第二章:白き花の告げるもの5
「結局、いつもと同じですのね」
ハナはうんざりとばかりにため息をついた。
憔悴して帰ってくるであろうセイラのためにお茶を用意していたハナの耳に聞こえてきたのは、予想外に楽しげなセイラの鼻歌だった。
セイラがジルフォードを呼ぶ声がしたため、久しぶりに四人でゆっくりとお茶を飲めると思って扉を開けると、余分なものが二人付いて来ていたのだ。
廊下でナジュールに呼び止められ、そこにルルドが加わった結果のようだ。
ケイトの姿は見えなかったが、彼一人いなくても、部屋の騒がしさには変わりない。
むしろ見張り役もとい仲介役がいない分、カナンの部屋はにぎやかだ。
「お前、愛想が無い上に口答えばかりだな」
深いため息を聞きつけたルルドが、ふんと鼻を鳴らして言ったが、ハナだとて負けてはいない。
きりりと眉尻をあげると、席に着いているために自分より低い位置にいるルルドを冷たい瞳で見下ろした。
「貴方に愛想を振りまく必要がありまして?」
二対の黒い瞳がぶつかり合って火花を散らすが、今日は生憎間に入ってくれるケイトがいないのだ。
彼がいなくて、一番の問題はハナとルルドが険悪さを増す事だ。
ぴりっと緊張した空気を一気に瓦解させたのはナジュールの感極まった声だった。
「すばらしい!」
また、セイラとの話で彼なりの素晴らしさを見出したのかとちらりと視線をやってハナは固まった。
「なっ!」
これでもかというほどハナの眉はつりあがり、口の端がひくりと揺れた。
その今にも爆発しそうなハナの様子にルルドも後ろを窺ってぴしりと止まった。
「!」
セイラが困り顔で黒い剛毛に埋もれている。
音がしそうな勢いで二人を引き剥がすと、ハナはセイラを背中へと隠した。
「夫ある女性になんてことなさるんですか!」
キンと高い声が木霊したが、ナジュールは不当な扱いに不平をもらした。
「喜びを共有していたのだ」
「だっ、抱きつくなんて。喜びの共有とやらは他の方法でなさってください!」
「ハナ殿は少々、神経質すぎるな。タハル人は感情の表現が大らかなのだ」
「貴方は無神経すぎます!」
最初こそ、隣国の王子だと慎ましく対処をしていたのだが、彼の奔放さにハナが業を煮やしたのは出会ってから、さほど時間が経っていないときだった。
外面と全く違うのも怒りをうむ。
侍女仲間が「ナジュール様素敵よね」そんな会話をするたびに絶叫したくなるものだ。
「お前こそ、ナジュールになんてことする!」
ルルドが無理やり引き離すと言う不敬を働いたハナに詰め寄って、毎度の事ながら事態は悪化するのだ。
ひとしきり、一歩も引かない口喧嘩をした後には、二人の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
不毛さに気づいて、身を引くのはいつもハナの方が先だ。
よくも口が回るものだと感心しているセイラ見て、涙腺が緩むのもいつもの事。
「セイラ様もセイラ様ですわぁ〜……うぅ」
泣き縋るハナの背を撫でながら、肩をすくめて見せる。
夫がある女性云々の話が分からないわけではないのだが……なんとなく犬に懐かれているような感じがするのだ。
彼らが身にまとう毛皮のせいかもしれないが。
ルルドなど、母親を取られないようにキャンキャンと鳴く子犬のようだ。
懸命なことに口には出さなかったが。
「ひどいと思わんか。ジルフォード殿。ハナ殿はあのように縋るくせに」
なんとも答えようの無い言葉を吐きつつ、ナジュールは子どものように頬を膨らます。
立派な青年でありながら、その動作が奇妙に映らないのは彼の魅力かもしれないが、外面を知っているものにとればハナと同じ言葉を吐くかもしれない。
「……絶対詐欺ですわ。騙されてはいけませんよ。セイラ様」
他の侍女たちに見せる姿とはあまりに違う姿にハナはじと目で睨みつける。
反撃しようとルルドが口を開ける瞬間をついて、セイラはナジュールが纏う毛皮を指差した。
二人の口喧嘩を止めさせようと気もあったが、好奇心のほうが強かった。
「それって何の毛皮?」
狼のようにも見えるが、セイラが知っているものより随分と大きなものだ。
