第二章:白き花の告げるもの2
田畑は雪解け水によって潤い、新緑が大地を覆っていく。
その中を軽やかに駆けていく馬の乗り手が若い女性だとしても農作業に勤しむ人々を感嘆させることは出来なかった。
この辺りでは女性どころか小さな子どもまで馬を駆る事を知っているのだ。
もしも風にたなびく髪が見事な金色だと知れば、ほうとため息をつかすことが出来たかもしれないが、今はフードの下に隠されている。
ここはタナトスから程近いヤガラと呼ばれる地域だ。
唯一民に自治が認められた特殊な場でもあった。
その環境を壊さないようにと極力貴族の介入を許さず、許可を取らねばいかなる大貴族も中に入ることが出来ない。
「なにやら騒がしいですね」
先を駆けていたマキナが馬を止め、前方を睨みつける。
ヤガラに入れる唯一の門の前には派手な馬車が止まっており、その従者と門番とか激しく言い争っているのだ。
「仲裁して来ましょう。ダリア様はここでお待ちください」
さほど珍しい光景でもない。
入れないとなるとどうしても入りたくなるようだ。
今や、ヤガラへ入る許可を持つ事が一種のステータスになりつつある。
私はどこそこの大貴族であるぞ。
さっさと許可をおろさんか。
そんな会話はよく聞かれることだ。
「何か?」
いきなり現れた女性に従者は、門番を罵倒するのを止めたが、何者か見極めようと無遠慮な視線がマキナを嘗め回す。
腰に帯びた剣に一瞬ひるむものの、相手の格好は平服だ。
己の主になど顔向けも出来ないほど下級のものだと認識すると、途端に嘲るような視線を送る。
「この愚か者が、私の主はヤガラに入ることが出来んなどと戯言をほざくのよ」
「許可はお持ちではないと」
マキナの言葉にぶんぶんと勢いよく門番は首を振る。
まだ年若い青年だ。
懸命に己の職務を全うしようとしたのだろう。
顔は真っ赤で、言い負かされそうだった悔しさが滲んでいる。
「許可? そんなものこの馬車を見れば分かるだろう? ほら、見ろ。お前らのような下級階層でも知っている紋章だろう。リグンブル様は大貴族様だぞ」
馬車に描かれた紋章は確かに有名なものだった。
「その大貴族様がヤガラに何用で?」
マキナの声は冷ややかだった。
ヤガラは長閑で美しい場所に違いはなかったが、それ以外に貴族の目を引きそうなものは無い。
「ここに居られる高貴な方とお話をなさるんだ」
「高貴?」
マキナは眉根を寄せる。
従者の言い方では、その相手が己の主と同等かそれ以上の位の人物だと言っているように聞こえるのだ。
確かにリグンブル家といえば名の通った貴族だ。
それ以上の貴族がヤガラの中に入れば、自ずと噂が立つだろうに、マキナの耳には入っていない。
「だから、言っているだろう! 今日ヤガラの中に貴族は一人も居ないって! あんたらの勘違いさ。さっさと帰っておくれよ」
「いいや、一人だけ居られるさ」
「お帰りください」
従者の言葉に重なるように、柔らかな声がした。
マキナの横にもう一頭、馬が並ぶ。
ダリアの顔は半ばフードに隠れていったため、何者かまで従者には分からなかった。
「大貴族と名乗るならば、それ相応の礼儀がありましょう」
声音は優しいながらも、凛とした強さがあり従者は思わず口を閉じ、馬車の中の人物を窺うように後方に目を向けると、馬車の天井が二度なった。出せとの合図だ。
従者は何か言いたげに二三度、口を開閉したが何も言わずに鞭を振るった。
「顔も見せないとは」
もうもうと煙を上げて去っていく馬車に苦笑を一つ零し、門へと馬頭をめぐらせる。
先ほどの青年はどこかほっとした佇まいだ。
「ありがとうございます。ほんとにあいつ等、なかなか帰んなくて。貴族だからっていばりくさって」
「ごめんなさいね」
沈む声に青年ははっと顔を上げた。
