第三章:夕闇に映う色
空は白み、やっと街も起きようかという時間帯。
静けさに満ちた空間を壊さぬように、音もなくジルフォードは進んだ。
石畳も廊下の床も彼の存在など知らぬといったようにわずかばかりの音も立てない。
その朝、ジルフォードの存在を示すために初めて鳴ったのは重厚な樫の扉だった。
ゆっくりとしたノックの後「入れ」と普段どおりのルーファの声がした。
このような朝方でさえも誰かが訪ねてくる事になれているようだった。
白い指先が、銀で飾られたドアノブを握るのをしばし戸惑い、一拍の後、決意を示すように強く握られた。
扉を開ければ、すでに身支度を整えた王は机に着いて高く積まれた書類に目を通しているところだった。
いったい何時から仕事を始めているのか。
昨夜も随分と遅くまで執務室には明かりがついたままだった。
ふっと起こった風がルーファの前髪を揺らし、彼の視線を上げさせた。
ルーファの表情に疲れの色は微塵もない。
「ジルフォード」
部屋を訪ねてきた人物にルーファは驚きを露にしたが、すぐさま笑顔となり中へと導いた。
ジルフォードのほうから出むいてくるなど初めてのことだ。
再三呼びつけてやっと来るのが常だった。それも年に一、二度のことだ。
いつも扉をくぐるとき、見えない囲いでもあるかのようにジルフォードの足取りは不安定に見える。
本当に入っていいのかと怖れを抱いているように。
それが少し寂しい。
部屋の中央で止まったジルフォードとルーファまでの距離は遠い。
もう少し前へ来いと手招きすれば、おずおずとほんの数歩だけジルフォードは前進した。
まるで臆病な野生動物を手なずけようとしているようだ。
「どうした。私に頼みごとでもあるのか?」
それは願望でもあった。
小さく頷く姿に更に驚きが募る。
頼みごとをされたことなど一度としてない。
「保管庫に入る許可が欲しい」
「保管庫?」
地方の台帳ばかりがあるそこに何の用があるのだろう。
確かに其処を利用するものは厳しく管理されており、入るにはアリオスの紋章を持ったものに許可を貰う必要がある。
すなわち、王族や元帥、其処を管理する役職のものなのだ。
ジルフォードもマルスを表すカラスの彫り込まれた印章を持っているはずだった。
「私が許可を出さなくてもお前なら入れるはずだが。印章を失くしたわけではないのだろう?」
ジルフォードの手のひらの上で、一度も使われたことの無い印章がころりと転がった。
それはインクをつけた痕すらなく、美しい乳白色を保っている。
それを見つめるジリフォードの瞳はその価値を全く認めていないようだった。
時に五元帥の決定さえ覆す事ができるほどの力を持つものだというのに、己の名前が彫りこまれているだけで路上の石ころほどの力も認めていない。
その様子に苦く笑うと、一番上の引き出しに入っていた許可証を一枚取り出した。
「いいだろう。許可を出そう」
ルーファは右手の中指につけた指輪の表面にインクをつけると、紙に印を押し、署名をほどこした。
ジルフォードは差し出された許可証をしばし見つめながら、ゆっくりと取った。
「ありがとう」その言葉を聞いてルーファが浮かべたのは、優しい笑みだった。
「それで、何をしにいくんだ?」
「できる事をしに」
「そうか」
答えは抽象的で曖昧だったが、深くは問うまい。
弟なりに掴んだ道を見守るのが一番良いと思うから。
「ジルフォード」
今日から始まる春告げの祭は、新しい季節を祝うのと同時に決意を立てる時でもある。
「今、やりたいことは何かあるのか?」
出来る事をしに行く弟のやりたいこととはなんだろうか。
国全体を揺るがす事もできるジルフォードの願いは。
「セイと街に行く」
「そうか」
なんて他愛のない願い。ただ伴って門を出ればいいだけの話しだ。
けれど、城に押し込められてから一度として外に出たことのないジルフォードにとっては途方もなく大きな願いに違いない。
「ナジュール殿に先を越されてしまったな」
昨日の一連の騒動はルーファの耳にも入っていた。
行き先も告げずに勝手に城を出るのはいただけないが、あまりにも楽しそうに街の様子を語るセイラの姿を見てしまえばお小言を言う気も消えてしまう。
「祭の二日目にはシルトの花を空からまくのだ。中には花弁が多いものが混じっていて、それを取る事ができれば、幸せでいれるらしいぞ。セイラ殿と行くといい」
祭の一番の見せ場は最終日の春乙女の舞だが、一番人気といえば二日目の花流しの行事だろう。通常五枚の花弁を持つシルトだが、中には六枚のものもある。
ルーファもダリアにねだられていった事があるのだが、無数の花が舞い散る光景は圧巻だった。
ルーファは小さく頷いたジルフォードに特別な場所を教えると、笑みを浮かべながら明日一日ナジュールを城に足止めする計画をはじき出した。