第四章:赤い月夜と蝙蝠3
「セイ」
「……うっ? あっ、ジン」
庭に立ち尽くすセイラを見つけ、何度目かの呼びかけの後、もう手を伸ばせば届く位置に来て、セイラはやっと反応を返した。
ジルフォードの姿を見つけ、ほっと詰めていた息を吐く。
「どうしたの?」
「えっ? ううん。なっなんでもない。うん。何でもないよ」
先ほどの出来事は、きっとナジュール殿の悪ふざけだ。
そうに違いない。
そう思えば思うほど触れられた頬が熱を持つ。
何だこれ。変な感じがいて袖口で力任せに頬をぬぐっていると、やんわりと静止の手が入る。
「頬どうかした?」
親指がこすれて赤くなった部分をすいと撫でる。
触れるか触れないか微妙な力加減。
ジルフォードの白い指先に熱が伝わってしまいそうで、セイラは顔を背けた。
「だっ大丈夫!」
一瞬宙に取り残された指先が一度ぎゅっと握られると再び頬に添えられ、セイラの顔を上に向かせた。
思いのほか強い力をかけられ驚いたセイラの視線の先には僅かに眉を寄せたジルフォードの顔があった。白い髪が降りかかり、他のものは何も見えない。
白い檻の中にいるようだ。
「どうしたの?」
その問いは頬のことでは無かった。
心配の濃くなった声が聞こえると、先ほど熱を持った頬のように胸の奥がじくりと痛む。
告白を受けたばかりの頬が熱を孕むのは当然として、痛むなどおかしなことだ。
その理由に思い至って、セイラは本当に情けなくて泣き出したくなった。
「セイ」
ジルフォードの瞳がゆらと揺れる。
青から深い緑。
一瞬、金が混じったこと思うと耳を飾る紅玉のピアスのように鮮やかな赤になった。
心の奥底まで晒されているようだ。
きっと嘘をついてもすぐにばれてしまう。
思いついた当たり障りの無い言葉を噛み砕いて飲み込み、口を開くまで待ってくれるジルフォードに安堵して、ほぅと大きく息を吐いた。
「あのね」
「見つけたわ。ジルフォード!」
セイラの声に被さるようにして高い女性の声がした。
「あっ……」
「あら」
広間から続く階段を駆け下りて、ジルフォードに飛びついてきた女性には覚えがある。
先ほどセイラの母のことを聞いた人だ。
名前は……確か名乗ってはいない。
ダリアたちとシルトのハナを見に行ったわけではなさそうだ。
そこに思い至って相手をじっと見ているとやっとあることに思い至った。
彼女のドレスは穢れのない真白。
祭りの期間中は春乙女にだけに許されるシルトの色。
ここで白い衣装の女性はセイラだけのはずだった。
肩を覆うショールにこそ薄く色がついてはいたが、優雅に裾の広がったスカートは禁忌の色。
何も知らないものが見たら、ジルフォードに取りすがる女性をセイラ王女だと間違えたに違いない。
彼女が質問した時に、幾人かが息を呑んだのは、もしかしたら彼女のドレスのせいかもしれなかった。
言葉に窮しているセイラに向かって彼女はにっこりと笑った。
「初めまして。私、キアと申します。ジルフォードとは母方の親戚になるの。よろしくお願いしますわ」
広間での出来事など無かったかのように彼女は友好的だ。
親戚の言葉にジルフォードの視線が己に移ったことに気を良くしたのかキアの笑みは深くなる。
対称的にセイラの表情は曇った。
サンディアが幽閉されたとき、彼女の一族からの風当たりはとても厳しかったと聞く。
彼女の私物の一切合財を都から運び出した後は、西の離宮には一度として訪れたこともないとも聞いた。
「……母上の」
「ええ、彼女とはいとこ同士よ」
そう言うキアは一度としてサンディアには会ったことがないだろう。
彼女が生まれたときには、サンディアはアリオスの王妃で、その後も一度として故郷の地を踏んでいないのだから。
「お父様がジルフォードに会いたいってわざわざ来ているのよ。会って頂戴」
答えも聞かず、絡めた腕を引っ張って歩いていくキアの後ろで、セイラは吐き出せなかった言葉の気持ち悪さと、嫌な胸騒ぎを感じていた。