恋を燃す
明乃という人間は激情家である。
幼い頃はあたり構わず好き放題に癇癪を発現させていたその悪い性質は、大人になるにつれて徐々に収まり、今ではほとんどと言って良いほどその片鱗を表す事はなくなっていた。
聞き分けは割と良い方で、勉強もそれなりに出来て、年長者に対して下らない反論もしない。
教師からの評判もそこそこには良い方だ。
髪は染めず、制服の着崩しもあまりしない。普段はやや無口なところはあるが、話しかけられれば答えるし、友達も少ないが全く居ないわけではない。暇があれば本を読み、休日に繁華街へ出て不良のように遊ぶようなことも無い。
少し地味目の、どこにでも居るような普通の女の子。それがご近所や学校での明乃の評判。
しかし、それは違う。それは明乃という人間を評価するにあたり大いに間違っている。
今は単にその溶岩のような性質が、理性という名の氷の膜に覆われてわかりにくくなっているに過ぎないのだ。
もう一度繰り返そう。
明乃という人間は、根っからの激情家である。
溶岩のように煮えたぎる液状化した巨大な炎は、一度溢れたら最後。全てを焼き尽くすまで収まらない。
★ ★ ★
あまりにも強い感情は、行き過ぎればかえって冷静になるものらしい。
すっぽりと布団を被ったのは良い物の、頭の中身はいつに無いほどスッキリと冴えわたり、今夜は眠れそうも無かった。が、明日の事を考えると本当は早く眠った方が良いだろう。
浅井家から帰った後のアホみたいに続けられた親の説教も、もう休日は外出させない宣言も、学校帰りの寄り道禁止令も、半年間の小遣い無しも全てがもうどうでもいい。明日で全てが決まるのだから。
そう思うと、明乃の口元から引き攣れたような笑いが零れ落ちた。
浅井の腕の中で思いついた瞬間、自分もまた木佐と同じ悪魔であったことを明乃は知った。
あまりにも酷過ぎるその考えに、もしかしたら家に帰って考えたらあともう少しくらいは冷静になれて、何かが変わるかもしれないと僅かな希望も込めていたがそんなことは全く無かった。
それどころか、今現在浅井と木佐があの部屋で何をしているのかと考えただけで、部屋中の物……机も時計も本もぬいぐるみも目につくもの全てを叩き壊したくなるほどの嫉妬と衝動が胸の中に激しく渦巻いた。
これ以上自分以外の誰にも浅井に触らせたくなかったし、自分以外の誰かに心を許している浅井を想像するのも頭がおかしくなりそうなくらい嫌だった。そして何よりも、浅井を振り向かせる力も木佐から強引に奪い取る力も何も無い、無力な女子高生たる自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
このまま何もしないでいれば、浅井は手の届かない程どこか遠くへ行ってしまうだろう。
木佐に連れて行かれてそのまま帰ってこないだろう。
それを少し考えるだけで胸の内側に燻る焦燥感は秒刻みで強くなり、今も絶えずぐるぐる廻り続ける明乃の思想は再び行き着くべきところにたどり着いてしまった。
あの悪魔にほんの少しでも浅井を渡すくらいなら、自分で何もかも壊してしまえばいい。
木佐だってあの喫茶店で言ったじゃないか。
浅井は放っておいても廃人になってしまう。だからそれを自分が有効的に使ってやるのだと。
そうだ。
どうせ廃人になってしまうなら、自分が浅井を滅茶苦茶に壊したって良いじゃないか。
あの悪魔に渡すくらいなら、そっちの方がずっといい。木佐の手であの人が壊されてしまうのは絶対に嫌だけれど、自分自身の手で潰してしまうならばそれはもう仕方がない。だってそうする以外に浅井を手に入れる方法が無いのだから。
それに伴ってきっと周囲も大変なことになるだろうが、そんな事ももうどうでも良い。
例えそのせいで、浅井に嫌われたって構わない。とにかく木佐を排除し、そうして浅井の中に『明乃』という人間をこれでもかというくらい刻み付けることが出来たのなら、それはそれで上出来だ。
自分でもおかしいのは知っているが、悪魔的で倒錯的で壊滅的で、そして禁断の果実を食んでいるかのような甘美な思考に笑いが止まらない。
声が出ないように枕に顔を押し付けながら体を震わせて低く笑っていると、喉の奥でぐるりと何かが蠢いた。
特に考えるでもなく自然と、あぁ、浅井に貰った木佐の卵だろうと反射的に思った。
目に見えない卵でも、親の危機が解るのだろうか?
