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第四章:赤い月夜と蝙蝠10

店から出ると冷たい空気が纏わりつきセイラは小さく身震いをした。

春と言ってもまだ十分に寒い。日が翳ると寒さもぐっと増してくる。

白く煙る息をおって視線を空に向けると、満月には足らない月がぷかりと浮かんでいた。

それはひどく赤い。


「お前さんにはどう見える?」


口をきいたのは店と店の間の狭く、じめりとした通路にはまり込むようにして座り込んでいる老婆だ。シルトで飾ったベールの下からはうねった髪がぞろりと流れ地面にまで這っている。

しわくちゃの唇を彩る紅は月の色より鮮やかで目を引いた。

目深に被ったベールのせいで彼女の表情をうかがい知ることができない。

ただあまりにも鮮やか過ぎる唇が別の生き物のようにもごもごと動くさまが可笑しくて、そればかり見つめていた。

目が離せない。

それなのに、見えないはずの頭上の月の姿が脳裏には浮いている。

地上の熱気に焦がされた赤い月が、沈んでいく空の色に取り残されていく。


「……哀しそう」


孤独に耐えかねて泣きはらした目のようにもみえる。

その答えを聞いて、老婆は口角を上げた。

しわくちゃで節くれだった細い指先が天を指す。

唇と同じ色に染められた爪先は見事に磨がれておりナイフのような鋭さを持っていた。


「アレは人の想いを吸うのよ。哀しいと想うなら、お前さんの大事な人がそう想っているのかもしれないねぇ」


「ジン」


咄嗟に思いついたのは、置き去りにしてきたジルフォードのことだった。


「ジン? お前さんの想い人のことかね」


ベールの向こう側に爛々と輝く瞳が見えた。

鳥肌がさっと立ったのは、風の冷たさばかりではないだろう。

地面から何本もの手が伸びてきて足を掴まれているかのように身動きができない。

蜂蜜酒とヒイラギの言葉のおかげで温かくなった身体は、真冬の湖に落ちたかのように急激に冷めていく。

呼吸すら苦しくなってきた。

それを救ってくれたのは右腕を覆った熱だ。

唯の人肌の温度が熱いとさえ感じるほどセイラの身体は冷えていた。

雑踏に紛れ、人を押しのけながら一心不乱にセイラの手を引いている女性は、白いコートの下にここ数ヶ月で見慣れた青い侍女服を着込んでいた。


「クックロエ? なんでここに?」


「黙って歩いてください」


押し殺した声で告げるとクロエは歩く速度を上げた。

走っているといってもいい速度で路地を抜けると一軒の家の前で立ち止まり、突き飛ばすような勢いでセイラを中に押しやり背後にすばやく視線を送ると、自らも身体を滑り込ませた。

先の体験から開放され気が抜けたのか床に座り込んでいるセイラのことなど放置して、鍵をかけ尚且つドアノブをありったけの力で引っ張ったまま、扉の外を透視でもしているのかと想うほどじっと扉を見つめていた。


「ここどこ?」


「私の家です」


そっけないクロエの返答に重なるように足音がした。


「まぁまぁ、クロエ。大きな音を立ててどうしたの」


部屋に入ってきたのはカーサだ。

床にへたり込んでいるセイラを見つけるといつも笑っているようにみえる垂れた目元がはっと見開かれた。

人の波の中を無理やり渡ってきたセイラは、髪型も服もくちゃくちゃになってしまっていたが、その顔は見間違えようも無い。


「セイラ様! まぁ、どうなさったの」


駆け寄って無事を確かめるように、荒れた手のひらがセイラの頬を包んでいく。

色をなくした頬のあまりの冷たさにカーサの瞳が曇る。


「母様。ジキルドの術士に会ったの」


クロエの言葉を聞いて、セイラの様子とクロエが外を気にしていることに合点がいったカーサはセイラを暖炉の前へと導くと娘には安心するようにと微笑み、湯気をたてるヤカンを手に取った。

