第三章:夕闇に映う色3
保管庫の受付に立っていた男はどうしたものかと途方にくれた。
ここで二十年も仕事をしているが、こんな困った事態になったのは初めてのことだ。
貸し出すものを聞き、裏方が用意した資料を渡すだけの簡単な仕事だったはずなのに、心臓はバクバクとなり、広い額にはびっしりと汗をかいていた。
元々狭い保管庫の中は、今や息苦しいほど狭く感じられた。
保管庫を利用するものは必ず管理せよとの規則はあったが、王族ならば引き止める事もせず、通してきた。
目の前の人物は素直に通してよいものか。
王族には違いないだろうが、後で問題になったりしないか。
ぐるぐると今まで使っていなかった脳みそがフル回転しているが、通すか通さないかの二者択一さえ出来ないでいる。
その間、目の前に立つ青年はぴくりとも表情を動かさないというのに、ちらりと見上げる角度を変えるたびに瞳の色が変わるのが恐ろしくて目を伏した。
早くしろと怒鳴られたほうが、どれほど楽か。
目の前に紛れもなく国王の署名の入った紙が出された時には、心底安堵した。
これならば通したところで問題が起こっても責任は国王にある。
男は手招きすると、棚のあるほうへ行けと身振り手振りで伝えた。
「ありがとう」
風にように短い謝罪が耳に届き、顔を上げた時には白い姿は書棚の向こうに消えた後だった。
「あれ、あれれれ?」
人がいるはずのない場所に誰かいる。
保管庫の中にいるのは受付の男と自分だけだ。
切るどころか梳かす事さえしていない艶のない髪の間から、ケネットは見知らぬ来訪者を見つめた。
見慣れない容姿に連日の疲れで夢でも見ているのかもしれないと何度も瞬きを繰り返し、頬を抓っても変わりはなかった。
もしかしたら、夢ではなく幽霊だろうか。長い髪の毛も肌も怖いくらい白いからきっとそうなのだろう。
でも、保管庫に幽霊の気を引くものなんてあるだろうか。あるのは地方ごとの台帳ぐらいだ。
「なっ、何してるのかな」
物陰からこっそり覗いてみると、どうやら資料を片っ端から見ていっているようだ。
せっかく並んでいる台帳がバラバラになりはしないか。
そんな思いは杞憂で、取り出された台帳は前と同じ場所にきっちりと戻されていく。
ページを捲る手つきは優しくて、補修しようと思っていた古い台帳もカサリとも音を立てない。
貸し出した資料が折れたり、汚れて返ってくることを嘆いていたケネットには、とても好ましく思えた。
あんなに丁寧に扱ってくれるのだもの。幽霊だっていい幽霊に違いない。
そんな考えをはじき出したケネットは、幽霊を手伝ってやろうと物陰から、のそりと這い出した。
「なっ何を探してるの?」
もし第三者がいたら、お前のほうがよほど幽霊のようだと言ったかもしれない。
手足は枯れ木のように細く長く、長く絡まった髪の毛は顔を隠し膝下までたれている。
貸し出す資料は、受付の男が余所見をしている間にすっと置いてくるから、まともにケネットの姿を見たものはこの数年のうちには居ない。
久しぶりに姿を曝す気恥ずかしさが手伝ってか、言動がぎこちなく幽霊に拍車をかける。
そんな人物に幽霊呼ばわりしたジルフォードが顔を上げると、ケネットはびょんと飛びのいた。
足にバネでもついているのかと疑いたくなる跳躍だった。
ー目めめめっ目が紫だった! ん? あれ? 緑だった? え〜っと青いのも……
ケネットは自分が何を言っているのか分からなくなってきた。
一回の跳躍で物陰に逃げ帰ったケネットは、もう一度幽霊を窺った。
ーあっ緑だ。
鮮烈に目を焼いた紫はなんだったんだろう。
ここには台帳と壁以外の色は無いから、どの色にしてもはっとするほど美しいけれど。
緑色の瞳が、こちらを見ていることに気づいてケネットはへらりと笑った。
「おっおいら、出納係なんだ。よっよかったら、探すのて、手伝うよ?」
ー紫!
