第五章:さよならの代償8
「あれ? セイラさん一人で来たの?」
店主であるイリヤは目を丸くした。
息を切らしているのは昨日クロエが連れてきた少女だ。
昨日は別にハナと言う少女もいたが、今日は見当たらず思わずあたりを見渡した。
「ううん。クロエも一緒なんだけど」
人ごみに紛れて見失ってしまったのだ。
もう少し早くに城を出てくるつもりだったのだが、心配性のハナが中々許可を出してはくれなかった。
原因不明の激しい動悸は今朝には綺麗さっぱりと治っているというのに。
少し遅れれば、通りにはいつの間にか観光客が溢れているという始末。
何とか店までたどり着ければ合流できると思っていたのだが、当のクロエはまだついていなかったようだ。
「まぁ、そうのうち来るでしょ。 出来上がり見てる?」
「うん」
ぱぁと表情を明るくしたセイラを店のほうへ案内する。
「じゃぁ、中にドウゾ」
「うん」
染物のカーテンを潜り抜け行き着いた先には少年が立っていた。
セイラの姿を認めると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「やぁ、セイラ」
「ヒイラギ!」
警戒心もなく近づいてくるセイラに苦笑が漏れる。
アリオスの連中はもう少しセイラに慎重になれと教えるべきだった。少なくとも微妙な関係にある隣国の人間とは。
「ヒイラギは買い物?」
「ちょっと頼まれごとをしちゃってね」
「へぇ」
背後で店主の体が強張った気配が伝わってきた。
どうしたのかと振り返りかけたセイラの耳に届いたのは舌足らずで甘いくせに息吹のように冷たい響きを持っていた。
「ヒューロムのお嬢さんからセイラを攫ってちょうだいってね」
目の前いっぱいに広がったヒイラギの笑顔。
細まった瞳に浮ぶのは紛れもない悦で、開きかけたセイラの口を塞いだのは死人のように冷たい手だった。
同時に走った首筋への痛みでセイラは完全に意識を飛ばした。
長く尾を引いた悲鳴は外の喧騒に紛れて意味を成さない。
「うるさいよ。君」
先ほどまでとはうって変わって熱を失った瞳が青年を射抜く。
冷や汗に溺れそうになりながらも青年は何とか声を絞り出した。
「ら、乱暴なことはしないって言ったじゃないか!」
情けないほど震えた声。
同じように膝が震える。
「乱暴? ちょっと眠って貰っただけじゃない。五体満足。なにしろ生きてるよ。人聞きの悪いこと言わないでくれるかなぁ」
がちがちと歯がかち合う音がする。
青年の見開いた瞳に涙が盛り上がるのを何か面白い見世物であるかのようにヒイラギはとくと見つめた。
「協力ありがとう。君の妹に乱暴なことはしないであげるよ」
ヒイラギは手近にあった布を引っつかむと器用にセイラの身体を包んで抱えあげる。
「かえせよ! きょっ協力したら無事に帰すって言ったじゃないか!」
「うん。帰してあげるよ。君と僕との間で無事の概念が同じだといいんだけどね」
呆然とする青年にひらりと手を振ってヒイラギは雑踏に消えていく。
そのすぐ後に息を切らしたクロエが店の中へと飛び込んだ。