中には数種類の薬草を煮出して作ったお茶が入っており仄かに甘い香りがした。

ヒスイ色のお茶をカップになみなみと注ぎ、砂糖を一カケラ。

銀のスプーンで二度円を描くと、セイラへと差し出した。


「お飲みなさい。身体が温かくなりますよ」


言われるがままに一口飲んだセイラの表情が弛んだのを見て、クロエもほっと息をついた。

これで大丈夫。

セイラの心臓は取られてしまわなかった。


「手荒なまねをしてすみませんでした。あそこをすぐに離れる必要があったので」


「どうして?」


「セイラ様が話していたのはジキルドの術士です。不可思議な術を使って人を惑わし貶める者ですので関わり合いにならないほうがよいのです。名を取られてしまえば相手の意のままに操られてしまうとも言われています」


術士に出会ったら、質問に答えてはいけない。

目を見てはいけない。

名を明かしてはいけない。

名を取られ、身体の自由を奪われてしまうことをアリオスでは心臓が取られたと表現するのだとクロエは告げた。


「こんな街中まで入り込むなんて、何を企んでいるのか」


「クロエおやめなさい。ただ祭りを楽しみに来ただけかもしれないわ。それに彼らは千ノ眼とキキミミを持っているの。めったなことを言うものではないわ」


いつになく厳しいカーサの声にクロエは唇を噛んだ。


「ジキルドには怖いものがいるの?」


「ジキルドは占い師の国でもあるのですよ。それぞれ風読み、月読み、水読みなどのグループに属しているようですよ。その一つの闇読みは人心を操る術がうまいと聞いたことがあります。彼らのことを特に術士と言っているのですよ」


カーサはもう一口と促し、娘のためにもたっぷりとお茶を注いだ。


「けして術が恐ろしいわけではありませんわ。恐ろしくするのは使い手の心です」


さきほど冷えた手で掴まれたように悲鳴を上げていたセイラの心臓の上をカーサがトンと突くと、注ぎすぎたお茶がカップから溢れ机の上を伝うように、何か温かいものがあふれ出し、身体の内側に沿って全身へと巡っていく。


「アリオスの剣も激情のままに振るえばただ人を傷つけるものになりましょう。エスタニアの舞で邪心を持って惑わせば国を傾けさせることもできましょう」


こくりと頷いたセイラを見てカーサは微笑んだ。

甘い液体を口に含み緊張の糸が切れたクロエはやっと重要なことに気がついた。

なぜ、セイラが此処にいる。

路地で亜麻色の髪を見かけても思いもしなかった疑問が湧き上がる。

それは喉元をせりあがり、ついには爆発した。


「何故、街にいるのですか!」


広間へ入ることの許された一部の侍女たちはセイラが姿を消した成り行きをある程度知っている。

マキナが公言するなと命を出していたので大騒ぎになってはいないが、ユーリが探していたこともありクロエの耳にも自然と届いていた。

ハナの耳にも当然入っているだろう。

今頃、可哀想なあの少女は半狂乱かもしれない。


「ちょっと……」


「ハナさんはご存知なのですか」


ハナの名を聞いた途端、油の足りないおもちゃの様にセイラの動きはぎこちなくなった。

スカートを見下ろしてしまったと顔を曇らせたセイラにため息一つ。


「あまり心配をかけないで上げてください」


「……いつの間に仲良くなったの」


「仲が良いわけではありません。……ただ彼女の気持ちが分かるだけです」


ハナとクロエは鏡のようなものだ。

お互いのことは良く見える。

ただそれだけ。

いや、見えすぎるといのは案外厄介なことかもしれない。

自分のことだけで精一杯だというのにハナの不安や焦りが伝染して、クロエまでため息の数が多くなってしまう。


「クロエはなんで街に?」


「私は……」


クロエはさっと自分の手元を見下ろした。

ない!

