第三章:夕闇に映う色7
「サンディアさん〜早く早く」
「こっちだよぅ」
子どもたちに手を引かれて、サンディアは小走りになりながら石畳の上を進む。
ヤガラの孤児院の子どもたちもシルトの祭見たさにタナトスにやってきたのだ。
毎年祭りの時期にはタナトスにある孤児院に数日お世話になることになっている。
子供たちの引率にサンディアも選ばれた。
行き先を聞いて、遠慮していたのだがダリアも是非にと推したので今に至る。
子どもたちに手を引かれながら見る街に怖れていたようなところは何処にもなかった。
城に居た頃に街に下りたとことの無かったサンディアにとって、懐かしくもなく、昔の記憶が蘇ってくる事もない。
あまりの熱気に圧倒されるのと、子どもたちの笑い声に心が凪ぐぐらいだ。
先頭を切っていくのは、何度かタナトスを訪れた事のある年長も子どもたち。
年に一度しか訪れないというのに道を覚えているようで、細い路地も怖れることなくするりと入っていく。
広い路地から外れて、しばらく立つと雑多さが目立つ路地に入り、頭上に見える空の幅が急に減った。
ーこんなところに孤児院があるのかしら
ヤガラの孤児院とはまったく違う。
ヤガラの孤児院は日の燦燦とあたる丘の上に建っていて、頭上いっぱいに広がる空がとても明るかった。
「メイヤーさ〜ん」
路地の突き当りには、細い入り口が開いていた。
薄汚れた建物の前には微笑む老人が居て、手を振る子どもたちに答えている。
「やぁ、良く来たね」
彼の人格を示すように子どもたちが我先にと老人を取り囲む。
頭を撫でられた子どもたちは一様に笑顔となった。
「貴方は……」
顔を上げた老人と目があったとき、サンディアは声を上げた。
見知った顔だった。
老人のほうもサンディアに気づいたようだったか驚きは半分ほども無かったようだ。
わが子を見るような優しい視線を送られて言葉に詰まる。
「メイヤー殿」
直接言葉を交わしたことは無かったけれど、陳情を言いに城を訪れた彼の姿を何度か目にしたことがある。
その頃に比べて随分とほっそりとし、老いは外見に表れているけれど瞳に含まれる優しさは変わらなかった。
今でも、子どもたちのために、力ない者たちのために理解の無い貴族たちに熱弁を奮っているのだろうか。
昔は唯、愚かだと思った。
貴族たちの我が身可愛さは十二分に分かっており、どれほど叫ぼうともそよ風程度の力も持たないと知っていたから。
今では、ただただ頭が下がる。
この子達が生きてこれたのは彼がいたからだ。
「お久しぶりですね。サンディア殿」
あえて様とはつけなかった。
それを厭うていることを瞬時に見抜いたのだ。
「お久しぶりです。……メイヤー殿は。わざわざザクセンから?」
サンディアの時間は十数年前で止まっている。
ようよう動き出した時間も、未だ全てには追いついていない。
彼女の中では今もザクセンの領主はメイヤーなのだ。
「いいえ、私はもうザクセンの領主ではありません。今では、ただのアリオスの民ですよ」
「そんな……」
それならば、理解ある優しい領主を失ったザクセンはどうなったのだろう。
あそこにも大きな孤児院が建っていたはずだ。
「あの子はザクセンの孤児院にいたのですよ」
メイヤーの視線の先では青年が子どもたちに肩車をねだられていた。
「彼は商家に貰われていって、今では立派にお店を継いでいます」
店といっても大して裕福ではないけれど、孤児院に必要なものを寄付してくれている。
「皆強く育ちました」
メイヤーは持てるものすべてを与えてきた。
文字の読み書きは勿論のこと礼儀作法もメイヤーが今までに身につけた知識も。
子どもたちが何処へ行っても生きていけるように。
