第二章:白き花の告げるもの15
ナジュールと完全にはぐれてしまった。
子どもたちにねだられるままに話をして、気づいたときにはナジュールの姿は何処にもなかった。
念のため、石舞台の広場まで戻ってたのだがそこにも姿はない。
どうやら一騒動起こして、広場から伸びる真ん中の道を進んだと聞きつけるとセイラも後を追ったのだが、いつのまにか裏街に入ってしまったようだ。
それまで、それなりに整然としていた路地が、いきなり半分ほどの幅になり、ぐにゃぐにゃと曲がりくねり始めた。
どこか埃っぽくて、薄暗い。
ケイトが迷路のようなものだと言っていたが、本当に終わりのない迷路の中に迷い込んだようだ。
途中で引き返してみても、もう一度同じ場所に戻れない。
頭上を振り仰げば、青い空が見えることだけが頼りだ。
何処までも続く茶の石畳。
視界を遮るように窓から窓へとかけられた洗濯物たちに思考能力を奪われる。
早くここから出なければと思うのに、どちらに行けばいいのか見当もつかない。生憎、ここは表街のように屋根から屋根へと通路が繋がっていないため上からと脱出口を探す事もできず、ひたすら歩き続けている。
ナジュールはどこへ行ってしまったのだろう。
今更ながら、迷子になったらそこを動かない事とハナの声が聞こえてくる。
思い出すのが遅すぎた。
生来楽天家のセイラは、こんな機会もうないかもと、ぐるりぐるりろ視線をめぐらせながら歩いていると、固くて大きなものにぶつかった。
「ん?」
振り仰いで見ると小山のようなものに手足がついている。
なんだろうと思っているうちに、それはもそりと動き出したのだ。
それは緩慢に起き上がると、小さな黒い瞳でセイラを探し出した。
セイラの2倍の身長がありそうな青年だ。
丈が足りなかったのだろう。つぎはぎだらけのズボンに覆われた足を伸ばして立ち上がると、見上げるのに首が痛いほどだ。
適当に切ったような髪は気ままに天を突き、さらに青年を大きく見せていた。
「おっ」
おっきいと続けようと思ったのだが、セイラが口を開いた瞬間、そこから恐ろしいものでも飛び出すと思っているのか、その人物は、大きな手のひらで顔を覆い、物陰へと隠れようとした。
しかし、大きな体はいくら縮こまっても丸見えだったし、積み上げられていた荷物が盛大な音を立てて崩れていった。
もうもうと立ち上る砂埃の向こうでも、その青年の影はしっかりと見える。
「何やってんだい!」
怒号が飛んだ。
音を聞きつけ、建物から出てきた老女がキンキンと響く声で怒鳴りつけ、その身を支える杖で叩きつける。
「何の役にも立たないくせに、仕事ばかり増やすんだね! このクズは!」
煙の向こうで痛そうな音が二度響いた。
「わっ私が悪いんだ。驚かせたから」
その声に老女は初めて、セイラに気づいたようだ。
じろりと睨み付けるとふんと鼻を鳴らす。
「お前さんみたいな娘っこに驚くなんて、やっぱり唯のクズじゃないか。ほれ、ちんたらすん
じゃないよ。さっさと拾いな。このノロマ。あほたれ」
老女は思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけた。
大きな青年は母親から叱責におびえる子どものように小さく小さくなろうと身を屈めていた。
「ちょっと待ってよ。そんな扱いひどいでしょ」
振り上げられた杖の切っ先を掴んでセイラは叫んだ。
「何が悪いのさ! 悪さをしたら殴られるもんさ。それともクズって呼ぶことかい? クズをクズって言って何が悪いのさ。もともとこいつに名前なんてないんだからね」
「彼は何も悪いことなんてしていないんだから、殴られるのはおかしいでしょ。彼はクズじゃないから、そう呼ぶのはおかしい」
騒ぎを聞きつけて近所の人たちがわらわらと建物から出てきたが騒ぎの元を知ると、ああまたか、そんな表情を浮かべて帰っていく。
老女もセイラの剣幕に押されたのか、もう一度鼻を鳴らすと「さっさと片付けな」と怒鳴って去っていく。
取り残されたセイラと青年の間には不思議な沈黙が居座った。
こちらを窺うようにしているのが分かるのだが、そちらを向くと目を背けられてしまうのだ。
「私、セイラ」
青年はそわそわとしている。
もしかしたら本当に彼には告げる名がないのかもしれない。