ダリアとて貴族の出だ。
「いえっダリア様が悪いんじゃないし、……貴族だって悪い人ばっかりじゃないって知ってるけど」
同じくらい、それ以上にひどいことをする貴族も知っていると青年の顔は物語っていた。
青年は曇った表情を笑顔に変えると、さっと門を開けた。
「サンディア殿に会いにきたのでしょう。 さぁ、どうぞ」
ヤガラの人々には彼女の立場を伝えてはいなかった。
薄々感づいているものもいたようだが、彼女は好意的に受け入れられているようだ。
青年に礼を言いつつ、二人は馬を走らせた。
「情報が漏れてしまったみたいね」
「そのようですね」
従者の言う高貴な方とは、おそらくサンディアのことだ。
ヤガラの中にいる以上容易には接触することができないだろうが、今日のように強引なものがくれば、どうなるかわからない。
それを防ごうと見張りを多くすれば、ここにいると宣言しているようなものだ。
「対策を考えましょう」
「はい」
しばらく馬を走らせると、こじんまりとした造りの家が見えてくる。
低い塀で囲われた其処には子どもたちの笑い声が溢れていた。
「お邪魔するよ」
「マキナおねーちゃん!」
蔦草を絡ませたアーチを潜れば、子どもたちが歓声を上げてマキナに纏わりつく。
「一緒に遊ぼうよ」
「剣を教えてくれる約束だよ」
「いいよ。じゃぁこっちにおいで」
マキナは子どもたちをうまく家の外へと誘導していく。
残ったのはダリアとサンディアと、最期まで彼女に従ってきた老執事だけだ。
「にぎやかでしたね」
突風が過ぎ去った後のような静けさにダリアの笑い声が軽やかに響く。
「お久しぶりですね。サンディア様。貴女のお茶が恋しくなって遊びに来てしまいました」
「それでは、さっそく準備いたしましょう」
サンディアの顔は晴れやかだった。
平服に身を包み、皇かだった指先には無数の傷が出来た彼女に王妃だった頃の面影はなかったが、どんなときよりもその表情は慈愛に満ちていた。ここに来るたびにヤガラを選んだことは正解だったと思う。
「子どもたちがたくさんいましたね」
「今、文字の読み書きを教えています」
サンディアから全ての付属品を取り払うと、出来る事はごく僅かだった。
料理を作るも、田畑を耕す事もここに来てから初めてのことだ。
何も満足に出来ないくせに、かつてはふんぞり返って着飾っていたかと思うと顔から火が出そうだ。
何も出来ないサンディアに呆れつつ、ヤガラの人間は優しく彼女を受け入れ、なにくれと世話を焼いてくれるのだ。
唯一、与える事ができるものがあると気づいたときには、ひどく安堵したのを覚えている。
先生と呼ばれるのは、面映いが慕われるのは嬉しかった。
勉学の師であるだけでなく、サンディアは彼らの母の役割も果たしていた。
戦の時期が多かったアリオスには孤児が多く、ヤガラでも例外ではない。
小さな孤児院には、今もたくさんの孤児たちが暮らしているのだ。
「すばらしいことですわ」
「いいえ、あの子にしてやらなかったことを押し付けているだけかもしれません」
サンディアの表情が少し曇る。
あの子ージルフォードには何一つ教えてはあげなかった。
「そうだとしても、彼らは幸せなのでしょう」
でなければ、あんなに笑顔で集まったりしないだろう。
「もう少し、お待ちくださいね。準備が整えば、ジルフォードに会うことも出来ますわ」
それからでも、教えてあげることは山ほどあるだろう。
ダリアの言葉に含まれたものを読み取って、サンディアは小さく頷いた。
キレイに整えられた庭には、シルトの蕾がぷくりと膨らんでおり、数日中には白い花弁が天を向くだろう。
この前に来たときに、春乙女にセイラが選ばれたことは話した。
今日は何から話せばいいだろう。
「今、タハルの王子様が来ているのですよ」