第三章:夕闇に映う色15
「何か目を引くものがありますか?」
ルーファは窓際に佇む男に声をかけた。
いつからそこに立っていたのか、用意されたお茶も菓子も手をつけられないまま机の上で冷えきっていた。
せっかくのダリア手製の菓子も装飾以外の意味を持ち合わせていない。
ルーファの声に振り返ったのは、鷹の様に鋭い瞳の男だった。
豪奢な衣装に彩られた彫りの深い顔は、未だ若々しく実際の年齢よりも男を若く見せている。
「いや、どこもかしこも浮かれてきっていますな」
外の喧騒に耳を澄ませた男は堂々としており、部屋の主めいていた。
実際、本人もそう見えるべく装っている。
「年に一度の祭ですから」
アリオスの長い冬が開ける。
それを盛大に祝う気持ちはルーファにはよく分かる。
祭りが華やかであればあるほど、国中に活気が漲っているような気がするのだ。
祭りの期間中ばかりは城内が陽気なのも仕方がない。けれど、目の前の男の意見は違うようだ。
一瞬だけ苦々しげに瞳を細めるとマントを翻して、許可も無く席に着いた。
わざわざお茶の用意された席を外し別の席へと腰を下ろす。
中には王妃自ら入れたお茶など恐れ多いと言う者もいるが、これは全く別の意思表示にも取れた。
「ところで、お話とは? リグンブル殿」
こんなに忙しいときにわざわざ訪ねてくるのだ。余程の用事でしょうね?と笑顔に滲ませながら問いかけた。
笑顔が何時もの二割り増しなのは、リグンブルが失礼な態度でダリアのお茶を拒絶したためだろう。
レイドス・リグンブル。
アリオスの五大貴族の一つ、リグンブル家の血を引くのもさることながら、主要な街道、産業を集約するザクセンを納めているこの男は非常に厄介な相手だった。
前の領主を半ば引きずり下ろすようにして領主になった男ではあったが、彼の功績を見ると一概に責める事もできない。
もともとアリオスでは武器を作るための金属類は豊富であり、加工の技術も優れていた。
その技術を応用して日用品の生産を手がけたのだ。
装飾重視のエスタニアのものと違い実用性に優、品質のよいザクセンのものはどこの商人もこぞって仕入れに来る。
エスタニアも例外ではなく、強力な貴族とのつながりもつくり、今やアリオスで最も外貨を稼ぐ場所となっている。
もう一つ厄介な事がある。
彼が殊更、見えるように傍らに置いた剣だ。
銀で彩られたその剣にはマルスの紋章が彫られている。
王から下賜された証だ。
紋章の下に彫られた名前はロード。
先王であり、ルーファの父、戦王と名高かった彼の名の記された紋章を見せれば、未だ誰もが頭を下げる威力があった。
「ルーファ王。今のアリオスの状況が分かっておられるか?」
彼にルーファ王と呼ばれるたびに、問題点が山のように見えてくる気がした。
自分はまだ認められていない。
リグンブルは先王のことを“我が君”と呼んでいた。
実際、今もそうだ。
自分は未だ彼等の王ではない。
リグンブルに認められないということは、少なくとも大貴族の一つに認められていないということだ。
「……どういうことでしょう?」
慎重に言葉を選んだ。
嘆かわしいとため息をつかれると知りながら。
「アリオスは非常に不安定であります。エスタニアと婚姻による和睦を得たといっても、いつ覆されるか分からない。失礼と承知して言いますが、セイラ殿はそれほどエスタニアで重要視されてはいないでしょう。母親など田舎娘と言うではありませんか。なぜ、王妃の娘か、せめて聖母の娘を嫁がせなかったのか不思議で仕方がありませんな」
本当に失礼だと思いながらも口には出さずに先を促した。
さっさと本題に入ってくれなければ、やることはたくさんあるのだ。
「あんな小娘を寄越したくせに、ジキルドとの関係が悪くなれば、すぐさまわが国に援軍をと言ってくるに違いありません」
「リグンブル殿、手短にお願いしたい」
翠の瞳が煌いた。
鋭いその輝きには先王と同じものがあり、時にはっと息を呑むことがある。
「……タハルの王が倒れたようです」
「なに」
「タハルとの関係は今までどおりと言うわけにはいかなくなるでしょう。未だ国を治めて日の浅い貴方、3人しかいない元帥。その元帥も皆、ご高齢だ。これではこの国は土台から揺らぐ」
言い放たれた言葉は忠告ばかりではなかった。
確かにルーファが王についてから日は浅い。そこに、ことさら元帥の話を盛り込むとなると。
「元帥を増やせと?」
ちらほらと出ている意見ではあった。もちろん、国を思っての事ばかりではない。利権や出世、そんなものが絡みつく。
確かに皆年を取った。ハマナ・ローランドなど政に関わるものとしては最高齢だ。
けれど、年月は彼等に経験を与えより強固な支えとなったと信じている。
「そう聞こえたのでしたら、一人良い人物を紹介しましょう」
「良い人材の確保は我々の責務だ」
話は聞こう。
そう態度に出しながらも嫌な予感しかしなかった。
「サンディア殿を」
「言っている意味が分かっておられるか」
「ええ、勿論です。不当に奪われた彼女の権利を回復するまたとない機会でもあります。今ならば、彼女が産んだのは恐ろしい化け物だという認識が薄れていますからね」
全身が総毛立ちそうだった。
「ルーファ王もそう思ったから、彼女をヤガラへと移したのでしょう」
「私は、彼女を此方の世界に戻す気はない」
壊れていくのは母だけで十分だ。
