序章
春の気配が濃くなってきても、まだ宵には体の縮むような寒さが残っており、暖炉には小さなな炎が踊っていた。炎は向かいに座る老人の苦悩を浮き彫りにしようと、その面に深い影をつけた。
「タハルの若造が?」
老人の言葉に、それこそ全身、影のように黒い装束でまとめた男が、壁に体を預けたまま訪ねた。
「ああ、シルトの祭に来るそうだ。この間の式に出れなかったからと。国王の代理としてな」
老人の名はハマナ・ローランド。アリオスにとって最もすごしやすい時期が来るというのに、彼の表情は固い。ハマナは単眼鏡を外すと、目頭を押さえ、深く息をついた。
アリオスの城の中で、一番高齢なハマナには暇な時が無い。
二人を忙しなく見ているモーズ・シェリンは着膨れして、普段の二倍ほどになっていた。骨と皮しかないような細い彼には、宵の寒さがこたえるのだ。
「代理ねぇ。そろそろタハル王も危ないか」
黒い男ーエンは軽い調子で言った。
数年前からタハル王の調子が悪いことは伝わってきていたのだ。今更、騒ぎ立てることでもない。
タハル王には二人の王子がいる。王子はあまり仲が良くないらしい。本人同士がというよりも、それぞれの後ろについているおえらいがたが。
今回来るのは、一の王子。
名をナジュールというが、ここにいる誰も会ったことがない。
アリオスとタハルの間にあるローラ山脈は互いの行き来を困難にしているのだ。
「今のうちに、対外政策を固めておこうって魂胆か」
それとも、弟に対するけん制か。
どちらにしても面倒なことになりそうだと、三者それぞれのため息をついた。
アリオスに友好的な今の王が倒れるとなると、次の王は誰なのか見極める必要がある。
ササン大陸の歴史で見ると、両国が友好的な状態を保っていたのはごく僅かだ。
「最近、ジキルドのばぁさまの話もとんと聞かねぇな。死んじまったか」
魔女だとされているジキルドの女王も外に出てこなくなって久しい。
もともと常宵の森にぐるりと周りを囲まれたジキルドは秘密主義の国だったが。
「うちの先代にタハル王、それにばぁさま。……ピンシャンしてんのは、リューデリスクだけか」
「リューデリスクは元気そうだが、もともと政治に対する興味は薄いだろう? 今、事実上エスタニアを仕切っているのは、宰相殿とユリザ王女じゃないのかい」
ぼそりというシェリンの言葉にハマナも頷いた。
「アキナスか」
その一言で、エンがエスタニアの宰相、アキナス・ユゴをどう思っているのか分るほど苦々しい声だった。
「エスタニアもそろそろ、新しい王を迎える時が来たんだろうよ」
一斉に代替わりが始まる。
「大陸に新しい時代が来るということか」
月のめぐるのはなんと早いことか。先ほどまで戦いあぐね、やっと新しいアリオスを築いたと思ったのに、手に入れた平穏は、さらに大きなうねりへと呑みこまれていく。
「せいぜい、取り残されんようにしたいものだな」
静まり返った部屋にドアを叩く音が響く。
「何だ」
誰も近づけるなと言っておいたので、自然と声が強くなる。瞳に浮かぶ険は来訪者の姿を認めると、ふっと消えた。
薄暗い廊下でも、僅かな光を得てその人物の髪は輝いた。
銀の煌きは、この国の王のものだ。
「これは、これは、ルーファ王」
「よしてくれ。エン。貴方に頭を下げられるほど、偉くなったつもりは無いのでね」
慇懃な礼がわざとだと知っているので、ルーファの調子も軽い。
「どうか、なされましたか?」
立ち上がりかける、ハマナを制してルーファは封筒を三人の前に掲げると少々困ったように微笑んだ。
「このようなものが届いた」
その封筒には、これからのことを予見するかのように、不気味に笑う髑髏の横顔が刻印されていた。