第四章:赤い月夜と蝙蝠8
ぐっと引き結ばれた口元のせいで、ラルドの精悍な顔がより引き締まる。
副官として常に共にいたユーリは、ラルドの表情の中に苦々しいものを見つけ、そっと唇を噛んだ。
彼の視線を追うと、苦々しく思っているのは、セイラを蔑むような態度をとったリディアではなく、広間から去った二人のことだと知れた。
確かに二人の行動は正しいとは言えない。言いたい放題言われて、逃げ去ったようなものだ。
かといって言葉を弄して相手を丸め込んでみせたところで同じような顔をするに違いない。ユーリには、どうすれば合格点が貰えるのか分からなかった。
ラルドが貴族の顔を見せるたびに、自分とは途方も無く遠い人なんだと思ってしまう。
キース家は大貴族の一つ。陽炎に入っていなければ、貧しい田舎町から出てきたリースと重なり合うことは無いだろう。
「どうした? ユーリ」
ジョゼは、自分よりずいぶん背の低いユーリを見下ろしているというのに、どこか覗き込まれているような気がしてくる。
それに不快感が伴わないのは、こちらを労わる気持ちが、彼の瞳から伝わってくるからだろう。
ラルドが真に安心しきって背中を預けることが出来るのはジョゼなのだろう。
実力の差を痛いほど知っているというのに、そう思うたびに悔しさがこみ上げる。
いつか追いつこう。
肩を並べよう。
硬く決心したはずなのに、こんな場面に出会うとぐらぐらと揺れるのだ。
ラルドの考え一つ分からないで、どうしてそんな大それたことを想ったのだろうと。
答えを促すように首を傾げたジョゼから視線を外し、大きな窓に視線を向ける。
明るい空の色を背景に、白い雲が流れていく。
「とても遠く感じることがあるのです」
あの雲と同じほどに。
「何がだ?」
「……キース将軍」
「私が?」
突拍子もないことを言い出した副官を見るラルドの瞳は驚きに満ち、いつもの2割り増しで大きく開かれている。
穴が開くほど見つめた相手は、ラルドの驚きなど知らずに、ほうと遠くを見ている。
「私なんかが、こんなことを言うのはおこがましいかもしれませんが、さっきのセイラ様の気持ちがわかる気がします。……自分のせいで誰かが傷つけられるのは悔しくって悲しくって。文句の一つくらいって……どうすれば合格点ですか? どう対応していればキース将軍は、そんな顔をしていなかったか……私には分かりません」
ジョゼは納得したように頷き「そうか」とユーリの頭をわさりと撫でた。
髪が引っ張られ少し痛かったがユーリは文句を言わなかった。
底抜けに明るいユーリも悔しくて唇を噛んで涙を流したことがある。
そんな時も、彼は頭を撫でてくれた。
ユーリは女だ。
その上、小さくて細い身体では軍服を脱いでしまえば誰も軍人だとは思わないだろう。
そんな彼女が陽炎の副官である飛炎に選ばれた時は非難の的だった。
選んだのが五大貴族であるキース家の嫡男だったため表面上は波風は少なく見えてはいたけれど。
どれほど頑張っても女だからと陰口を叩かれ、功績をあげれば女のくせにと難癖をつけられる。
時には貧しい出生のことまでネタにされた。
ユーリの家は貧しい地方の田舎町の中でさらに貧しい家だった。
子どもばかり多くていつも空腹を抱えているような家だった。
兄弟の何人かは売られていき、ついにはユーリの番が来た。
がりがりに痩せた子どもを一人を売ったところで得られる金は少ない。
すぐに妹たちの番が来てしまう。
娼館にいったって己の器量は知れている。
どうにか妹たちが自立できるまで家を支えることはできないだろうか。
思い悩むユーリの前に現れたのは軍の広告だった。
武の国であるアリオスでは常に探している上、給料もなかなかよい。
男だけという規定は無いが、やはり圧倒的に女は少ない。
