第三章:夕闇に映う色16
何処をどう歩いたのか、どれほどの時間が経っているのかルルドには分からなかった。
気がついたら、そこに立っていたのだ。
人が忙しく歩く廊下なので何時間もそこで、ぼうとしていたわけではないのだろうが、全くもって我に返るまでの記憶がない。
ジョゼに会ってから一体どうしたのだろう。
タハルの砂漠では、時に魂が体から抜き出たのではないかと思うような時間を過ごすことがある。
満天の星空に呑まれるときや、暁が砂の山を赤く染める瞬間。
けれど、今は目を奪うような光景などありはしなかった。
石の壁ばかり。庭に出たところで同じ事。
そう思いながら、視線を向けた先には目を奪うものがあった。
先ほど訪ねたときは返事すらしてくれなかった兄の姿だ。
庭の一角に腰を下ろしたナジュールの周りには数人の侍女が円を描いていた。
「タハルってどんなところです?」
「どんなイメージを?」
逆に問い返された侍女の一人は「んー……」と考える仕草はしたものの具体的なイメージなど殆ど浮ばないのだろう。
辛うじて浮んだのは見放された地という言葉から連想されるもので、そこに住んでいる住人に言うには憚られるものだった。
「砂漠……ですかしら」
とりあえず漠然として良し悪しを含まない内容を口にする。
砂漠といっても貴族育ちの侍女たちには子どもたちが遊ぶ砂場を大きくしたようなイメージしか持てていない。
そこに怪鳥や獣が跋扈するなど夢物語でしかないのだ。
口々に感想を言いながら触れる獣の毛皮も彼女たちから見れば小汚いマントのようなものだ。
「砂漠……確かにタハルの大半は砂が埋め尽くしていますよ。だが、タハルには他にも見所はたくさんあります。例えば満天の星空など、どの国にも負けません」
「まぁ、それは見てみたいですわ」
「それならばタハルに招待いたしましょう」
「約束でしてよ」
くすくすと華やかな笑いが場を満たす。
社交辞令であることは互いにきっちりと分かっている。
彼女たちは、王子という立場の人間との会話を楽しんでいるだけなのだ。
誰一人、本気でタハルに行きたいなどと思っている娘などいないことをナジュールは理解しつつ、彼女たちが望む笑みを浮かべるのだ。
「そうだわ。ナジュール様」
ずずいと幾人かの侍女が前に出た。その顔には好奇心がたっぷりと含まれている。
今日はせっかくの花流しの日。
それなのに今日休みを取れなかった娘たちの不満は募り、そこに話しやすい話題の人物がいれば饒舌にもある。
それに相手は他国の使者。暇つぶしの相手をしてあげているのよと大義名分もたつ。
その証拠に話に加わってくるものはいても苦言を言いに来るものはいない。
「セイラ様のこと、どうお思い?」
「……セイラ殿を?」
互いに顔を見合わせ高い声を上げる娘たちに驚きながら反芻した。
「一緒に街に行かれたのでしょう?」
意味ありげな目配せをしつつ興味津々だと顔に書いてある。
彼女たちの耳には街に言った事ばかりではなく、広間で抱き合った、日が暮れてから共にいたなどの多少歪んだ情報が届いていた。
ルーファとダリアが仲睦まじいのはいつもの事で噂話をしたところでさほど心は躍らない。
セイラとジルフォードも似たようなものだ。それに彼の話をすることは古参のものが嫌うのであまりすることはできないし、どうせなら他国の王子との禁断の愛に発展させるほうが面白い。
ハナなど牙を剥きそうな話ではあるがあくまでも、ちょっとした暇つぶしだ。
「ええ、案内してもらいましたよ」
結局、早々に離れ離れになって彼女たちの望むような話などなかったのだが、彼女たちの期待には添えたらしい。
黄色い悲鳴を上げた彼女たちは、ルルドが共に居たことも、途中でジョゼが合流した事も知らないのだろう。
その時に、セイラが選んだ腕輪へと視線を落とす。鈍いくすんだ玉が今の己の心情のような気がした。
「セイラ殿はとても素敵な方だと思いますよ」
出てくる言葉は本心であるはずなのに別の誰かが話しているような感覚だった。
「セイラ殿とするへインズの話は楽しい……」
視線を上げたナジュールに見えた光景はまるでスローモーションのようだった。
向こうから肩を怒らせてやってくるのはルルドだ。
まだ侍女たちは彼の存在には気づいていない。
「ルルド」と名を呼ぶ前に侍女たちが作った輪が崩れ、非難めいた悲鳴は一拍置きにナジュールの耳を打つ。
腕に感じた鈍い痛みがルルドが力任せに腕を引いたからだと気づいたのは、ルルドの手の下でしわくちゃになった服を視界に入れてからだ。
「ルルド?」
声が出たのは更に一拍後だった。
ナジュールの体は侍女の輪を半分抜け出ていた。
ルルドの思考と行動は連動などしていなかった。
驚く侍女の顔にも気づいていない。
ナジュールの声さえ耳に入っていなかったに違いない。
ただ掴んだ腕をぐいとひっぱる。