「ルーガと言う獣だ。此方にはいないようだが、そうだな狼の体格を三倍にして残酷さを十倍にした感じの獣だ」
あまりに大雑把な説明だがよく分かる。
「丈夫で暖かいし、矢ぐらいなら難なく防ぐ事が出来る」
気になっているのが、伝わったのかナジュールは毛皮を外すと、わさりとセイラの背にかける。
セイラにすがり付いているハナは勿論巻き込まれ、その重さにうめき声を上げる事になった。
その毛は固く、ずっしりと重い。
長身のナジュールの腰から下を覆うほどなので、セイラの体には大きすぎて、顔以外の全て覆われてしまう。
まるで大きな獣に食いつかれているような哀れな姿にルルドからは憐憫の視線が送られ、ジルフォードからは珍しく苦笑を送られた。
毛皮の海から抜け出そうとハナが悲鳴をあげたので、ナジュールはゆっくりと毛皮を持ち上げる。
そのゆっくりさに先ほどの仕返しをされているのではないかと、視線をやれば、にっと笑われた。
絶対にそうだ。
「よく、そんな重いものを身につけていれますわね」
「ハナ殿がひ弱なのだ」
先ほどと同じような口論が始まりそうなので、セイラが仲介に入ろうとすると、コンと小さく書庫へと続く扉がなった。
開けてみれば、痩躯の老人が立っている。
見知らぬ顔ではあったが、纏う衣装は紛れもなくタハルのものだ。
今話題になっている毛皮も彼の細い腰に回されていた。
「サクヤ」
ルルドが訪問者に目を丸くした。
サクヤがわざわざ出むくほどの何かが起こったのだろうか。
「何事だ?」
ナジュールが席を立ち、サクヤに近づき問うと、アリオスの貴族の誰かが挨拶をしたといっている旨が簡単に告げられた。
厳しく引き締まった表情が途端に崩れる。
その表情にはめんどくさいと大きくかいてある。
「そんなことしなくてもいいだろう? 皆が皆同じようなことを述べていくくせに」
「遊びで来ているのではありませんから、仕事をしてください」
ー少しでも有力者との繋がりを持つ事が貴方の仕事です。
言葉に出さずとも、サクヤの思っていることは突き刺さるような視線が物語っている。
「……わかった」
細くなった瞳で見つめられると頷くより他はない。
「気が向かないが、行かないとサクヤが怖いからな」
部屋にいる者たちに小さく告げた後、ナジュールは頭を一振りした。
揺れた髪が元の位置に戻る頃には、侍女たちが素敵だと騒ぐ微笑が浮んでいた。
まるで仮面でも被ったかのような早業だ。
「それでは、また」
優雅な一礼を残して去っていくナジュールに続きルルドが部屋を出て、サクヤが深々と頭を下げた。
彼が静かに扉を閉める瞬間、セイラを視界に入れ、その口の形を僅かに変えたが、誰にも見られることは無かった。
それは消え入りそうな笑みだったのかもしれない。
「ルーガだって」
ナジュールが置いていった毛皮を触りつつ、どんな姿だろうと思いをはせる。
この固さではご婦人たちを飾る装飾品としては使えないだろう。
「タハルには、こんなのがいっぱいいるのかな?」
「子どもほどもある大きな鳥がいるとは聞いたことがありますよ」
「本当!」
瞳を輝かすセイラにカナンはあえて伝えなかった。
その鳥もまた、凶暴で人を襲うと言われている事を。
ナジュールがへインズの話がことさら好きなのは、同じような環境で育ったからではないかと言う思いが頭をよぎる。
獣と呼ぶには、あまりにも強大な力を振るうものが跋扈する世界で、タハルは真に欲しているのだ。
魔物殺しの英雄を。
「リュウはいるのかな?」
「リュウですか?」
「へインズのお話に出て来るんだよ。綺麗なうろこに覆われてて、世界の全てを知ってる偉い生き物なんだ。人間が嫌いなんだけど」
人とリュウは争うようになり、世界は暗黒時代に入る。
そんな冒頭で始まる物語は、へインズがリュウと対峙したところでぷつりと終わってしまうのだ。
「いるかもしれませんね」
「一緒に見に行きたいね」
カナンの言葉に嬉しくなってジルフォードを見上げ、にっと笑った。
指折り数えれば、行きたい場所も見たいものもたくさんあるのだ。
「いつか、世界中を巡るぞー」
何気ない一言と突き上げられた拳に呪力があったかは誰にも分からない。