序章2
世界は夜に包まれていた。
月すら姿を隠した残酷な世界では、ただビョウビョウと吹きすさぶ風の音ばかりする。
夜の闇より、なお濃い影に包まれた絶壁の隙間に入り込んだ風が、亡者の鳴き声のごとく辺りに木霊した。
四方から迫り来る怖ろしげな声は旅人を恐怖へと誘い、本当に恐れるべき物を隠してしまう。
今宵の犠牲者は唯二人。
すでに、気でも振れたのか、この暗がりに明かり一つ持っていない。
風の音に紛れ、獣の声がする。
ぐるぐると喉を鳴らし、これから起こる宴に舌なめずりする音だ。
合図が下るのを、今か今かと待ちわびる。
ぎりぎりまで、張り詰めた緊張は獲物によってぷつりと絶たれた。
「やぁっと、会えるね」
闇夜を切り裂いて響くのは、明るく歓喜に満ちた声だった。
ちょっとばかりの舌足らずさが、その場に似合わぬ可愛らしさをかもし出す。
けれど、血に飢えた獣にそんなものが通じるはずもなく、声が終わるのが合図とばかりに鋭い爪が地を削る。
五つの不吉な影が宙を飛ぶ。
剛毛におおわれた体は固く、むき出しの爪も牙も一掻きで人間を死に至らしめるのは簡単なほど鋭かった。
「ぼくらの、おひぃさま。素敵な人だといいねぇ」
次の瞬間、いくつかの絶叫が響くと重たいものが地に落ちる音がした。
苦しげに砂をかく音と外に漏れない悲鳴が重なり合う。
片肺だけつぶされた獣たちが、逃げ去ることも出来ずにあえいでいるのだ。
「うふふ。思わず殺したくなるような素敵な人だったら、どうしよう〜。ああ、でもぉそんな人ならぜひ会いたいしぃ。ねぇ、困っちゃうね」
賛同は返ってこなかった。
もう一人の視線は、片肺を奪われた獣たちに向けられていた。
互いの姿も確認できないような闇の中、視線は違うことなく獣の姿を舐めた後、今しがた一刀のもと五つの脅威を振り払った人物に向った。
「お前は、どうして無益なことを好むのか」
なぜ、わざと生かす必要があるのか。
揺るぐことなどなさそうな固い声は、そう言っている様にも聞こえた。
空気を裂く、小さな音が連続で響くとあえぎはぴたりと止んだ。
「だって、ぼくはユザだもん」
血の匂いを纏って闇が哂った。
「君だって、そうだろう?」
さくりと砂を踏みしめれば、簡単にくるぶしまで埋まってしまう。
半時も放置していれば、すべての物が砂に覆われてしまうだろう。
問いの答えも放置して先に進む相方に、慌てて駆け寄り追い越した。
「ねぇ、どんな人だと思う?」
「計画に支障がなければどんな人物でも関係ない」
足の長さが全く違うので、小走りをしていないとあっという間に追いつかれてしまう。
後ろ向きで砂の上を走るという芸当を少年は、なんなくやってのけた。
「むぅ。前から思ってたんだけど、君って冷たいぞ。この冷酷人間め。薄情人間め! ああ! ユザにぴったりじゃないか……」
自分の言葉に落ち込んでしまった少年は、砂の上に膝をつく。
さめざめと泣きまねまでしていたのだが、相方の足が自分の体を越えるところに来ると、立ち上がり走り出す。
「ぼくが先に会うんだからね!」
どちらの脳裏にも、もはや息絶えた獣のことなど、一欠けらも残ってはいなかった。