彼女が城門をくぐった時から、何日持つかはかっこうの賭けの対象だった。
最長でも十日間。それを見事に破った時は拍手さえもらったものだ。
泥まみれ、傷まみれ、襤褸のようになりながらも立ち続けることが出来たのは、どうしてなのかユーリ自身にも分からない。
ただ、天を割る赤い刀身に魂の奥までも揺さぶられたことは覚えている。
どんなに蔑まれても、どれほど傷を負っても泣かなかったのに、その時は外聞もなく大きな声で泣いた。
その刀身の分身を任された時の高揚感と不安。
決して互いを裏切らない陽炎と飛炎。
その関係に少しでも近づいているだろうか。
鎌首をもたげた不安は常にユーリの側に居座っている。
「……そうだなぁ、俺なら自分の意思で此処に戻ってきたならギリギリ合格だ」
にやりと笑うジョゼの視線を辿れば、入り口にジルフォードの姿が見えた。
もはや広間にリディアは居ない。
誰も彼の足取りを乱すことなく、ルーファの前へと歩み寄った。
ほっとしたのもつかの間、隣のいるはずのセイラの姿が無い。
「お? 嬢ちゃんがいないな」
「どうしたのでしょう」
いつもと違う状況が、さわさわとユーリの不安のもとを撫でていく。
「ちょっと探してきます」
駆けて行くユーリを呼び止めようとして止めた。
そのうち、どちらの少女もけろりとした顔で帰ってくるだろう。
「気にしてるか?」
腹心の部下に遠い存在だと言われてしまったラルドは硬く閉ざしていた口元を開く。
眉間にしっかりと刻まれた皺はここ一番の深さだ。
「してる」
真面目に答えたというのに噴出され、敵ならば一睨みで凍りつかせることの出来る眼光でジョゼを睨む。
腰を折って笑い転げかねないジョゼの姿に、ラルドの口角はぐっと下がった。
「何が可笑しい?」
「いやいや、どちらも贅沢な悩みをお持ちのことで」
「は?」
『どうすれば合格点ですか?』言い換えるならば、ラルドに合格点を出して欲しいということだ。
認めて欲しい。
望むものを差し出したい。
それなのに望むものが分からないと言う。
一方のラルドは認めきっている相手に遠いと言われ、憤り焦っている。
どちらも一途に相手を想ってこうもすれ違うのだからおかしなものだ。
「大いに悩め」
ラルドの大きな背中を打つ。
意地悪そうな笑みを目にしてラルドは眉間の皺を解いた。
ジョゼ相手に口論をする労力は無駄だと悟ったのだ。
ユーリとしっかり向き合い、話をすればもやもやとした思いはすぐにでも消えてしまうだろう。
「お? 何だ。もう止めるのか。つまらん」
「何故、お前は副官を持たないのだ?」
陽炎の将軍に副官がいるように、当然月影の将軍にも副官はいる。
月影の副官には飛炎のように象徴するものがないため歴代の将軍の中で副官を選ばないものもいたが、選ぶ権利はある。
いきなり矛先が自分に向かったことに驚きつつも、ジョゼは肩をすくめると軽く答えた。
「お守りされるのは好きではないからな」
「私はカイザーを副官にすると思っていたが」
カイザーはあまり目立つ男ではない。
外見もどちらかと言えば線が細い。
けれど、居て欲しい場所に視線を向けると必ず居る。此方が注文をつける前に必要なものはそろえてある。
剣の腕も悪くない。足裁きに音がしない。気がついたときには急所を押さえている。冷や汗が流れるような静かで恐ろしい剣を使う。
先に目をつけて陽炎に誘えばよかったと何度思ったことか。
「俺は使い勝手の良い奴は距離を置いて使うのが好きなんだ。それにアイツはグラドの一族だ。一族の意に反せば上司だろうと牙をむく。人の副官を心配するよりも自分の副官を心配したらどうだ?」
広間には人もまばら。
馬鹿げた会もこれで解散となるだろう。
将軍が二人もここにいる必要は無い。
笑みを背に受けながら、ラルドは走り去った少女の後を追うように歩き出した。