第三章:夕闇に映う色2
クロエの足取りは軽かった。
城の中ならば絶対にしないのだが、大通りに位置する屋根へと続く階段を二段飛ばしで駆け上がり、一番高い位置までくると、くるりと一回転した。
今日から祭が始まる。
侍女たちも交代で休みを貰う事ができるのだ。
クロエは無理を言って初めの日に休みを貰った。祭の初日へ家に帰る事が出来るように。
侍女のそれぞれには城の中に部屋を与えられており、衣食も十分に与えられているので頻繁に街へ下りてくる事はない。
おおっぴらに街に下りる事が出来るのは年に数度の祭のときくらいだ。
窮屈な侍女服を脱ぎさって開放的な気分だった。
軽い足取りのまま屋根の上を伝って、居住区まで来て、家の前に立つと明るさは少し沈んだ。小さな小さな家だ。
キッチンと小さな部屋が2つあるだけの粗末な家だった。
表街で場所は悪くないけれど、地方領主だった頃の生活には程遠い。
クロエは首を振った。
せっかく久しぶりに会えるというのに暗い顔を見せるわけにはいかないのだ。
扉を叩く時、いつも緊張する。
彼らは今も自分を歓迎してくれるだろうか。
「ただいま」
ドキドキしながら扉を開けると、柔らかな笑顔が出迎えてくれた。
灰色になった髪を丁寧に撫で付けた老夫婦。
洗いざらしの服は清潔だけれど、随分昔の型だった。
「「お帰り。クロエ」」
「ただいま。父様。母様」
両側からぎゅっと抱きしめられてクロエは泣き出したいほど幸せだった。
同じほど強く抱きしめ返して何度もただいまと繰り返す。
泣くのは懸命に堪えた。きっととても心配してくれるから。
抱擁が終わると席へと招かれて、暖かいお茶が注がれた。家に似合わぬほど高級なお茶だ。昔、値段も知らなかったクロエがおいしいといってしまったから、クロエが帰ってくる日にあわせて彼らは用意してくれているのだ。
部屋の中はとても質素で人数分の食器と机と椅子。そんなものぐらいしかなかった。
「はい。お給料もらったの」
クロエは大事に持っていた皮袋を差し出した。半年分のお給料。さほど多くないけれど、この家にとっては唯一の収入源だ。
「クロエ、自分のために使ってもいいんだよ」
髪飾り一つつけていないクロエの姿を見てカーサは瞳を伏せた。
クロエも年頃だというのに苦労ばかりかけてしまっている。
「気にしないで。母様」
城ではお腹いっぱいにご飯を食べる事ができるし、侍女服は支給されるから困る事もない。
孤児だった頃を思えば、なんて幸せなことだろう。
今回渡したお金も最低限だけを残して、全て使われてしまうことも知っている。
年に一度の春告げの祭だ。
彼らは楽しみにしている子どもたちのために、おしげもなく使ってしまうに違いない。
アリオスには孤児が多い。このタナトスとて例外ではなかった。
裏街には孤児が溢れ陰惨な時代があった。
ルーファ王になってから公の孤児院もできたが、とてもではないが全てを補う事はできないのだ。
クロエの両親はあぶれた子どもたちに教育を衣服を食料を与えていた。
彼らのやることは地方領主であったときから変わることがない。
けれど、権力を失ってから出来る事は格段に減ったと思う。
いくら頑張ってもクロエのわずかばかりの給料では、昔ほどたくさんの施しを与える事はできない。
正しい事をやっているのに、どうしてひどい目にあうのだろう。
孤児を救うことよりも戦果を立てるほうが重要なんだろうか。
彼らには養子に取ったクロエ以外子はおらず、年老いたマークは戦場に立てない。
戦果を立てなかった。それだけで領地を追われ、倒した敵の数ばかりを誇るブルングルと名乗る貴族に取って代わられてしまったのだ。
せっかくうまくいっていた孤児院も、潰されたと聞く。
もしも、自分が男で戦場に立つ事ができたら何か変わっていただろうか。
叶うはずのない“もしも”は今も増え続けている。
「クロエ?」
表情の沈んだ娘のことを気にしてカーサがクロエの顔を覗きこんだ。
心配そうに揺れる瞳が嬉しくて、何も出来ない自分が悔しかった。
「子どもたちのお土産は何がいいかと思って。 やっぱりシルトの砂糖菓子かな?」
「そうねぇ。皆好きだものねぇ」
ありえない奇跡を願うより、手の届きそうな“もしも”を選んだ。
けれど、今やそれも気持ちが折れてしまいそうだ。
ジルフォードの付の侍女頭になれれば、もっと生活は豊かになりクロエという人物の発言力も増してくる。
いつか、王にこの惨状を直接訴える事もできるだろう。
それなのに、あれほど固く決意したというのにジルフォードに近づくのが怖くなってきた。
利用するのが嫌なのだ。
「クロエ、侍女が嫌ならば止めても良いんだよ? お前の好きな道を進めばいいのだから」
暖かく大きな手が背中を叩く。
彼らの前では今でも小さな子どものようだとクロエは思う。
「ううん。侍女の仕事は好きよ」
「そうかい?」
「そうよ。お城の中はとても綺麗だし、侍女仲間たちは優しいし……お友達になりたい人も出来たわ」
「まぁ、良かったわ」
カーサは、ふわりと綻んだ。
クロエは人に嫌われるような子ではなかったけれど、友の話は一度も聞いたことがなかったからだ。孤児だという負い目があるのか、どこか一線を引いて人と接する子だったから、彼女の言葉がとても嬉しかった。
「そろそろ行こうか。子どもたちが待ってるよ」
二人の後に続きながら、クロエは自分の言った言葉を反芻していた。
友達。
ああ、そうか。自分はジルフォードと友達になりたいのだ。
利用するとか、されるとかそんな関係でなく話をしてみたかったのだ。
納得してしまえば、その事実はすとんと自分の中に落ちてきて、ありえない“もしも”が増えたことに気がついた。