第四章:赤い月夜と蝙蝠11
「いつまでそうしているんだ。返せよ」
セイラが居なくなったことにより少々気詰まりになった空気を押しやるように、ルルドはヒイラギから耳飾を取り上げる。
乱暴気味だったせいで種が一粒だけヒイラギの手のひらに残された。
それはヒイラギの内で湧き上がった疑念と同じくとても小さなものだったけれど、確かな存在を示していた。
これが芽吹けば一体どのようになるのだろう。
ヒイラギには想像もつかなかった。
「ルルド様……ううん。ルルダーシェ様はどんな王になりたいですか?」
「いきなり何を言い出すんだ?」
酔いでもしたのだろうか。
けれど、ヒイラギの頬には赤みがさす事もなく至って真面目な表情だ。
年中ふざけているヒイラギのその様が逆に可笑しくて、やっぱり酔っているのかと疑ってみたが逸らされることの無い視線に折れ、考えてみた。
だが、幾らもしないうちに答えは出た。
「僕は……王になんてなりたくない。王になった兄上の補佐をしたいんだ」
どんな王になりたいかどころか王になろうとさえ思ったことが無いのではないだろうか。
ルルドの中にある漠然とした王のイメージは父親であり、母や彼女を支える貴族たちの理想に他ならない。
一番心惹かれるのはナジュールの姿だ。
きっとナジュールが王になれば歴代のどの王よりも強い王になる。
容易に想像できるその姿は、ルルドにとって最も理想のタハル王だが、己にはなれない事を重々知っている。
「ナジュール様の補佐ですか」
ヒイラギの声には珍しく笑いを一切含まない非難めいた響きがあった。
それが気にくわなくて、ルルドは眉をしかめたまま詰め寄った。
「何が不満だ。僕には無理だと言いたいのか?」
この被害妄想めいた考えはどこから来るのだろう。
ルルドことルルダーシェは自分のことになると過小評価もいいところだ。
ルルダーシェは殊更小さく生まれた。
医療の十分ではないタハルでは生き残ることが出来ないと危ぶまれるほど弱弱しく、母親の嘆きは酷かった。
方々に手を伸ばし何とか命を繋いだ息子に母親は惜しみない愛を注ぐよりも鞭を打つことでルルダーシェの行く末を照らし出した。
お前はナジュールに劣るから倍の時間を勉強に費やしなさい。剣術の稽古もより多くと。
それを実行してもナジュールには敵わない。
誰も教えなかった。
十歳も年の離れたルルダーシェの筋力ではナジュールとは対等に戦えないと。
ルルダーシェの頭脳がよくても10年先を行っているナジュールに追いつくのは容易ではないと。
伝えなかったのは自分も同じかとふぅと息が漏れた。
「ねぇ、ルルダーシェ様? 僕もサキもルルダーシェ様が2番目でいいやなんて思って仕えていませんよ。ううん。補佐なんて2番目ですらない。僕たちはルルダーシェ様を王にしたいんだ」
「何を言っているんだ! 兄上以外にふさわしい者なんていない」
「なぜです?」
「なぜって」
そんな当然のことを今更説明しなければならないのか。
驚愕に開かれた瞳はそう語っていた。
「ナジュール様はそりゃ、剣術も馬の扱いにも長けていますよ。サクヤ殿が先生ですからね、頭も悪いわけが無い。だけど、傲慢さは力ではない」
「お前、兄上を侮辱する気か!」
ルルドが机を叩きつけ立ち上がるとと鋭い音が店内に木霊し、何事かと人々の視線が二人へと集中する。
笑顔でなんでもないと周りに伝えながら、ヒイラギは机の下からルルドの脛を蹴り上げた。
痛みに小さく声を上げたルルドはヒイラギの目立たないでくださいよとのメッセージを受け取りしぶしぶ腰を下ろした。
腹の中で煮えたぎる怒りは出口を探して喉元辺りを行ったり来たりしている。
「別にね、お二人を仲たがいさせたくて言っているわけじゃありませんからね。そこのところ分かっておいてもらわないと」
今更そんなこと言われるまでもない。
ナジュールを慕いきっているのを一番知っているのはヒイラギだと自覚している。
「そりゃ、仕えている訳だからちょっと甘めの採点だけど、タハルのためを思えば次の王はルルダーシェ様が良いと思うんですよ。」
「……何をもってそんな馬鹿なことを」
「ナジュール様はタハルを守ろうとしてる。だけど、タハルのことはちっとも信用していない。あっ、口出すのは全部説明が終わってからにしてくださいよ」
手振りでルルドを制したヒイラギは残っていた蜂蜜酒を一口で飲みきった。
「ナジュール様のやり方は歴代の王のほとんどと同じ。力でもって必要なものは他から取ってくる方法。食料にしても人材にしてもね。いい方法だ。取って来る労力だけですむもの。だけど一過性のものだよね。この先、何十年何百年タハルの血肉になるものじゃない」
一粒取り残されていた種を机の上に置いた。
「王様は信じてなきゃ。この国は死んでないって」
街でのことがぼんやりと思い出された。
死んでいるのと同じだとナジュールは言ったのだ。
「まぁ、なりたい。なりたくない。で決まるものではありませんけど。それにしても、この中に入れておいたはずの香は何処へやったんですか」
