きつるように痛む。
食いしばった歯の間からくぐもった悲鳴が漏れる。
引き離そうと伸ばした指先が触れたのは氷のように冷たい手だ。
触れてはいけないような気がして慌てて引っ込める。指先から凍ってしまいそうだ。
逃れようと両足に力を込めてみても、すべって上手くいかない。身体が沈んだ分だけ痛みはひどくなる。
何故、足元が滑る。さっきまで平気で歩いていたのに。
滲む瞳で見下ろせば、ゆるりと黒い海が広がっていく。
音もなくじわりじわりとその中にセイラの身体を取り込んで更に己の領域を増やしていく。
彫刻のように不動のヒイラギの方へも。
「……あ」
一声出すのが精一杯だった。ひゅっと喉元がおかしな音をたてる。
黒い液体の正体は嗅覚が教えてくれた。
靴を濡らすその温度を震える手が覚えている。
帰ろうと手を引いてくれた、大きな手の温度。
「トッド!」
苦しげな顔は無かった。
薄く開いた瞳に注ぐ光は、その表面を滑るだけだ。眩しいと細められることは無い。
「トッド? ああ、こいつのこと?」
嫌な音と共に剣が引き抜かれる。
黒い海が揺れる以外の変化は無かった。
「もう死んでるよ」
「離して!」
自分を捕らえている腕に爪を立てた。皮膚が削れる感触があったが、セイラを掴む力が弛むことはない。
「質問には答えなよ」
「知らない! 君なんて知らない。母様からは何も聞いていない!」
「母様、母様、母様! まったく嫌になるよ。まるで自分のものみたいに!」
思い切り頭を押し付けられても思いのほか痛くは無い。
その代わりに生暖かい液体が全身にべったりと張り付いた。
セイラが押さえ込まれているのはトッドの身体の上だ。確かに先ほどまで上下していた胸は動かず、失った血液のせいですでに身体の表面が冷たくなりつつあった。
あえぐ口の中にも鼻の中にも死の匂いが入り込んでくる。
セイラは口を引き結び、息を止めた。
認めたくなかったのだ。トッドが死んでしまった事実を全身で拒絶すれば再び息を吹き返すと信じたかった。
頑なに動こうとしないセイラの上から笑い声が降ってきた。
今の怒声が嘘のように凪いだ静かな声だ。
「認めなよ。もうただのごみだって」
「ごみじゃない!」
見開いた瞳から涙が弾ける。揺らぐ視界の向こうでヒイラギが顔を伏せる。
こんなことになるのならば、やはりセイラの言うことなんて聞いてやるのではなかった。
真っ赤に染まり使い物にならなくなった帯は全くの無駄ではないか。
ヒイラギはトッドを殺した人にはならなかったが、トッドを殺し損ねて、助け損ねたという立場になってしまう。
もしもヒイラギが手を下していれば、セイラが掴まるのはもう少し先だったのに。
「そんなことどうでもいいのだけねぇ。そうだ!セイラ。私は似ているかなぁ。君の大好きな『色なし』に。ジルフォードだったかな。あの歌を聴いたよ。初雪の色だって? ねぇ私にも歌ってよ」
舌がセイラの頬に張り付いた血を拭う。零れ落ちた涙を巻き込んで瞼の上も通り過ぎる。
「ほら、早く!」
理解が出来ない。
癇癪を起したように怒り始めたと思ったら、諭され、次には子どものように歌を強請る。
まるで幾人もを一度に相手をしているかのようだ。
もう一度「離して」と叫ぶと、今度はすんなりと開放された。
血だまりの上に躊躇無く腰を下ろすと拍手をする。
人一人を死に追いやったとは到底思えぬ無邪気な笑顔に心臓が早鐘のように鳴る。
警告音のように脈動がうるさい。
視界の端でヒイラギも同じような顔をしていた。
セイラと。
彼もこの青年を畏れている。仲間を見つけてもちっとも心強くはならない。むしろ不安ばかりが増していく。
「君は誰なの?」
「『色なし』だよ。ほら、ジルフォードと同じ色でしょ」
「似てない。 絶対に似てない。ジンと君は絶対に似ていない。」
ジルフォードを苦しめてきた『色なし』という言葉をなぜこの青年は誇らしげに語るのだろう。
王族の色を持たない『色なし』
瞳の色の定まらない『色なし』
それ以外にどんな意味があるのか。
青年の瞳の色は赤一色だ。生々しい不吉な色。
それがニィッと細まった。
「同じ白だ」
「違う!」
綺麗だなんて少しも思わない。
触れたくない。逃れたい。目を反らしてしまいたい。
目を反らすことが出来ないのは、ありったけの怒りを視線に込めているせいだ。
彼とジルフォードは似ても似つかない。
それでも指先が伸びてきた時、怒りが僅かに恐れに侵食される。
叫びだしたいのを堪えて、痛むほど唇を噛んだ。
「本当にルカは何も話していないんだね。自分のことも。ユザのことも。『色なし』のことも。そして、セイラ。君のこともね」
「私のこと?」
「ルカはねユザの人間だったんだよ」
「ゆざ?」
薄い唇が耳元でくふりと笑う。
三日月のように弧を描いた唇が触れる刹那、風を裂く音がした。