第五章:さよならの代償
窓から差し込む青い光に照らされた部屋には安らかな寝息と暖炉でぱちりと爆ぜる薪の音しかしなかった。
炎の上にすえられた鍋からは微かに湯気が立ち上っていた。
朝の匂いがした。
いつからだろうか。
何もかもを洗い流したように澄ましきったこの空気が嫌ではなくなったのは。
朝は嫌いだった。
空を割って太陽が世界を白々と浮かび上がらせると、他の人とは外れた容姿を覆い隠し、闇と一体化していた安堵感は消え急速に心細さに苛まれる。
厚いカーテンをひいた部屋に閉じこもっても同じこと。
太陽は容赦なく全てを浮き彫りにするのだ。
部屋中を物で満たし、自分だけの隠れ家を作り出し、嘘の闇で身を包んでつかの間の安心を手に入れる。太
陽が最後の足掻きとばかりに空を焦がすとやっと息をつくことができた。
暖かくなるといけない。
闇の領分が少なくなる。
夜明けは早まり、日暮れは遅い。
今、感じるのは暖かな朝の気配。
厭うていたはずのものなのに、逃げ出したい気持ちは起きなかった。
それどころか、夜の終わる瞬間の静けさが心地よくさえ感じられた。
暖かさの理由の半分はジルフォードの肩にもたれかかる様にして眠っているセイラだろう。
いつのまに眠りに落ちたのか昨夜の記憶は曖昧だったけれど、二人は大きな毛布を分け合うようにして眠っていた。
向かいにはハナとケイトの姿があった。
居ないのは部屋の主であるカナンだけだ。
朝の早いカナンはきっと庭の菜園に出かけたのだろう。
身じろぎしたのが悪かったのか、肩で支えていたセイラの体がずり下がってきた。
頭の位置をジルフォードの膝の上に決めるとまた規則正しく吐息を零す。
きゅっと丸めていた体を毛布でつつみなおしてやると体のこわばりが解け、表情が弛む。
額にかかる前髪を避けてやるとその行為が心地よいのか擦り寄るようにして近づいた。
頬を撫でれば、にひゃりと笑う。
起きているのかと思えばそうではない。対応に困る。
離れてしまえばむずがる前の幼子のように眉が寄り、不満だと小さな声をあげる。
彷徨った指先はそれを言い訳にして再び頬を撫でる。
無性に名前を呼んで欲しい。もう少しこのままで。
セイラに関しては矛盾する想いをいつも持て余す。
なんて臆病なんだろう。
無表情なセイラを思い出すと心臓が音をたてて縮まった。
机を枕にして眠っているハナの目元は、この薄明かりの中で見えないだけでうっすらと赤い。
セイラのことが心配で、セイラの受けた仕打ちが悔しくって泣いて怒って、そして安堵した証だ。
すりなした頬も痛々しいほど赤かった。
カナン特製の薬草を混ぜ込んだ液で冷やしたため腫れは引いているだろう。
セイラの下唇にはぐっと噛んだであろう痕があった。
それをつけさせたのは自分だ。
回避できたはずだった。
少なくとも二度目を招かないためにどうすべきかは分かっている。
その覚悟はもう出来た。
ひやりとした空気が頬の上を流れた。
ドアが開いて、かごいっぱいに野菜を詰め込んだカナンが顔をのぞかせる。
朝露を纏ってつやつやと輝く野菜たちはカナンの菜園で育ったものだ。
カナンが動くとシルトの仄かな香りがした。
「ああ、ジン様。おはようございます。よく眠れましたか」
「おはよう。うん。大丈夫」
カナンはくすりと笑う。
ジルフォードが人前で無防備な寝顔を晒すことはまず無い。
慣れているカナンの前では浅い眠りに落ちることはあるけれど、いつも神経をとがらせていて小さな物音で起きてしまう。
今朝のように部屋の出入りをしても気づかぬことは初めてだった。
この良き日にジルフォードに訪れた安らぎに涙腺が弛む。
それを与えた少女に感謝を。
「ユーズ・タラーク・リュウシェン。ジン様」
それは喜びを分け合う言葉。
命の芽吹きに言祝ぎを。
『アナタの幸せを願う』
アリオスに生まれた全てのものへ贈られる言葉。
「…………ユーズ・タラーク・リュウシェン。カナン」