側室である事をなじられて、王妃より先に妊娠した事で罵られ、王妃がいなくなったその後も、彼女の支援者からの嫌がらせは絶えず、次第に母は体を壊していった。
母は最期の息で言ったのだ。「サンディア様は、さぞや悲しいでしょう。己の子の成長を見守れないなんて」と。
今、サンディアを政に引き込めば、同じ事がおこるに違いなかった。
「そう、ですか。ならば、ジルフォード殿はどうなるのです?いつまでも、いつまでも、王宮に閉じ込められた魔物のように暮らせと? サンディア様が後見人となれば怖いものなどないでしょうに。彼女の血は未だに力を持ち、アリオスにとって有益ですよ」
だからこそ厄介なのだ。
彼女が唯の母親で居ることが出来るのならば、この石の城もさほど冷たくないだろうに。
「ジルフォードについては私も考えがある」
「そうですか。それが、よい策となればよいのですがね」
冷めた笑みでそう言うとリブングルはさっと席を立つ。
「先ほどの話は、覚えておいて頂きたい。サンディア様には打診する予定ですので。……ああ、それともう一つ。これは忠告です。王妃様に給仕の真似事など止めさせなさい。王家の品位が下がりますぞ」
眉を吊り上げたルーファを一瞥すらせずに部屋を出て行くと、しんと冷えた沈黙が居座った。
ルーファは手をつけられず冷たくなったお茶をこくりと嚥下すると部屋の隅へと呼びかけた。
「それも頂こう」
視線の先では肩を落とすダリアの姿があった。
「すみませんわ。……私のせいでルーファ様の立場が悪くなってしまうなんて」
ルーファにもお茶を用意したのだろう。
道具の一式を持ち申し訳無さそうに顔を伏せるダリアを手招きすると隣に座らせた。
元々華奢なため力なく頭を垂れていると、消えてしまいそうなほど儚く見える。
いつもは光の弾ける金の髪も今では彼女の輪郭を消してしまうかのようだ。
ルーファはダリアを引き寄せると慰めるように頭を撫でる。そうすることで、己の怒りも凪いでいくようだった。
「ダリアのお茶を飲む栄誉を逃すなんて可哀相な人だ。さぁ、私にも栄光の一杯を入れてもらえないだろうか」
「ええ、もちろん」
金で出来た靴が廊下を弾く。
その甲高い音を合図に侍女たちはさっと端に避け深々と頭を下げ、微動だにしない。
その様子にはっとなった他の者たちも頭を下げたが、リグンブルの視界には入っていないのと同じだった。
己以外誰も動くもののいない廊下を闊歩するリブングルの前にさっと影がさした。
マントにも帽子にも誇らしげに光る百合の紋章はこの国では誰もが知る大貴族の血筋を示す。
そして、腰に差した銀で彩られた剣に描かれたマルスの紋章は、それが王より下賜されたことを如実に表していた。
紋章で武装した彼の行く手を阻むものなどこの国には居ないはずだった。
僅かばかりの来訪者を除けば。
「これは、これはサクヤ殿」
リグンブルは目の前に現れた細身の老人に声をかけた。
腰に巻かれた毛皮に「なんと野蛮な」と叫びたいところをうまくごまかして、微笑んだ。
けれど、サクヤは怪訝な顔をしただけだ。
気安く声をかけてきた人物など記憶に無い。
挨拶に来た貴族たちを逐一覚えているサクヤだが、記憶に無いものはどうやったって蘇らせることはできない。
「どちら様ですか」
「ああ、これは失礼。私、リグンブルと申します。先日は挨拶に行けずすみませんでしたね」
ああ、金杯の。
サクヤの頭の中には目にも眩しい装飾が施された杯の姿が浮んだ。
そして、挨拶を間違えた二人の貴族。
「いいえ、貴方方が忙しいことは承知していますから」
「忙しいのはそちらも同じでしょう?」
意味ありげな言葉にもサクヤは反応を示さない。
それも予想していたのか、リグングルは口の端を吊り上げて続けた。
「星が落ちたとか」
抽象的な言葉だが、空を読む砂漠の民には十分だった。
星のヒトカケラは誰かの運命。
星が落ちるとは、すなわち誰かの運命が終わったことを示している。
互いに探り合う時間は、ほんの一瞬。
先に背を向けたのはリグンブルの方だった。
「では、また」
腹のうちは見せぬまま、何事もなかったかのようにすれ違う。
薄く笑みを貼り付けながらも面倒な相手だと思った。
リグンブルは相手の出方をみるために選んだ手駒のように砂漠の使者たちを軽んじてはいなかった。
戦場での彼等の獰猛さは身にしみて分かっている。どれほどの仲間を奪われたか。豪奢な服に隠れ見えないが、彼の体には残酷な傷口が今も生々しく残っている。
そして彼等は愚かではない。あの苛烈な砂漠を生き抜く強さと知恵を持っている。
それは他者を飲み込むことで手に入れてきたものだ。
気をつけねばあっと言う間にアリオスは飲まれてしまう。
絶対に揺るがない基盤を作る前に己の王は逝ってしまった。
ルーファ王は先王の片鱗を見せながらもまだまだ経験値が少ないのは、先ほど少し痛いところを突いた時の反応でわかる。
少々大人気ないこともした。
反応を見るためとはいえ、何かと話題の王妃の菓子を不意にしたのはもったいないことをしたなとも思う。
足早に廊下を渡るリグンブルの耳に楽しげな声が届く。甲高い、その声は若い侍女のものだろう。
ふいに視線をやった先で数人の侍女に囲まれながらナジュールが笑っていた。
「怖いのはあの王子だ」
彼の部屋に父親の凶報が届いたのは昨晩のはずだ。
リグンブルは貼り付けたような完璧な笑みに寒気さえ覚えた。