一歩近づくたびに瞳の色が変化した。
やっぱり幽霊ってすごいんだ。その喜びを声に出して表してしまいたかったけれど、その前に幽霊が声を出したので止めておいた。
「ザクセン地方について知りたい」
久しぶりに聞く、受付の怒鳴りつけるような声以外の声は耳に心地よかった。
静かでとても澄んだ音だ。
「ザ、ザクセン地方のしっ資料なら、この段からここまでがそうだよ。あっあそこは最近領主様が変わっちゃったんだよね。前の領主様、とてもよい人だったのに……」
そういいながら、ケネットは棚の資料に手をかける。
ちゃんと年代ごとに分かれていて、色分けもされている。
「なぜ、変わった?」
「い、今の領主様はリグンブル様なんだけど……」
十年前の台帳を手に取った。
分厚くずっしりと重い。
貸し出しが多いせいか、補修箇所も多く変色もしている。
一番苦労したけれど、ケネットはここの台帳が一番好きだ。
「前の領主様は、メイヤー様っていうんだ」
差し出された台帳を受け取り、中を開くとびっちりと文字が書き込まれている。
足りなくなったのか紙を足した跡もあり、他のものにはなかった手紙やメイヤーに贈られたお礼状といったものを含まれている。
「孤児院を立てたりね、民の生活向上のために尽力したり、とても素晴らしい人だったんだよ」
実際に会ったことはないけれど、その文字からは人柄が滲み出してくるようだった。
毎年かかれる台帳は一年も欠かすことなくマーク・メイヤー自身が書いている。
ケネットには筆跡を見ればすぐに分かった。
伸びやかで優しげで、けれど怒りを含んだ内容には相応に怒りを滲まして。
城に届く嘆願も彼の筆跡だった。
「でもね、メイヤー様はお年だし、子どもは女の子だけみたいだったから十年前の戦には出なかったんだよ。領地に居たのもほとんどが子どもとか、お年寄りだったみたいだし」
その年を境に台帳の厚さはめっきり減った。
十年分をあわせても、メイヤーの書いた一冊に及ばないだろう。
淡々と感情の含まれない文字が作物の取れだが、人口の変動。そんなものだけを伝えていく。
「そのせいで、メイヤー様は軟弱者呼ばわりされたんだ。……戦果を立てたリグンブル様に領地を取られちゃったんだよ」
もともとザクセンは街道に沿った豊かな土地だった。
開発すれば、もっと豊かに主要な土地になると思っている貴族は一人ではなかった。
メイヤーも何度も打診を受けたが諾とは言わなかった。
弱者を放っておいて豊かさや富を追い求めた結果が、他ならぬ都だと知っていたからだ。
年老いて戦いに出れなくなったことをこれ幸いと、貴族たちは結託して叫んだ。領主の交代をと。
「……剣を振り回すだけが戦いじゃないのにね」
ケネットは労わるように背表紙を撫でた。それが、メイヤーの背中でもあるかのように優しく。
分厚い台帳はメイヤーの戦いの記録でもあった。
暴れ狂う川をどうにか治めようと奮闘し、凶作に流行り病。
全てに尽力し、時に勝利をおさめ、涙を流したこともある。
「他に知りたいことがあったら、なんでも聞いて。此処にある資料にかいてある事なら教えて上げれるよ」
ここにいるようになって、一歩も外の世界には出ていない。
けれどこの国のことを誰よりも知っている自信はあった。
王様だって五元帥だって、ここの台帳全てに目を通したことはないはずだから。
ケネットが知るのは一拍おきの歴史だけれど、組み立ててみれば未来のこともほんの少しだけ透かして見ることが出来る。
「ありがとう」
何を言われたのか分からなかった。
この薄暗い保管庫に住み着くようになって一度として聞いていない言葉。賛辞を受け取るのはいつも受付の役目だった。
出納係はもくもくと受付が頼まれたリストをもとに資料を出してくるのが仕事だ。
いくら頑張っても、人前に顔を曝す事などない。だから言葉の意味が瞬時には伝わらなかった。
じわりと昔の記憶が蘇ってきて体が熱を持つ。心臓が必要以上に高くなり、頬が熱い。
耳までじわっと熱くなり、それが嬉しいという気持ちゆえだと気づいたときには同じ言葉を言っていた。
「ありがとう。お、おいらケネットって言うんだ」
もそもそと前髪をかき分けてケネットは顔を出した。
久しぶりに直接見る部屋の明かりは眩しくて細めた視線の先で、幽霊はちょっと困っていた。
ありがとうにありがとうを返すのは可笑しかっただろうか。
「“ありがとう”嬉しかったから」
嬉しげに口元を綻ばすとケネットは幼く見える。
「……ジルフォード」
小さく告げられたのが名前だと知って、ケネットは更に表情を緩めた。
なんてぴったりの名前だろう。
今は、月の姿はないけれど突然現れた彼は、“ありがとう”をくれたから。
「ジルフォード。優しい叶え人の名前だね」
びょんと跳ねると重たげな髪も浮き上がる。
彼は幽霊ではなくて、満月の晩に現れる夢幻の存在だったのだ。
「ありがとうのお礼にいい事を教えてあげる。メイヤー様はね今、タナトスに住んでいるんだよ。ザクセン地方のこと知りたいなら、メイヤー様に聞くのが一番良いかもしれないね」
お礼を言って帰っていくジルフォードに背に手を振って、ケネットは何度もその名を繰り返した。
「ジルフォード。ジルフォード。ジルフォード……ん〜?ジルフォード? 確か王子様の名前もジルフォード……」
言葉少なに綴られた王子の誕生。
確か髪の色は白かった。瞳の色は……
「どうしよう! おいら王子様に“ありがとう”って言われちゃった」
王族ならば保管庫には容易に入ることが出来る。
嬉しさと驚きとでケネットは暫く保管庫の中を飛び跳ねまわった。