第四章:赤い月夜と蝙蝠4
ヒューロムはローラ山脈とアリオスに挟まれた小さな国だった。
山脈から吹き降ろす厳しい風に晒された土地は荒れ、豊かとは言えなかった。
山岳地帯で何とか育てることが出来るリューイと呼ばれる動物から取れる毛で紡いだ布を売り外貨を得ていたが、それも僅かばかり。
唯一、赤い染料として高く売れていた植物の根も、各国が自国での染料開発に成功してからの需要は全盛期の三分の一にも満たなかった。
キアが生まれた頃には、もう国ではなくアリオスの領地となっていた。
母はいつも恨みのこもった声で言った。
「あの女さえうまくやっていれば、お前は今頃王女だったのに」と。
母は王妃になるはずだった。
あの錆付いたガラクタのように意味のない場所の。
名前を呼ぶことさえ忌々しいのか、母はアリオスに嫁いだと言うサンディアのことを頑なに「あの女」と言い続けた。
かつて城と呼ばれた湿っぽくて陰鬱な屋敷には彼女の姿形を語るものは何一つ無い。
ある者は、とても美しい方だったと言い、ある者はとても冷たい方だったと言う。
彼女は一族のどんな要求にも応えなかったそうだ。
誰々をアリオスの有力者にしろ。タナトスに屋敷をかまえて呼び寄せろ。
応じなかった彼女を母は今でも裏切り者だと詰っている。
キアはサンディアの行動が正しいと思う。
自分も絶対に、全てを捨てて行くだろう。
妄執にとりつかれた母も過去ばかりを懐かしむ馬鹿な父も。
ガラクタの国の王女なんて冗談じゃない。
獣臭い布も赤い汁を垂らす植物も必要じゃない。
欲しいのはたくさんの流行のドレスに傷一つない靴。
磨きこまれた床の美しい城に思いのままに動かせる侍女。
ヒューロムでは手に入らない。
今回、新調できたドレスは今着ている一着だけだ。
しかもシルトのように純白のドレスが欲しかったのに、春乙女の色だからと、気に入らない色を入れられた。
欲しいものを好きなだけ手に入れる。
そのために父に無理やりついてきたのだ。
自分のところで手に入らないのなら、手に入れることの出来る誰かに取り入ればいいのだから。
だけど、アリオスは少し期待と違う。
ヒューロムよりましには違い無かったけれど、夢物語に出てくるお城ではないのだ。
真白で皇かで完璧なお城。
エスタニアの白バラと呼ばれる城のように。
そこではたと気づいたのだ。
アリオスでダメならば、エスタニアの貴族に取り入ればいい。
広間にはエスタニアから招待された貴族たちもたくさんいた。
それに、今日会うメインの一人は憧れの国の王女。
彼女を味方につければ怖いものなんてなにもない。
貴族どころか王族だって紹介してもらえるかもしれない。
そう思っていたのに、現れたのは唯の小娘だった。
綺麗なドレス。
傷一つない靴。
特別な玉で作られたピアス。
キアの欲しいものを全て身につけているのは、あきれ返るほど普通の小娘だった。
貴族の一人さえ紹介できない。
嬉しそうに故郷のことを語るけれど、贔屓の貴族や有力者に近づけないなら意味は無い。
せいぜい、噂に高い技術を使って荒稼ぎをするくらいしかできやしない。
王妃か聖母の娘でないといけないと言った父の言葉がようやく理解できた。
不安顔で後ろからついてくるセイラには利用価値がないのだ。
こうなったら、ジルフォードに頼るしかないだろうか。
キアはちらりとジルフォードを見上げた。
一歩を踏み出すごとに、瞳の色が水の上に張った油のように変わる。
確かに気味が悪い。
己の瞳と同じもので出来ているとは信じがたいが関係ない。
利用できるなら魔物だろうが、色なしだろうが受け入れよう。
キアは組んだ腕に力を込めて後ろを振り返るジルフォードを無理やり引っ張った。