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第五章:さよならの代償12

それは見知った闇だった。

湿っぽく冷ややかな風の吹く暗い洞穴の闇だ。

ノースの道。

一度しか通ったことがない道だが、太陽に焦がされた世界から飛び込んだときの衝撃は忘れられない。

じっとりと圧し掛かる水気を含んだ空気がまるで亡者を背負っているかのように感じられたものだ。

唯一自由になる瞳だけを開けて状況を把握しようと試みたが僅かな効果も得ることは出来なかった。

深い闇はどこも同じで、ノースの道のどの位置にいるかなど到底わからない。

手足は鎖で繋がれたかのように重く、自由には動かない。まとわりつく甘い香りのせいだろう。

愚かな女だ。本当に憎いのならば意識のないうちに首を落とせばよかったのに。

土を踏みしめる音がした。

やっと決心して帰って来たのか。

耳を澄ませばそれは違うと分かった。足の運びに無駄がない。獣のようにしなやかに。

その足音の主をナジュールは知っていた。オレンジの光が暗闇を切り裂きながら近づいてくる。

松明に照らされた顔はやはり想像通りのものだった。


「……サクヤ」


搾り出した声は己のものとは思えないほど悄然としている。


「ご無事で何より」


ナジュールは笑った。

その笑みは彼には似合わない自嘲じみたものだった。

炎がちろりと暴いたナジュールの横顔は急に力を無くしたようだった。


「私も愚かになったものだな」


女一人に浚われて、自由を奪われ動くことも出来ないなんて。

女の素性を知った途端、死ぬ理由をちらりとでも考えた。


「ナジュール様。過ちは誰にでもあるものです。ただ、過ちは正さねば」


重たいものが落下する音ともにナジュールの頬に何かが飛び散り、先ほどからあたりに漂っていた死の匂いが急に濃くなり圧し掛かる。

力なく垂れた女の手にある抉れた傷跡の下には、狼の紋章があったはずだ。


「セイオンの生き残りがいたとは知らなかった」


一夜にして消え去った獣使いの一族。

村の全員が寝床で眠るように死んでいた。今尚、直接の死因は判明していないがセイオンにだけ伝わる毒薬のせいだろうと言われている。

原因を作ったのはナジュールだ。

秘儀を他国へと持ち出そうとした放蕩息子の処分を長に任せた翌朝のことだった。

今思えばその情報とて正しいものだったのかは分からない。

真黒に日焼けし、節くれだった指をしたあの青年は本当に放蕩息子だったのか。

息も絶え絶えに砂漠から戻ってきたサルー。

女の面差しは彼に似ていたかもしれない。


「サルーの妹かもしれないな」


物言わぬ死体になってしまっては確かめようがない。


「サルーはリュオウに会ったと言っていたな」


砂漠をさ迷い歩き、意識も途切れ途切れながらサルーはリュオウにあったと語った。

彼女のために廟を作るとも言っていた。

いつのまにか話は変容し、廟を作れと命じたのはナジュールだという噂が広まっているがナジュール自身はそんな無益なことを言うはずがない。


「熱に浮かされた戯言ではありませんか」


「砂漠の女神の髪の色は亜麻色だったと言っていたぞ」


 サクヤの頬から色が抜けた気がした。


「リュオウは妹を救ってくれるはずだと」


「悪夢でも見たのでしょう」


「私は一族の命を差し出せとは言っていない」


「彼らは愚かな判断を自ら下してしまったのです」


サクヤは主を助け起そうと身をかがめた。

その耳元で掠れた笑い声がうねる。


「分かっていたはずなんだ。黒幕はあんただって」


サクヤの瞳が一瞬、細まった。

闇に染まった手の内のナイフに力が入る。


「だけど、夢を見た。サクヤと一緒ならタハルを豊かな国に出来るかもしれないとね」


実際は一つとてまともに行かなかったけれど。

違和感を感じるようになったのいつのことだろう。

ぴたりと沿っていたはずなのに、いつの間にか離れていく。

思い通りにことが運んだと思っても僅かな皹が生じている。

その元を辿ればいつも中心にはサクヤがいる。セイオンのことにしてもそうだ。

やはり愚かになったのだろう。

認めたくなくて目を瞑ろうとしたのだ。そんなことはないと言い聞かせようとしていたのだ。

疑惑が確信に変わったのは、父と最期に顔を合わせたときだ。

ウォーダンはタハルの王としてササン大陸の埋もれた記憶の一片を語ってくれた。

そこから導き出された答えに愕然としながら、怒りも沸いて出た。

弟までも巻き込むなんて。

だがそれは杞憂だ。もうルルダーシェは幼い子どもではない。


「ルルドを王につけるか」


「……はい」


ナジュールは目を閉じた。

瞼の向こうには荒涼と広がる砂の世界がある。

一面砂の色。

輝かしいものなど何一つないわが故郷。

身を焦がす熱は此処にはないけれど、いつでも肌がじりりと焦げる感触を思い出すことが出来る。


「ルルドが王になればタハルは強く優しい国になるだろう」


サクヤの眉間の深い皺は更にきつく刻まれた。

ルルダーシェは傀儡の王。弱く泣き虫のルルダーシェに一体何が出来るというのか。


「あれはたった一人であの砂漠を緑に変える気でいるぞ。誰よりも鮮やかに美しく豊かなタハルの未来図を描いている」


「どれも子どもの戯言です」


「ではお前の目指すものは何だ? 死人の妄言ではないか。本当にユザとやらが復興すると思っているのか? 寝物語ですら語られない忘れ去られた国だ」


「忘れてなどいませんよ。まだこの国は『色なし』を恐れている。己が犯した罪が目の前に現れることが怖いのですよ」 


「恐れているのはお前たちではないのか? あの女は香の配合を話はしなかっただろう。セイオンの連中はお前たちに情報を取られるのを嫌い自ら口を閉じた。サルーでさえ口を噤んだ。思い通りにはいかない。侮っていれば痛い目を見るぞ」


二人の間には奇妙な空白が生じた。

その一瞬の隙を突いて全身の力を集約してサクヤの喉元に噛み付くとぶちりと肉が裂ける音がした。

どっと口の中に溢れる血の味に吐き気を覚えながらも更に噛み付く。


「ぐぅっ!」


互いに獣のような唸り声を発しつつのたうち回る。

上に下にと視界が回る。

そのうちナジュールの右腿に激痛が走った。

無理やり引き離して痛む箇所を見下ろせば、ナイフが突き刺さっている。

止血を施したが痛みは増すばかり。この足を引きずりながら不慣れな洞窟を行く自信は少しばかりぐらついた。

喉元を押さえ蹲ったサクヤは、肺に侵入した血液を追い出そうと苦しげにせきこんでいる。


「さよならだ。サクヤ」


どうと仰向けに倒れたサクヤの心臓の上に切っ先が当てられた。

裏切り者を野放しには出来ない。ルルダーシェも彼を慕っている。きっとナジュールと同じように煩悶するに違いない。

少しでも憂いを断ち切らなければいけない。

沈む刹那血に染まるサクヤの口元が薄く笑ったような気がした。

風が吹く。

死の匂いを追いやるように。

岩の隙間に入り込んだ風が、ひょおぉぉぉうと物悲しげな音を立てる。

身体を縛る香りは薄れたというのに身体の動きは更に鈍くなる。使い慣れたはずのナイフが重い。

もう一度、地に伏してしまえば二度と立ち上がることが出来なくなるような気がした。

縋るように視線をやった先にちらりと光が見えた。




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