抵抗というよりも戸惑いから歩みの遅いナジュールの腕を叱咤するように。
「おい、ルルド? 一体どうした?」
ダメだ。ダメだ。ダメだ。
この言葉ばかりがルルドをせかす。
ナジュールに宛がわれた部屋の扉を開くと有無を言わさずに押し込んだ。
「ルルド!」
流石にナジュールの声にも苛立ちが混じる。
どこか兄の形をしたまがい物を見ているようなざわついた気持ちはおさまってきたが、ルルドは扉の前に陣取って動こうとはしなかった。
何時になく強い眼差しは、ここからナジュールを出してはいけないという使命に燃えているかのようだった。
「あんなの兄上ではありません!」
この国にきて堪えに堪えていた兄上と言う言葉を口に出した。
タハルの話をしたとき、貼り付けた笑みさえずるりと落ちたような気がしたのだ。
セイラの話をしたときに、決定的となった。
あれほど好きなへインズの話しさえ何の意味も持たないような無表情。ルルドにはそう見えた。
「今日の兄上はおかしい! 何故、隠すのですか!」
「何も隠してなどない。本当にどうしたと言うのだ」
「父上が逝った! そうでしょう?」
ナジュールは一瞬驚いたような顔をしたものの、何も言わなかった。
「西の端、リュオウの横にあった星が落ちた! 」
リュオウは砂漠の女神の星。その横で最も気高く光っていた星は力をなくし、ついには闇に呑まれていった。
ルルドに唯一つ、兄より優れたものがあるとしたら星読みの能力だ。
無謀だと罵られたがたった一人で砂漠を渡った事もある。
数多の星から運命を読み解く方法は砂漠の端にあった今にも消えてしまいそうなオアシスで出会った老婆から教わった。
小さな赤い星が流れるのを指差して、今私の運命が流れたと言った老婆は次の日にはもう冷たくなっていた。
ナジュールでさえ、サクヤの訪問がなければ間違いないと判断できなかったものをルルドは一人で読み解き、抱えていたのだ。
「僕は……頼りない。分かってる。兄上の支えなど到底なれない! だけど僕だってタハルの王子だ!」
先ほどまで黒い瞳の表面を潤していただけの涙は、堪えきれなくなったのか大粒の雫となって落ちていく。
ルルドが叫ぶのを止めれば、しんと静まった部屋の床に叩きつける涙の音がしそうだった。
タハルの王子と言う立場ならばルルドは完全に失格だった。
次の砂漠の王となる資格を持つものは、いかなる時も人前で弱い姿など見せてはいけない。
それが例え親兄弟であっても。
「あまり泣くな。涸れてしまう」
タハルでは泣く事は弱さの象徴でもあり、砂漠で貴重な水分を己の体から溢れさすなど愚かな行為だとみなされていた。
それなのにこの弟はよく泣くのだ。
唇を噛み締めて、手のひらに爪を立てて。
そこまで我慢したくせに、涙など瞬時に干上がってしまう灼熱の砂の上で、涙さえ凍える夜の闇で一人になってボロボロと泣くのだ。
見つけるたびに涸れてしまうと諭すのだが効果はあまりない。
何度も何度も袖口で拭っても、止まる事を知らない雫はルルドの意思に反して溢れてくる。
水の道をいくつも頬に這わせ、まだ新たに湧いてくる水を溜めながらそれでも視線を逸らさないルルドを見て弟に限っては涸れることなどないのかもしれないと思うときがある。
ルルド自体が水源なのだ。溢れて、溢れて、溢れて。他のものを慈しむ。
誰かが戯れに言った事がある。お前が泣かないからルルダーシェが代わりに泣くのだと。
「ここでは涸れないか」
作り物のを表情を完全に取り払ったナジュールは気の抜けたように椅子に腰を下ろした。
柔らかく背中を支える椅子が居心地が悪い。豊かな自然に陽気さ。有り余る食料に娯楽の数々。水の心配もしなくて良い。
望んでいた世界のはずなのに何もないタハルが懐かしい。空と砂ばかりの世界。だからこそ、王は絶大だった。父親は一番の支えだった。
じわじわと己のうちで広がっていくのはどうしようもない焦燥感。
感情が揺れるのを悟られまいとしていたのに、一番知られたくない弟に指摘されてしまうとは。
「父上は亡くなられた」
先ほどのルルドの叫びを遅まきながら肯定した。
タハル人の寿命はアリオスやエスタニアに比べれば短い。
医療体制も十分とはいえない。
けれど、タハル王は今や男盛りといって風体で力ではナジュールにさえ引けをとらなかった。
いつからだったか、命の泉が涸れたように力をなくしたのは。日に焼けてたくましかった頬が色を失くしていき、寝付いてからは手足の筋力も一気に落ちた。紫になった唇からは言葉さえも消えていく。
それなのに落ち窪んだ眼だけには砂漠を駆けていたときのようにギラギラと火が灯る。
彼が最後に下した決断はナジュールだけが心に秘めた。
「お前の言うとおり、お前はタハルの王子だ。時期が来ればすべて話そうと思った。だが、私が時期を決めるなどおこがましかったようだ」
ナジュールは座るように促した。
これからする話は立って聞くには長すぎる。