電波で完全に焼き殺すために枕元にあったスマートフォンを喉元にくっつけながら、今度は自分も浅井に卵を産み付けてやらなければならないと明乃は真剣に考えた。
★ ★ ★
朝が来た。
もそもそとベッドから這い出した明乃は机の上にある化粧ポーチの中から手鏡を取り出して覗き込んだ。
寝不足のせいで酷い顔になっている。一秒でも親にバレるのを遅らせるため、顔を洗う代わりにウェットティッシュで顔を拭う。それから時間をかけて念入りに化粧をした。目の下に出来上がったクマがすっかり居なくなるほど色を刷り込む。口紅とアイシャドウはキツくならない程度に控えめに。頬紅を叩いてやつれた頬に血色を持たせ、顔全体をそれなりに見られるところへ持っていく。
顔を作り上げた後、クローゼットを開いてしばし悩む。
普段の明乃の性格上、あまり可愛い服を持っている方ではないが、それでもどうにか可愛いめに見える白いワンピースを見繕う。いつ買ったのかも定かではないが、毛玉も出来ていないしシミも無い。だからたぶん大丈夫。
まだ冬にはなっていないけれど、朝は少し肌寒いので黒のカーディガンを上から羽織る事にした。そうすれば少しはマシになるだろう。靴下は学校指定の紺のハイソックス。下着の方も一応新しいのに履き替える。
姿見が無いのでちゃんとした着合わせは確認できないが、多分そんなに変な方では無いだろう。
とびきり可愛いわけではないが、まずまずな方なんじゃないかと考える。
浅井は明乃の着ているものを気にするような人間では無いから、別に気合を入れてめかしこむ必要性は全くないのだが、これもまた布石の一つだ。
手鏡に向かってにっこりと笑ってみると、以外にも普通の女の子が目の前に居るのに少しだけ驚いた。
もっと邪悪な笑みになるのかと思っていたから。
一晩中ぐるぐると続いていた思考。
朝になったらもしかして気が変わるかも知れないと思ったが、凶暴で凶悪な悪魔的思考は結局朝になっても全く変わらず、それどころか睡眠不足のせいかより一層深く残酷な楽しみに胸を躍らせるようになっていた。
この手で滅茶苦茶に壊してやった浅井がどんな顔をするのかと思うと、今からにやにや笑いが止まらない。
我ながら狂っているとは思うのだが、善性と理性が二つ同時に死んでしまったかのようにもう自分自身でも手が付けられない状態になっている。どう頑張っても暴走が止められない。まるで小学二年生のあの頃に戻ったようだった。
自分の好きな事だけを、好き勝手にやっていたあの頃に――。
いや、あの頃よりももっと酷い。あの頃はすべてが衝動だったが、今はこうして用意周到に好いた人を傷つけようとして、尚且つ邪悪な蛇のように楽しんでさえいるのだから。
星型に細工を施された丸いプレートの銀のネックレスを首にかけ、最後に口臭予防の清涼スプレーを口の中に吹きつける。
時刻は六時五十五分。今日は土曜日。一家全員休日だ。
明乃はドアにそっと耳をあて、まだ両親が眠っているのを確認してからいそいそと家から抜け出した。
何分、田舎町なものだから、近所の年寄りは外に出て庭仕事でもしているだろうかと思ったが、意外と外には誰も居ない。薄く霧のかかった朝の道を、明乃は布団屋に向かって早足に歩いて行く。
七時に外で会う約束をしていたが、浅井は果たしてちゃんと玄関前に出ているだろうか。
室内に居たのならそれはそれで構わないのだが、外に居てくれた方が効果は大きい。あとは木佐が傍に居ないかどうかだが、それは運に任せるしかないだろう。もしも今日がダメなら深夜か、また明日の早朝に勝負をかけよう。
歩いて五分の短い距離だ。
歩きながら、頭の中だけは精密な機械のように動かして何度もシュミレーションを重ねている。何度も何度も、何百回も、壊れたオルゴールののように何度も。けれども歩くだけの時間もとうとう尽きて、そして布団屋にたどり着いてしまう。
果たして、浅井はそこに居た。
染ムラだらけの虎猫頭。よれよれの黒いキャラクターTシャツとジーンズに、何も考えていなさそうな眠たげにゆるみきったふにゃっとした表情。傍に近づくごとにその体から妙に甘酸っぱい果実のような雌臭さを感じてしまうのは流石に考え過ぎだと思いたい。
「明乃ちゃん、おはよー。なんかいつもと違うね」
たったその一言だけで、明乃は舞い上がりそうなほど嬉しくなる。何かに気付く事なんて最初から期待していなかった分なおさらだ。だから、とびっきりの笑顔を浅井に向けた。
「おはようお兄ちゃん。木佐さんは居ないの?」
「木佐さん……は、手続きとか朝からやることがあるからって昨日のうちにホテルに帰ったよ」
悪魔の名前を呼ぶときにだけ何かを思い出したのか恥ずかしげな表情をした浅井に、今度は嬉しさとは真逆の殺意が湧いてくる。
やめろ。その顔をして良いのは私の前だけだ。
悔しさに唇を噛みしめたいのを必死に抑え、悪魔的な思考をこの哀れな羊に気取られぬよう笑顔を作った明乃は早足に歩み寄り、そっと浅井の体にしなだれかかる。
「そっか。よかった。最後だから、どうしても二人きりが良かったの……お兄ちゃんから貸してもらった卵、返してあげる」
「今までありがとう……木佐さん、探すの手伝ってくれて。明乃ちゃんのおかげだよ」
何も気づかぬように、へろ、と表情を緩める浅井。
そっと寄せた唇に、浅井が当たり前のように重ねてきた瞬間、明乃は浅井の右手首を掴み思いっきり背中から地べたへ転げた。
コンクリートに強か背中を打った痛みと同時に、わっ、と声を上げる間も無く腕を引かれた浅井の肉の無い体が上から覆いかぶさるように転がった。
まるで浅井に押し倒されたような姿勢を取りながら、明乃はもう一方の手で己の付けているネックレスの鎖を力任せに引きちぎり、あらんかぎりの声を絞って近所中に響き渡るような痛烈な悲鳴を上げた。
静かな朝の田舎町である。
悲鳴を聞きつけた奥様方が窓から見た光景は、近所の少女を頭のおかしい青年が乱暴を働いている姿に他ならなかった。
今回短いです。