第四章:赤い月夜と蝙蝠7
人の声がしない広間。
楽師団もどこか気もそぞろで、ずれた音がいつまでも取り残される。
さざめきが戻ったのは、ものの数秒後だったが、沈黙の瞬間は空気が硬化したかのようだった。
あまり仲のよく無い者同士もこのときばかりは力を合わせ、「庭を拝見しましょうとか」と肩を揃えて去っていく。
酒臭いため息。
眉を吊り上げる隻眼の将軍。
心を痛める義姉。
そして、笑みを深める兄。
それを目にするとテラーナは広間を後にしたが、誰も一人の少女が消えたことなど気づかなかった。
やっと姿を見つけるとジルフォードは一人だった。
彫像のように動きを止めている彼の横にはセイラの姿は無い。
すぐさま声をかけようと思っていたのに、舌が乾き声が出ない。
ゆらゆらと立ち上る陽炎のように目の前に浮かぶ状景に、心の奥がひどくざわついた。
それが怖さからだとは認めたくないテラーナはぎゅっと目を瞑る。
尚、鮮明になった状景の中にいるのはまだ幼い自分とジルフォード。
あの時も、動きを止めたジルフォードは何を見ているのか、何を思っているか分からなかった。
テラーナは母との約束を守ろうとした。
「仲良くしてちょうだい」母はそう言った。
血は半分しか繋がっていないといっても兄には変わりない。
幼いテラーナには大人たちが言う『色なし』なんてよく分からなかった。
多少、違った外見ではあるけれど気になど留めてはいなかった。
それどころか、兄の友人たちのように騒がしくなく、いつも難しそうな本をすらすらと読んでいるジルフォードに好意すら抱いていた。
だから庭の隅に、ひっそりと隠れるようにあるテラーナのお気に入りの東屋に彼が現れるようになっても、シルトの意匠が施してある大好きな椅子を一日中取られていても、ちっとも怒りは沸いてこなかった。
その日、ジルフォードが持っていた本の表紙はすばらしいものだった。
だから何を読んでいるのか気になったのだ。
しばらく声をかけようかどうしようかと、もじもじとしていたのだが母の言葉が背中を押した。
小走りで近づいていくと、宙を見ていたジルフォードの瞳が此方を向く。
冴えた紫の瞳。
初めて見る色にテラーナはさっと顔を伏せてしまった。
初めて声をかけるときは緊張するものだ。
手にはじっとり汗をかき、絡まった舌はうまく動かない。
「何を読んでいるの?」その一言が中々でない。
どれほどの時間、そうやっていたのかは今になっては定かではない。
覚えているのは冷え切った拒絶の言葉。
「関わるな」
その言葉は、母との約束もテラーナの決意も本のすばらしさも消し飛ぶほどの効力をもっていた。
それ以来、テラーナはジルフォードと関わりあいになることから必死に逃げてきた。
ダリアにお茶に誘われても、その場にジルフォードがいると知ると無理やり理由を作って断っていた。
兄に困ったように苦笑されるよりも、ダリアの悲しそうな顔を見るよりも、あの言葉をもう一度聞くのが恐ろしい。
忘れてしまいたいのに、視界に入ってきては思考力を奪っていく。
感嘆さえして見つめていた色が己のコンプレックスを刺激するようになるなんて考えてもみなかった。
そんな相手にどうして自分から関わろうと思っているのだろう。
今すぐにでも自室に逃げ込みたいのに、どうして視線を外すことが出来ないのだろう。
どうして、憎らしいほど明るい色の髪が彼の隣にあるはずだと思ってしまうのだろう。
「いつまで、そうしているつもりなの? これ以上、兄様一人に相手をさせないでちょうだい」
震えそうになる声にうまく怒りを紛らせて、やり過ごす。
それはあまり難しいことではなかった。
兄を嘲るようにいやらしく笑うリディアの顔を思い浮かべれば、怒りなど無尽蔵に沸いてくる。
テラーナに気づいたジルフォードは振り向くと、見まいと思っていた瞳の色を正面から見てしまった。
あの日と同じ冴えた紫。
けれど、その色は風にあおられた炎のようにちろちろと揺れていた。
静かな怒りを示すように。
「あなた、怒っているの?」
何故か知りもしないくせに、ジルフォードは怒っているのだと思ってしまった。
口に出してはっとしたが、もはや取り消すことは出来ない。
テラーナの言葉を受けてジルフォードは考えた。
体の奥に溜まっていく酷く冷たいものが怒りだというのならばそうなのだろう。
否定はしなかった。
分からないとも言わなかった。
ただ、セイラの温かさを忘れてしまいそうなほど、己の内も外もどんどん冷えていく。
怖れも怒りも消えうせて、テラーナの内に生まれたのは紛れも無く呆れだった。
もっと酷い仕打ちをされてきたはずだ。
むりやり母親と引き離され、刺客を送られ、存在さえないものとして扱われた。
そんなときでさえ、変化など見せなかったくせに、駆け引きとも呼べない戯言のせいでぐらついているなんて。
対象が変わるだけで、なんて弱い。
なんて脆い。
なんだか急にジルフォードに恐れを抱いていたなんて、拒絶されることを怖がっていたなんて馬鹿らしくなってきた。
「あの娘なら帰ってきます」
何故、そんなことをわざわざ伝えてやらなければならないのだろうと思った。
他にどこに行くというのだろう。
セイラに故郷があっても、もう気軽に帰ることのできる場所ではない。
彼女はここで生きていくしかないのだ。ほんの少し考えれば分かることだ。
そんなことさえ分からないほど動揺しているのだろうか。
否、そうではない。
ジルフォードもまた怖いのだ。
ここは帰りたい場所ではないと拒絶されてしまうことが。
ああ、なんて馬鹿なんだろう。
私も。彼も。そしてセイラも。
怖がって、傷ついて、傷つけて。
「兄様のところに行ってよく話し合いなさい。あの娘が帰ってきたときにどうしていればいいか考えておくことね!」
もう少し、うまく言葉が出てきたらいいのに。
テラーナの頬はうっすらと染まった。
「ありがとう」
届いた感謝の言葉に、ふんとそっぽを向いた。
ジルフォードが通り過ぎる時に起こった風がテラーナの髪を揺らす。
大好きなシルトの彫り込まれた椅子。お気に入りの場所。
本当は好きだった色が目の端を過ぎていく。
ゆらゆらと不安定に揺れていた昔の状景はテラーナの前からいつの間にか消え去った。