いつから。

セイラを見つけるまでは確かに持っていたはずだ。

祈るような気持ちで部屋の中に視線を走らせると、それはドアの近くにちゃんと置かれてあった。

倒れてもいないし、割れてもいない。

ごてごてとし、多少不恰好に見えるビンは暖炉の明かりを受けて鈍く光っている。


「お使いの途中です。リディア様がヒューロムの赤酒をご所望だとかで」


酒に詳しくないセイラは、クロエの困った顔に首をひねったが、ヒューロムの赤酒は中々手に入らないのだ。

もともとヒューロムのものは手に入りづらい。

痩せて小さな土地では食物にしろ酒にしろ自分たちで食べるので精一杯な量しか作っていない上にアリオスの舌には合わないのか需要が少ないので出回ったりもしない。

その中でも赤酒となれば随分前からヒューロムでさえ造らなくなった酒だ。

手に入ったのは奇跡に近い。

路地が入り乱れ異界にでも通じているのではないかと思わせる裏街のそのまた奥の酒屋でやっと見つけたのだ。

城に貴族を招く時は、いつも無理難題を押し付けられて侍女たちは四苦八苦するのだが、今回はリディアが一番面倒な相手だ。

リディアは部屋の内装から食事、酒にいたるまで全てヒューロムのものにしろと言い出したのだ。

何ヶ月も前から考え抜き見事に整えた部屋のものたちは今頃、喉元まででかかった文句を飲み込んだ侍女たちにより運び出され、代わりにヒューロムの古臭い絨毯が運び込まれていることだろう。