「トッドっていうのは、大樹の神様なんだ。命を司る神様なんだよ。」
小さな目がきょろりとセイラみる。
「もし、君が嫌じゃなかったら、君の事トッドって呼ぶ」
「トッ……ド」
長らく声を出していなかったのかもしれない。
声はかすれ、聞き取りづらかったら確かにそう言ったのだ。
「そう。トッド」
「トッド」
青年の口元がふるりと揺れる。
笑みには遠く、けれど彼なりの精一杯の感情の表し方だったのかもしれない。
「セイラ」
大きな指がセイラを指差した。
「そう。セイラ」
トッドはとてもゆっくりと話した。
大樹の葉を風が揺らしたときのように心地よい音で。
話は尽きなかったが、路地を渡る風は少々冷たきなってきた。
「そうだ。お城まではどう行けばいいか教えてくれない?」
ナジュールはもう城に帰ってしまったかもしれないし、探すのならば人手が多いほうがいい。
セイラもとりあえず裏街からは出ておきたかった。
気づけばハナに何も言わずに出てきてしまったのだ。捜索隊が編成される前に帰らなくては。
「に、二本目の路地を右に曲がったら、大通りに出る……」
「なんだ。結構近いところにいたんだね」
表街にまで出る事が出来れば、なんとか城まではたどり着けるだろう。
崩してしまった荷物も綺麗に積み重ねたし、空は夕暮れの態をなしつつある。
そろそろ帰ろう。
「ありがとう。トッド」
視線を彷徨わすトッドにまたねと手を振れば、おずおずと振り返してくれた。
新しい友人が出来た嬉しさに足取りは軽く、石畳を跳ねる音も楽しげだ。
そのままの勢いで、二本目の路地を曲がれば見知った顔がセイラを出迎えた。
切れ長の目は少々冷たさを与え、まっすぐの黒髪が鋭さを与えている。
今日は結われていない髪がセイラが飛び込んだ勢いで起こった風にふっと揺れて再び色のない頬を彩った。
「カイザー」
見上げた青年は二度ほど城の中で会った事がある。
「どうしてここにいるの?」
「貴女を探しに」
短い答えにはっとする。もう捜索隊が組織されてしまったのだろうか。
「ジョゼ将軍がルルド殿を見つけまして、貴女方が街に下りたことが分かりました。まだ城のほうへは伝わっていないでしょう」
時間の問題であることは伝えなかった。
「街に下りるなとは言いませんが、誰かに一言伝えていただきたいものです」
「はい」
淡々と紡がれる苦情にセイラは神妙に頷いた。
「ルルドは見つかったんだね。よかった。……ナジュール殿ともはぐれちゃったんだけど」
「あの方ならば大丈夫でしょう」
中々に目立つ青年だ。見つけようとすればさほど難しい事ではない。石舞台の広場での大立ち回りの情報も得ているし、居るとするならば其処からそう遠くない場所に居るはずだ。
「とりあえず、ジョゼ将軍と合流しましょう」
ジョゼは表通りに面した店でルルドと共に待っていることになっている。
流れるように進むカイザーの後ろをひょこりとセイラが続く。
色々気になるものが溢れてはいるのだが、カイザーを見失わないように歩くのは中々の重労働だった。
今日は前夜祭。
どの通りも昼間の賑わいを上回るほどの熱気が立ち込めており、遅くなればなるほど人も増え行動がしづらくなってくる。
大通りへと続く路地では一歩進むごとに人にぶつかってしまう有様だった。
「あっ!」
頭につけてもらっていた魔除けの守りがすれ違う人の服に引っかかり、カンッと高い音を立てて石畳の上に落ちた。
慌てて拾おうとしても人の流れに押され、中々手が届かない。
あとちょっと。懸命に伸ばした手の先で銀に輝く球体は誰かの指先に捕らえられた。
「はい。お守りは落としちゃダメだよ」
にこやかに落し物を拾ってくれた少年はセイラに負けぬほど鮮やかな色彩を着込んでいた。
可愛らしい笑みにつられ、セイラもへろりと微笑んだ。
「ありがとう」
「どーいたしまして」
バイバイ。カイザーに急かされていくセイラに手を振りながら少年は笑みを深くした。
セイラの姿が人に紛れて見えなくなると、笑みは獰猛なものに変わった。
「うふふ。よかった。ルカにそっくり」
外見は合格だ。
後は力量と内面。
今確かめたくてうずうずするけれど、いっぺんに知ってしまうのも後が面白くない。
贈り物のリボンは一つずつゆっくり解くのが楽しいのだ。
「またね。ぼくらのおひぃさま」
ヒイラギはそれは楽しげに微笑んだ。