第五章:さよならの代償11
耳元に水滴が落ちる音で目が覚めた。
けれど、目を見開いてもあるのは暗闇ばかり。目隠しなどされては居ない。
セイラは本当の闇に一人、取り残されていた。
ひゃりとした空気が頬を打つ。
手には湿った石の感触。
時折、水滴の落ちる音がする以外は何も聞こえてはこない。
「どこ?」
セイラの声は細くうねり、暗闇の先まで流れていった。
どこか細く奥行きのある場所だとしか感じ取ることが出来ない。
まるでジニスの坑道のような場所だ。右も左も分からない。
何処へ続いているかも定かではない。
セイラは深く息を吸った。そして、細く吐く。ドキドキと跳ねる心臓をなだめるために。
「暗い。湿った匂い」
自分にいい聞かせるように現在持っている情報を口にする。
次は何か持っていなかったかと体中を探った。ポケットから飴玉が2つ出てきたきりだった。
何か灯りに出来るものがあればよかったのに。
最後の記憶を呼び覚まそうと目を閉じれば、からからと笑うタハルの青年の顔が思い出された。
「ヒイラギ」
呼ぶも応えはない。
他に生きたものの気配はない。立ち上がって壁に手を這わすと、セイラは瞼を閉じた。
目を開いてもどうせ見えない。それならばいっそ聴覚に頼った方がいい。
右の方からヒューと細い風の音がする。セイラは迷うことなくそちらに足を向けた。
なんどか躓きかけながら、そろそろと進む。
手を這わせた壁は相変わらずごつごつとしている。時折、水滴が落ちてきて小さな悲鳴を上げさせた。
ジニスの歌をちょうど三回歌い終えた時、開けた場所に出た。
最後の一音がほうと遠くまで響いたのだ。
目を開けると巨大な空間があった。薄ぼんやりとした青い光が天上から注いでいる。足元は闇のままだ。
「なにあれ?」
「ほ」
小さな吐息は笑いを含んでいた。
背を振るわせたセイラは辺りを見渡したが人影は見当たらない。
「珍しい。こりゃぁ、珍しい。こんなところに娘っこがおるわ」
重くひび割れた声。
それなのに面白いとガラガラと空間を無遠慮に揺らす。
懸命に目を凝らせば一際濃い闇の中にそれはいた。
蹲ったそれには確かに手足があった。
岩のように見えていたのはローブを頭から被っていたためだ。ぬらりと光る眼球がセイラを食い入るように見つめている。
「……あなたはだれ?」
「ジュドー」
「じゅどー?」
それが名前なのかその存在自体なのか響きから知ることが出来なかった。
「私はセイラだよ。ジュドー」
「この中で名前などあまり重要ではないのだよ。お嬢さん」
そう言いながらもジュドーと呼べばジュドーの瞳は細まった。
「ここがどこだか教えてくれる?」
「ほ。ほ。亡者の道だよ。お嬢さん。外れれば、死者の国」
脳裏に浮んだのは目の前の闇と同じ色をした一冊の本。
グランが大切そうに抱えていたあの本だ。
一度迷えば死者の国。そう言われたのは、確か……。
「ノースの道?」
「そうそ。アリオスとタハルを繋ぐ希望の道。一歩踏み外せばカトゥーディ」
「カトゥ?」
「迷路のことさ。お嬢さん。亡者が手招く死国へのね」
笑い声が地を揺する。
地自体が嗤っているかのようだ。
「それは困る!」
「ほう」
「迷路で遊んでる暇なんてないんだ。早く帰らないと」
「正しい道を全て知っていてもノースの道を越えるには三日三晩かかるのだよ。お嬢さん」
「それも困る!」
三日も留守にすればちょっとした騒ぎでは済むはずがない。
ほんの少し街に下りるだけだったのだ。夕刻までには帰るとハナだって思っている。
「どうにかならないかなぁ? ねぇジュドー!」
「ほっほっ。お嬢さん、方法があるとして私の言葉を信じるのかい?」
「うん」
「何故? 今あったばかりの得体の知れないものだよ?」
試すような声に少しむっとして口を尖らせる。
「ジュドーは私に嘘を教えるの?」
「さぁて」
「じゃぁ、秘密を一つ教えてあげるからジュドーは真実を教えて」
必死な顔にふふと忍び笑いが漏れた。
「いいだろう。お嬢さんがノースの道の真実より重たい秘密をくれるのならね」
「いいよ。さぁ、メモの用意はいいですか? かりん1、オージィ2、蜂蜜1を交ぜると。とっても美味しい!!」
「はっ?」
「メイオンの花びらを加えてもなおよし! カナンのスペシャルレシピだよ。お茶にまぜてもパンに塗っても絶品なんだから」
「……かなん」
ジュドーは喉の奥でぐふりと笑った。
しばらくの沈黙の後、ジュドーが頷く気配がした。
「いいだろう。貴重な秘密をありがとう。お嬢さん。風を頼りに行きなさい。風はタハル側からアリオス側に向けてしか吹かないのだよ。一番あつい風を辿るんだ。最も早く抜けられるからね。それでも直ぐに出られるとは思わないことだ」
「分かった。ありがとう!」
駆け出して立ち止まる。
振り向けば不思議そうに瞳が此方を見る。
「ジュドーも行かない?」
「遠慮しておくよ。お嬢さん。出て行きたくなったら私には足があるのだから大丈夫。闇に飽きたら出て行くさ」
「そう。またね。ジュドー」
「また?」
このお嬢さんはまたここへ戻ってくるつもりなのか。
「闇に飽きたら会いに来て。今ねアリオスのお城にいるの。上手くいけば2日後の夜には春乙女の舞を踊ってるんだ」
「ほう。エイナの舞か。2日後は大月だ。それはそれは美しかろう。頑張りたまえ。お嬢さん」
「うん。じゃぁね」
風を感じてセイラは走り出す。
暗く開けた空間に残されたジュドーがぽつりと零した。
「もうそんな時期か」
外はシルトの花盛りか。
最後に見たエイナの舞はジュドーの娘が舞った時だった。
あの誰よりも強かった王が病に侵される前だった。
「はてさて、ハマナやエンは健在かのう?」
一人だけ元気そうだ。
カナン・スフィア。
「そうか、あの香りはオージィか」
久しぶりに空腹を感じて、ジュドーの薄い腹がぐぅと鳴いた。
「厄介な場所に入り込んだものだ」
暮れゆく空を背景にジョゼ・アイベリーは忌々しげに頭を掻き毟った。
ぽかりと不吉な闇を広げているのはノースの道への入り口だ。
時折、ひょぉおぉと不気味な音が迫ってくる。
この中は小さな道が入り組んでおり、誰も全容を把握していない。どれほど人数を裂いてみても全ての道を探せるとは思えなかった。
「仕方ない。目印を付けながら進むしかないな」
将軍の言葉を否定するものはいなかった。