必要だと言ってもらえるように。
ザクセンの子どもたちの能力の高さは全国に知れわたっていった。
養子として引き取られていった子。修行して職人になる子。
たくさんの子どもたちが大きくなり院を出て行った。
そして必ず戻ってきては、他の子どもたちにたくさんのものを与えていく。
ザクセンに帰るべき場所がなくなっても、今も皆メイヤーの下へと帰ってくる。
その子どもたちが散り散りになった子どもたちの詳細をもたらしてくれるので、さほど悲観はしていなかった。
ザクセンであろうとタナトスであろうとやるべきことに変わりはない。
そう語るメイヤーの瞳に宿る強さは、さらに磨きがかかっているようだった。
子どもたちを見守るサンディアの表情にも同じ強さが宿っている事に彼女自身は気づいていない。
「ジルフォード殿下をお見かけしましたよ」
まだ雪深い季節の事だ。
あの頃もタナトスは浮き足立ち、そわそわと落ち着きがなかった。
ほんの数分だけ顔を見せた王子はメイヤーがたった一度だけ城で見かけた少年の姿からは驚くほど成長していた。
見かけたのは10年も前か。そう思えば納得してしまえるのだが、瞳に浮ぶ心細さは色濃く残っていた。
頼るものとて誰もなく、たった一人路地裏をねぐらに暮らす子どもたち。
それによく似ていた。
哀しさ寂しさ狂おしさ。
そんなものを隠すために子どもたちは怒りか無を纏う。
ジルフォードが選んだのは無の方だとメイヤーに瞬時に分かった。
それがふっと和らいだのは隣に陽光を受けた少女がぴたりと寄り添って微笑んだ時だった。
「よい相手を見つけられましたね」
「ええ。私もそう思いますわ」
「すぐそこですよ」
押し付けでも問いかけでもなく、事実を告げるための言葉には優しさが含まれていた。
貴女の子どもはすぐ其処にいますよと。会いたいと思えば、すぐに会えるほど。
「私は……」
会いたい。会いたい。胸が切実な叫びを上げるのとは反対に、緩やかに誰かが首を振るのだ。今更、会ってどうするというのだ。
重荷にしかならないのに。
己のした仕打ちを忘れたのか。
「ただ名を呼んで抱きしめてあげればいいのですよ」
メイヤーは膝に縋りついてぐずり始めた少女を抱き上げた。
少女は少しでも温もりを得ようと小さな腕をメイヤーの首へと回す。
到底届かない腕の代わりに大きな手のひらが少女の背中をやさしく叩く。
それにあわせて、うつらうつらと瞳を閉じていく少女に「おやすみ。レイ」と告げると少女はふわりと微笑んだ後、全身をメイヤーに預け夢の世界へと旅立った。
「昨夜は興奮しすぎて眠れなかったようですね」
まるで本当の親子のようだ。
その光景を見ながらサンディアのうちに暗い不安が頭をもたげた。
自分は名前すら呼んであげていなかった。
メイヤーもジルフォードという名がどんな意味を持っているかは知っている。
サンディアが口を閉ざしているわけも。
「ただ見つめるだけでもいいのです。其処にいると認めてあげるだけでいいのです」
無を纏う子どもたちは己の存在すらないものとしてしまう。
全てないものとする。
痛みも苦しさも。
小さな体でできる最後の防衛術。
けれど見ないふりをしても全て消え去る事はないのだ。内に凝り固まったものはわが身にずんと降りかかる。
「大丈夫ですよ」
どんな時も譲歩をくれるのは子どもたちのほうだった。
「……そう、でしょうか」
「ええ」
一歩だけ踏み出そうかと勇気を振り絞るサンディアに微笑んで、背中をぽんと押す。
「サンディアさ〜ん。メイヤーさ〜ん。早く」
潤む視線の先では、傾きかけた太陽にこうしてはいられないと騒ぎ始めた子どもたちが大きく手を振っていた。