第一章:見放された地より4
もしため息を具現化することができたとしたら、黒くてモヤモヤしたものがカナンの部屋の床一面に積もっているに違いない。
重いそれは、箒で掃いたところで部屋から軽快に出て行くことはないだろう。
そんな鬱々としたものの生産者である、セイラは机に額をつけぐてりと伸びている。
光りの弾けていた亜麻色の髪も艶を失ったかのように沈んでいる。
「大丈夫ですか?」
「…うん」
カナンの心配げな声が振りそそぐと、優しさが沁みて涙が出てきそうだ。
グラン、テラーナ、マキナにみっちりしごかれ始めて、早数週間。体の節々も痛いが、頭も痛い。なんとか基本の舞だけは合格をもらえたのがせめてもの救いだろうか。
「もうすぐ来るんだよね?」
「……ええ、二、三日中には到着されるとか」
「ふぅ」
嬉しいのだ。
間違いなくタハルの使者がやってくることは嬉しいのだ。どんな人物が来るのか楽しみでもあるし、向こうの生活はどうなのか等聞きたいことは山ほどあるのだが、言葉を発そうとするたびにグランの顔がちらつくのだ。
ついでに減点という幻聴も聞こえてくる。
けれど、使者を目の前にしたらいつも通りの口の聞き方をして、怒られるんだろうなと未来予想図でき上がっていた。
目を瞑っていると、頭の上を優しい感触が行き来する。
この感触がセイラは好きだ。
気遣うような優しい手つきは、どこか壊れ物を触るようにおっかなびっくりでくすぐったい。
「大丈夫だよ。ジン。怒られるの慣れてるし」
そんなことに慣れないで下さいとハナの視線を感じるが口は出してこなかった。
この四人で顔を合わせるのも久しぶりの事だった。
目を開けると、髪越しにオレンジ色が目に入る。
見る角度のよって色を変えるジルフォードの瞳が、今たたえているのは、消える前、一層輝く火の粉のような色。新しい瞳の色に鬱々したものなど吹き飛んでしまう。
「こんな角度で見上げる事なんてなかったもんね〜」
ジルフォードが体を引けば、すぐさま消えてしまう。ちょっともったいないようで、それがごく自然のようで。
「ありがとう。もう大丈夫」
頭を上げて、ちゃんと座りなおす。何とかなるものだ。げんきんなもので、嬉しい事があるとそう思えてしまう。
「ジンは大丈夫?」
環境が変化したのはジルフォードも同じ事だ。
今まで、政治の世界など関係ない場所にいたのに、否応がなくかりだされることになり、ジルフォードのことを邪険にしていた相手が手のひらを返したように近づいてくる。
最初はジルフォードが他人と関わりを持つ事はよいことだと思っていたけれど、ジルフォードの居場所を聞きに群がってこられると辟易するのだ。
彼らの顔に見えたのは、どうにか利用してやろうという思惑ばかりだったからだ。
「大丈夫」
「よかった」
最近のジルフォードは表情が豊かになってきたと思う。
薄い唇が僅かばかりの孤を描くことが多くなった。
初めて見る人物にとっては、とても笑顔を呼べるものではなかったが、カナンにとっては嬉しい変化だった。
一人の侍女がカナンの部屋の扉を見つめていた。
ジルフォードが入ってから一刻ほどの時が経っている。
中ではきっと馬鹿らしいほど和やかな空気が流れているのだろうと彼女は思った。
式の時の二人を見て、まるでおままごとみたいな夫婦だと苦笑が漏れた。
きっと夫婦と言う感覚も持ち合わせていないのではないだろうか。
「そんなこと関係ないわね」
ジルフォードの人気だって関係ない。
関係あるのは彼が王族である事だけ。
今まで、居ないように扱われながらも、その存在はひどく目立つものだった。
其処に近づけば、必ず怪しまれる。
けれど、今や目立つ存在でありながら、近づくのは前よりずっと容易になった。
一刻も早く、そんな焦りを笑顔でごまかして、彼女は自分の仕事に戻っていった。