第三章:夕闇に映う色12
花が丁度舞い終わる頃、静まり返った廊下には扉を叩く固い音が響いたが応えは返ってこない。
訪ねた相手が中にいることは分かっていたけれど、あまりにも静かな其処からは入ってくるなと無言の圧力が漏れているかのようで、ルルドはそれ以上足を進めることは出来なかった。
彷徨った視線は定まらず、目的もなく廊下を歩き始めた。
今、書庫に行ってもカナン以外は誰も居ないだろう。
花流しなんて女性が好みそうな行事をやっているようだから、きっとセイラもハナも街に出て行ったに違いない。
部屋に戻るのも気が進まず、目に付いた庭へと足を進めてみると、皆同じように刈り上げられた木々が窮屈そうに空を支えていた。
作られた植物の美しさがルルドには理解できなかった。触れてみても、全く自分の知らない物質で構成されているのではないかとさえ思ってしまう。
腰を落ち着けた一角も何処か座りが悪い。誰も居ないだろうと重いため息を付こうとしたとき、葉がわさりと揺れた。
吸い込んだ空気を吐けぬままその方向を見れば翠の瞳とぶつかった。
周りを囲む緑より、直濃い色は驚き、そしてすぐさま普段を取り戻す。
「貴方……」
声を聞いて思い出した、確か王の妹君だ。
名前はテラーナと言っただろうか。
銀の髪をきっちりと結い上げた彼女の後ろには二人の侍女が付き従っており、瞬時に眉を顰めた彼侍女たちを見て、ルルドはわけも分からす安堵した。
おそらくアレがルルドの思い浮かべていたタハルへの対応なのだ。
「失礼します」
何かを言おうと口を開いたテラーナの前を通り過ぎて廊下に戻る。
この城は、迷うほどに広いくせに砂漠で育ったルルドには閉鎖感が付きまとう。
「また迷ったのか?」
背後から聞こえてきた声は笑いを含んでいた。
からりとした笑いは決して不快ではなかったが、今会いたい相手ではない事は明白だった。
何時もいつも、どうして情けない気分の時に出会ってしまうのだろう。
「迷ってなんかない」
振り向きもせずに言えば、ジョゼの笑みは深くなった。
ついと並んで、己より背の低いルルドの顔を覗き込む。
「この前と同じ顔をしてるぞ」
笑われても何故か怒りは湧いてこない。
自分はそんなにも情けない顔を曝しているのだろうかと頬に触れてみた。
頬も指先もどちらも冷たかった。
握ることの出来なかったドアノブもきっと冷たかっただろう。
その反応が拍子抜けだったのか、ジョゼは片方の眉を上げた。
「ナジュール殿がらみか? ちょっとは自立しろよ」
どうせ気の浮き沈みを左右するのはナジュールなのだろうと当たりをつけてみれば、案の定そうだったようでルルドはふいと視線を逸らした。
「そのナジュール殿はどうした? 嬢ちゃんは居ないだろうから書庫じゃないだろうしな」
外にいるのならば話す機会もあるだろう。
そうなればルルドの扱いに慣れたナジュールがこんな状態で放っておくとは思えない。
「部屋か?」
反応がないのは、それが事実であると思ってもいいのだろう。
それにしても珍しい。
今まで昼近くまでナジュールが部屋から出てこなかった事はない。
「何かあったか?」
「タハルで良くないことが起こったんだ」
夜遅く、サクヤがナジュールの部屋を訪ねた事は知っている。
タハルに変事が起こったに違いない。もしかしたら父に何かあったのかもしれない。
「おいおい、そんな事言ってもいいのかよ」
使者がぽろりと自国の立場が悪くなっている事を口にするものじゃない。
ジョゼの言葉には少々手際の悪い弟分をたしなめるような響きがあった。
「隠していたところで、どうせバレルだろう? それなら今ばれたところで関係ない。もともとタハルの立場はすこぶる悪いのだから」
すねた声は子どもっぽくて、感情が全て面に出るルルドは使者としては優秀とはいえないかもしれないが、自国がどう見られているかの判断は正確だった。
「二の王子ってのはどんな奴だ?」
何故、今二の王子なのだ?