本来、香がはいっているはずの耳飾には種が入っている。
「ああ、邪魔だったから捨てた」
「……ん~なんだか空耳が聞こえたけど、気のせいだよね? ねぇ、ルルダーシェ様。中身はどこへやったんですか?」
「だから、捨てたと言っている」
「使ったの間違えではなく? 今なら訂正する時間をあげますよ?」
「捨てたといったら捨てたんだ! 何が問題なんだ。必要なら直ぐに配合できる」
「ばっか! あの香がどれだけ高価か!…………今、配合出来ると言いましたか?」
「何なんだ? いつの間にそんなに耳が遠くなったんだ。お前は」
「その中に入っていたのは獣除けの香ではないんですよ?……ルルダーシェ様に配合が出来る?」
ルルドの苛立ちは頂点に達した。
香の配合も出来ないと嘲っているくせに何が王にだ。
「狂いの香だろう! 僕にだってそのくらい出来るさ」
獣を追い払うのではなく、逆に引き寄せて意のままに操るための香だ。
獣ごとに微調整が必要だが、獣払いの香と難しさはあまり変わらない。
それなのに出来るはずがないといった響きの声がルルドを突き刺した。
悔しくてキッと睨みつけた先でヒイラギは珍妙なものを見るような顔をしていた。
いつもの三割り増しでしまりの無い顔だ。
もしルーガがいきなり人語を操ったら人はこんな表情になるのかもしれない。
「僕にはできませんよ。ルルダーシェ様。サキにだって……ナジュール様、ううん。歴代のどの王にも出来なかったはずです」
「はっ?」
今度、間抜け面を晒すのはルルドの方だった。
ぎゅっと吊り上っていた眉がすとんと落ちる。
その様子を見て少しばかり余裕の出たヒイラギは考えを巡らせた。
この世間知らずの王子様にどこから説明したらいいのだろう。
そして、自分は何を聞き出せばいいのだろう。
「いいですか。タハルで狂いの香の配合が出来るのはドルジュとセイオンの一族だけです。まぁ、セイオンはちょっと前に滅びてしまったから関係ないですけど。門外不出の配合率の香は目ん玉飛び出そうなほど高価ですよ。だけど、他の誰も配合が出来ないから王族だってドルジュから買わなきゃいけない。ここまではお分かりですか?」
あまり分かっていないような顔だ。
ルルドの表情を見るかぎり、砂漠の水に等しいほど価値のある香の作り方は、厳重に守られている割には簡単に作れるものなのかもしれない。
「強欲なドルジュが教えてくれるわけありませんからね。……誰に教わったんです?」
「リュウの頤に行く手前で会ったサルーという男だが」
その名を聞いて、今日はよくよく驚きを誘う名前が出てくるなと思った。
「知り合いか?」
「知り合いってほどではありませんが。生きていたことにびっくりです。もうとっくに死んだものだと思っていました。まだ廟を作っていましたか」
「うん」
その男はたった一人で砂漠の真ん中で日干し煉瓦を作り、一つ一つ積み上げては「もう少しだ」と呟いていた。
日干し煉瓦で作られていたのは人が十人ほど入れる大きな建物だった。
丸屋根の質素な祈りの場。
リュオウの慈悲を請う場所。
それが建てられている場所は人の行きかう場所とは離れている。
ルルドもたまたま通っただけで普段なら足を向けるところではない。
そんなところに何故作っているのかと問えば約束なのだと、真黒な顔でサルーは笑った。
「彼はね禁を犯したんですよ。香の配合率をタハル以外に持ち出そうとした。だからあれは罰なんです」
「罰?」
「砂嵐がもっとも酷い場所に一人で廟を立てリュオウの怒りを鎮めろと。そうすればお前の罪を赦し一族がその責めを負うことはないってね。永遠に終わらない罰です。作っても作っても砂嵐が飛ばしてしまう。近くにオアシスもないでしょう? とっくの前に死んじゃったとばかり」
「約束だと言っていたのはそのことか」
「死んでいたほうが楽だったのに」
ヒイラギは薄く笑った。
「どういうことだ? サルーは罪を償うために一生懸命なのだぞ」
「彼が作っているのは一族のお墓ですよ。完成したあかつきには一族百数十人の頭蓋骨で埋め尽くされる運命です」
「サルーの一族は免責されるはずだろう?」
「先ほど言ったでしょう? セイオンは滅びてしまったと。サルーがもし万が一廟を完成させたとして赦されるのは配合率を外に出そうとしたことだけ。セイオンはサルーという男を生み出した咎で皆殺しにされました」
「そんな、馬鹿な! 誰がそんなことを!」
「誰って……」
ヒイラギはルルドの一番嫌いな顔で笑った。
「ルルダーシェ様の大好きな兄上ですよ。……もしかしたらサルーは知っていたのかもしれませんね。だから、ルルダーシェ様に香の作り方を教えたのかも」
サルーが笑っている。
太陽に焦がされ真黒になった顔で。
もう、十七つめの廟だと言った。
水を分けてやるとありがたいと拝み、全てリュオウに捧げた。
お礼にと彼は獣を操る香の作り方を教えてくれた。
もう自分には必要ないからと。