「夕食にジン様を招くそうです」


ジルフォードに母親の故郷の味を。

そう言われればよいお考えですわと微笑むしか他は無い。


「ジンを……」


彼らは一体どんな話をするのだろう。


「セイラ様もです」


「お招きされてないよ?」


それどころか喚いて逃げ出してしまった。


「夫婦ですもの。当然といった顔でいけばよろしいですわ。ジン様のことも心配でしょう」


密室ではどんな話を吹き込まれるのか分かったものではない。

手回しのいいものでリディアたちは用意だけさせると後の給仕はこちらの侍女がやると侍女の立ち入りさえ禁止したのだ。


「うん」


「では、さっそく城へ帰りましょう」


クロエの心配は杞憂だったのだろう。

誰かがドアをぶち破ることも無く、外の喧騒に変わりは無い。

カーサの言ったとおり、たまたま居合わせた術士だったのだ。

外が安全だと分かれば、出来るだけ早く城に辿りついたほうがいい。

酔っ払いの横行する夜の街も中々に危険だ。


「母様、ありがとう」


続いて礼を言おうとしたセイラの瞳をカーサがじっと見つめた。


「セイラ様には術士が、どんな姿で見えましたか?」


「……ベールを被ったおばぁさん」


花嫁が被るような長いベール。

眩しいような白い衣装から伸びるカサカサの手が、どこか奇妙に見えて赤くぬめった唇が毒々しいほど赤い。

その説明を聞いて眉を寄せたのはクロエだ。


「私には灰色のマントを被った人影にしか見えませんでした」


叩けば埃だ立ちそうなほどボロボロのマント。

路地の陽気さとはかけ離れ、そこだけ陰鬱としていたから余計に眼を引いたのだ。

マントは術士の証。

それを知っていたからクロエはすぐに気づくことが出来た。

きっとセイラが眼にしたような人物を目にしていたら、奇妙だとは思ったかもしれないが、術士だとは気づかなかっただろう。

祭りにはもっと奇抜な格好をしたものがたくさんいるのだから。


「ええ~! ……隣にいたのかなぁ?」


周りの状景を思い浮かべようとしてもうまくいかなかった。

赤い月。

白いベール。

洞のようでいて炎のように輝く眼。


「……セイラ様。こちらにおいでください」


セイラはカーサに導かれて別の部屋へと入った。

大きな鏡の前に立つと、肩から赤い布をかけられた。

とろりと光沢を持ったその布は液体と見紛うばかりの滑らかさを持っていた。

指先を差し込めば、とぷんと沈んでしまいそうだ。

体のラインに沿って曲線を描きながら垂れる赤は、形を得て生き物ようにさえ見える。

セイラが体を揺らせば、光が当たる角度が変わり色が少しずつ変化する。


「カーサ?」


そのまま器用に巻きつけられ腰の位置を飾り帯で結ばれ、異国の娘が着る神秘的なドレスのよう。


「ヒューロムの赤です。かつてにはエイナのマントの色でした」


「エイナの。綺麗」


「これはヒューロムがまだ国だった頃のものです。あの頃はまだ……いいえ。ハーディア様がご存命ならば」


カーサの声には懐かしさとどうしようもない哀しみが滲んでいた。


「ハーディア様って?」


「……サンディア様のお父上でございますよ。あの方は、本当にヒューロムを愛していらした」


痩せた土地も。

僅かな天の恵みに縋って生きているヒューロムの人々も。

あの小国がアリオスからもエスタニアからも他のどの部族からも攻められる事が無かったのは、一重にヒューロムの赤を創り出したためだ。

身体を巡る命の色に等しい美しい色を。

そこにより重い意味を持たせたのがエイナやエスタニアのユズロス王であったのは間違いないが、ヒューロムの赤は畏れ敬われる色だった。

ヒューロムにはこんこんと湧き上がる命の泉があり、そこで染めているのだと噂され、攻め入り罰を受けるのを畏れ誰も手を出さなかった。

ヒューロムの赤を創ることが許されたのは王族の娘たちだけだった。

真冬の冷たい水に手先を沈め、色をなくしていく肌の上を染料が染めていく。幾度真水で濯ごうとも染まったままの指先はヒューロムの誉れと称えられた。

ハーディアはその伝統を守ろうとした。

それこそがヒューロムの存在意義なのだと。

カーサはサンディアから、たった一度だけ命の色に指先を沈めたことがあると聞かされていた。

それは十歳で初めて許される。

真の王族の娘だと認められた瞬間、これからもずっとこの厳かな儀式は続いていくのだと信じて疑わなかったと。

だが、ハーディアは若くして亡くなった。

リディアが王位に就くと、彼らの娘は真白な指先を染めることを嫌った。

ハーディアの心を誰よりも汲んでいたサンディアは心を凍らしたままアリオスへと嫁ぎ、民が見よう見まねで染めた布に他国の人々さえも魅了した色は宿るはずもなく、ヒューロムはただの荒れ果てた場所になった。


「あの方ならば、ジルフォード様の中にヒューロムを見たでしょうに」


残念だとカーサは眼を伏せた。

世の中はままならない。

ほんの数年、数日、誰かの時間が狂っていれば全てがうまくいったのに。

この布はヒューロムの最後の布だ。

サンディアの母が手を浸し、サンディアもまた手を浸した。

それを今、彼女の息子を支える娘が身に纏う。

時が狂っていればと願いつつ、そうではないことの幸福を知りせめぎあう。

ああ、すべてがままならない。

それを諦めを含んだまま飲み込む術も長い年月がカーサに教えてくれた。


「これはどうかセイラ様がお持ちください」


この色は命の色。

悪しきものを遠ざける魔よけの色。

術士は姿を隠すためにマントを被る。

己を隠し、闇の中から相手を見定める。

もし術士が姿を晒したのなら術をかけるべき相手をすでに知っているということだ。

なぜ、今ジキルドの術士がセイラを狙うかなどカーサには知りようも無い。

けれど、上に立つということは標的にされやすい。

嘗ての夫もそうだった。

カーサは術士の恐ろしさを十分に知っている。

だから、己の持てる最高の守りをセイラへと渡したのだ。


「ありがとう」


跳ね回っていた髪を綺麗に梳いてやるとセイラは照れたように笑った。

この瞬間、カーサにはもう一人娘が出来た。

今までに数え切れないほど多くの子どもを持った。

その中のどの子より厳しい道を進むだろう。

亜麻色の髪を一本に結い上げ背中へと垂らし、目じりにそっと赤を添える。

アリオスの女の戦化粧だ。

どんな闇の中でも眼がくもることのないように願いを込めて。


「なんだか強そうだね」


ぴりと全身が引き締まる。

どこか自分ではないようで、ひらひらきらきらとしたお姫様の格好をしていた頃よりずっとしっくりとくる。

カーサはふっと微笑んだ。


「さぁ、クロエと共にお帰りなさい」



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