第三章:夕闇に映う色20
耳の痛くなるような静寂を獣の鳴き声が裂いていく。
冷え切った砂の上に群れなして、腹が減ったと恨めしげに此方を見ているのだろう。
凍えるような夜の中、なお冷たい瞳を虚無に向け青年はくすりと笑う。
笑みの浮かぶ頬は月の面のように白い。
冷笑を聞き取ったのは、老人と死者だけ。
老人は白濁して生まれたときから一度も外の世界を映したことの無い眼で青年を睨み付けた。その瞳は未来を見るための眼。
だが今は一秒先の出来事も分かりはしない。
ただ、新月の夜の闇を煮詰めたような底知れぬ影が目の前にいることだけが感じと取れた。
「ねぇ、導きの星。そんなものに何の価値がある? アンタが一晩中そこで通せんぼしている理由があるのかい? ただのゴミだ」
導きの星と呼ばれた老人は体を強張らせた。
それが怒りからなのか恐怖からなのか己でも判断しかねる。
けれど、青年に占者の最高位の尊称である導きの星と呼ばれた時、背中を駆け抜けたのは羞恥だったに違いない。
この事態は己の力なさが招いたことだ。
青年の赤い瞳は老人の後ろに安置されたものを見ていた。
かさかさに乾いたそれは木の皮のようだ。
触れればぼろりと壊れてしまいそうなそれの以前の姿を忍ばせるのは巻きつけたようにだらりと全体を覆う複雑な模様で染め抜かれた布と、茶色く変色した表面に残る赤いイレズミ。
タハル王の遺体にはもはや生前の面影は無い。
話すことも考えることもしない。
飢えた獣の腹を満たすこともなく、植物の苗床になることもない。
青年には、ただ干からびて縮んでいくその体に何の意味あいも見出せなかった。
「お前さまには慈悲は無いか。愛情もないか」
老人の指先に震えがはしる。
ここは自分ひとりで守り抜かなければ無らない。
せめて、王子たちが帰ってくるまでは王の死をひた隠しにしなければ。
ここまでは順調のはずだった。
王が寝付いてからは自分以外誰も近づけはしなかった。
占者の言うことは絶大。
遺体を安静のためだと偽ってここまで持ってくるのはさほど大変なことではなかった。
すべての手はずが整った後に彼が望んだように新たな王を向かえればいいはずだった。
「そうやって馬鹿みたいに両手を広げて通せんぼするのがアンタの愛情? 王が毒の杯をあおると知っていてとめなかったくせに? まぁ、心配しなくて良いよ。僕はソレに興味は無い。今のところタハルにも興味は無い。」
滅びようが新たな王が立とうがさして問題ではない。
「別にあんたが望むように王子たちが無事に帰ってきて、王位を継いだって関係ないんだよ」
「では……なぜ」
王を奪ったのだ。
「新しい舞台には新しい主人公が必要でしょ?ソレはちょっと長く玉座にすわり過ぎたってだけの話だよ」
もしも玉座を得て数年ならば。
そうアリオスのルーファ王と同じほど王になってからの期間が短かったならば。
「ねぇ、導きの星。愛情ってなぁに?」
青年が首をかしげた拍子に白い髪が風に舞い、赤い瞳を隠した。
強烈な怒りを秘めた瞳が見えなければ、まるで迷子になった幼子のように頼りない。
「抜け殻を守ること? 全部の責任を押し付けて毒杯をあおる事?」
勝てもしない相手の前に両手を広げ、意味のないものを守る行為。
己が死んだ後、王位争いで苦悩するであろうことを知りながら自ら毒を飲む。
どちらも不可解だ。
意味の無い愚かしい行為。
「どちらも愛情から生じた行為です。愛情とは何かを愛しいと思う心です。誰もが持っているものです」
そうであって欲しいとすがるような声に笑い声が重なった。
不吉な月のような赤い瞳が細く弧を描く。
「うふふ。空言を言えば、力を無くしてしまうよ?」
少なくともユザにはそんなものはない。
ひとしきり笑うと青年の瞳からは、老人への興味も消え失せた。
後のことは任せてある。
もうこんな砂だらけの場所に居る必要は無い。
さぁ、帰ろう。われらの地へ。
見放された地へ。
「なぜ、あのようなことになったかご存知か?」
身のうちに巣くう憎しみの根源を。
憎しみはどこから生まれたのか。
老人は、去り行く背中に必死に問いかけた。
水に沈む間際のようにあえぎ、助けを求めるように。
「理解できなかったんだよ。お互いにお互いをね」
まるで種が違うように。
「人間と竜のようにね」