見上げたジョゼの表情を見て納得した。
タハルの状況が変わればアリオスもどう対処すべきか考えなければならないのだ。
いつも飄々としているこの男は紛れも無く、この国を支える一つの柱だった。
「ルルダーシェは」
「ルルダーシェ? お前の名前と似てるんだな?」
「ルルドはタハルで一番多い名だ。砂漠で貴重な水を表す言葉だからな。ルルドに慈しみを表すアーシェを足してルルダーシェだ」
この名はタハル王の第二側室となったルルダーシェの母の苦肉の策だった。
初めの王子には太陽の名を、次の王子には水の名を。
それが、タハル王の願いだった。
最初に王子を産んだ第一側室は誇らしげにナジュールと名づけた。
次の王子を産んだ第二側室は、誰でも名乗れるルルドなど名前からして劣ってしまうと、新たな名を考えた。
王の正妃はタハルの主神であるリュオウと決まっているので実質的には存在しない。
その分、側室同士の争いはし烈を極め、慈しむと言う名を貰いながらも、ルルダーシェはナジュールを憎むように教育されていた。
憎むには途方も無く大きな存在だったと気づいたのはいつの頃だろう。
「ルルダーシェは愚かで小さな存在だ。いつも、己の無力を嘆いている」
いつもいつも空回り。
ほんの手助けにもなりはしない。
もし、ほんの少しでも力があったなら、兄の憂いを腫らす事ができたかもしれないのに。
「己の無力さを知っていることはいいことだぞ」
ジョゼはポンとルルドの頭を一度叩くと、己の聞いた質問の答えなど求めていないかのように背を向けて歩き出した。
眉を寄せてこちらを見ているであろうルルドに振り返らないまま手を振って。
「……良くなんてないさ」
呟いた言葉は、何処にも届くことなく冷たい床の上に落ちていった。
ルルドが居る廊下から少し離れた城の中庭はがやがやと騒がしかった。
各地の商人たちがここでも品物を広げ客を呼び入れているためだ。
祭に行くことが出来ない侍女や兵士のために、この日ばかりは許可を貰った商人ならば城に入ることを許されているのだ。
一際人を集めているのはエスタニアから来た商人たちのようだった。
「案外簡単だったね」
ヒイラギは奪った許可証を見つめくすりと笑った。
中庭の隅に品物を並べるふりをしながら、隅々を観察する。
兵士たちはいるけれど、さほど警戒すべきものでもない。
それよりも、問題は此方のほうだ。
「もうちょっと愛想よくしたら?」
表情を変えないサキに、せっかく寄ってきたお客たちも早々と去っていく。
「それを売るのが目的ではないだろう」
確かに、許可証と一緒に奪った品物を売ってやる必要などないけれど。
ヒイラギは珍しく渋い顔をした。
「君ってさ、楽しもうとか思わないの? ちょっと商人の真似ごとやってみようかぁとかさ。このお城素敵〜とか。……無いみたいだね」
よくもまぁ、こんな無表情でとっつきにくい相手と数年も組んだなぁと感心した。
未だに分かり合えただなんて幻想を持つこともないし、相棒としての愛情を持つこともない。もともと互いにそういった感情は希薄だと知っているけれど、時々あまりの冷たさにため息をつきたくなる。
「サキってさ、何が目的で生きてんの。あ。ユザの復讐なんて言わないでよ。あれは一族の意思であってサキや僕の目的ではないんだから」
「ただ在ることが必要だ」
「なにそれ。よく分かんないなぁ。まぁ、いいよ。別にサキの目的なんてどーでもいいし。僕はね夢を見るためだよ。誰かさんが描き損ねたね」
やはり変化に乏しい相棒を放っておいて、ヒイラギは廊下の先に目当ての人を見つけ、口の端を吊り上げた。
「そこの旦那〜。寄っててくださいよ〜」
ぴょんと飛び跳ねながら手を振るうと老人は近づいてきた。
腰に巻いた毛皮がアリオスの住人ではないことを物語っていた。
痩躯をキビキビと動かして近づいてくる老人に兵士や侍女たちは頭を下げ、道を譲り、三人の周りには奇妙な空間が出来上がっていた。
これならば話を聞かれることも無い。
「何故、ここにいる?」
冷たく厳しい声も聞きなれてしまえば、身を震わす効果はありはしなかった。
ヒイラギはけろりと笑うと真実を告げる。
「お城の中見てみたくて、来ちゃった。それに、サクヤ殿がルルダーシェ様を苛めてないか心配だったから」
「人聞きの悪い」
「アナタの愛情は厳しいんだよ。ルルダーシェ様は傷つきやすいんだから気おつけてもらわないとね。使い物にならなくなったら困るでしょ?」
ふぅとため息をついたサクヤにヒイラギはにまりと口元を歪めた。
「それとも、アナタにはその方がいいのかな?」
一瞬だけサクヤの瞳に黒い光りが宿ったが、それはすぐさま消え、何事も無かったかのようにサクヤは二人に背を向けた。
「手塩にかけた王子様。捨てるには惜しくないの?」
揺るがない背中はヒイラギの問いなど跳ね返して去っていった。
「あ〜あせっかく侵入したってのに、もう行っちゃったよサクヤ様。……図星だったのかなぁ」
仰いだ頭上は真っ青で、同じ空の下の饗宴を思ってヒイラギは小さく笑った。
「セイラに早く会いたいなぁ」