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卵を貰う


 浅井が木佐と出会ったのは、都会のとあるゴミ捨て場だ。

 饐えた臭いのする都市指定のビニール袋の山の上で仰向けにぐったりと倒れていた。そんな浅井を街路灯が寂しく照らし出している星も見えない晩の事。

 随分長い事殴られ続けていた気がする。

 有り金は残らず巻き上げられていたし、切れた口の中は血の味しかしなかった。首から下も随分と痛めつけられ、そのせいかどうかは知らないが指先一つ動かすのも億劫だった。

 都会に来て、まだ間もない頃だった。

 都会ならどこでも良かった。ただ、都会に来れば何かが変わるかもしれないと思っていた。

 テレビで見かけたきらきら光るネオンの町は、きっと意味も無く自分の悪口を言う人間は居ないだろうと思っていた。一つ目の天使や天井裏の赤い目玉が見える奴もいるかもしれない。そして、自分のように女を愛せない男だって探せばきっと出会えるはずだ。そんな気持ちで家で働いて得た給料と、それまで貯めていたありったけの小遣いを握りしめて田舎町を飛び出すようにやってきた。しかし、都会という場所はそう甘い場所では無かったらしい。

 都会に来てみて得た印象は、空がやたらと狭い事。それくらいな物だった。

 同性愛者が多いというその夜の町を、浅井は連日のようにふらふらと徘徊していた。

 夜で暗いはずなのに、店や看板の装飾がやたらと眩しい。

 耳元ではいつものように目に見えない誰かが引っ切り無しに浅井の悪口を言い続けているし、視界の端々には犬とも猫ともつかない奇妙な生き物が息を潜めてこちらを狙っている。そしてすれ違う人は皆、浅井をチラチラと横目で見ては悪口を言っている。

 実際は誰も浅井の事など見てはいないのだが、何故か浅井の頭の中には人々の語る様々な罵詈雑言がまるで脳に直接響くように聞こえてくるのである。例えそれが浅井の妄想だとしても、ずっと昔からその状態で生きてきた浅井にとってはその妄想こそが現実だ。

 顔だけは良い浅井に声をかけてくる連中も居るにはいるが、どいつもこいつも人を馬鹿にした口調でヘラヘラと話す。話しかけられるのは構わないが、向こうが酔っているのか幻聴が重なっているのか、浅井にはその内容が半分ぐらいしか解らない。

 他人との接触を望んでいたはずなのに、誰かに話しかけられるのがあまりにも苦痛で、浅井は誰かに声をかけられる度に逃げ出した。

 あの田舎町と全く同じ。あの狭苦しい雰囲気が嫌で飛び出してきたと言うのに、これではまるで変わらないではないか。

「うるせぇな。どいつもこいつも……」

 失望と共にその日も夜道を歩いていると、すれ違った数人の男が浅井を見て笑う。こんな所まで来てお前は何をやっているんだ。お前を好いてくれる人間なんてどこにも居ないんだよ。

「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ」

 お前は、生まれない方が幸せだったよな。馬鹿な田舎者だ。死ねっ死ねっ、死んじまえよ。殺してやろうか? そしてゲラゲラゲラと野太い笑い声がして、浅井はとうとうキレてしまった。

「うるせぇ!! 黙れつってんだろ!? ぶっ殺すぞボケェ!!」

 もちろんそれは幻聴だったのだが、気付いた時にはそう怒鳴っていた。ところが、怒鳴った相手が悪かった。浅井が怒鳴ったその相手は幻覚でも何でもない実在している人間であり、さらに不運な事に、青筋を立てて睨みつける数人のうちの一人は浅井よりも何倍もガタイの良いボクサー崩れの大男であったことか。

 気が付いた時、すぐに浅井が謝っていたならば、もしかしたらそいつらだって許してくれたのかもしれない。あるいは多少の手心は加えてくれたのかもしれない。

 しかし、浅井から見れば喧嘩を吹っかけてきたのは相手の方であって自分は全然悪くないという意識があった。

 それにしたって多勢に無勢。おまけに見た目からして強いであろう熊みたいな大男に真っ向から挑みかかるのは馬鹿の所業に違いない。だが、幻聴のせいで頭に血が上り過ぎていた浅井はその時、正に馬鹿だった。

 数発の応酬も無く一瞬のうちに浅井は負けた。

 井の中の蛙、大海を知らず。

 相手の人数が多かったというのももちろんあるが、田舎では負け知らずの浅井だったはボクサー崩れの男とその仲間たちにはボコボコにされて負けた。けれど、有り金を取られただけで強姦も輪姦もされなかったのは幸いだった。しかも、適当にタコ殴りにされた後はお優しい事にゴミ捨て場へ放り投げてくれたのだ。

 捨てられたのがどこかの山やら海ではなくて、ゴミ捨て場だったことに浅井はちょっぴり安堵する。

 こんなにボロボロにされたのは初めてで、有り金も持っている分は全部巻き上げられてしまったが、寝床にしているビジネスホテルに戻れば田舎に帰る分はある。

 俺はきっと、都会に来るのはまだ早かったんだな……。

 殴られたおかげかいつの間にか酷い幻聴は落ち着いていて、冷静な思考がようやく帰ってきていた。浅井は、体が動くようになったら田舎に帰ろうと星の無い空を見上げてぼんやりと考えた。

 もちろん涙を流したりはしない。

 ただ、都会へ出ても田舎に居たときと全く変わらなかったことがほんの少しだけ寂しかった。もちろん、そうなってしまったのは殆ど浅井のせいだけど、浅井には何が悪かったのか自分では全く解らなかった。

「ぐぅっ……痛ぇ……」

 あまりの体の痛みに呻き、少しでも早く落ち着くように静かに目を瞑っていると、目の前に人が立つ気配がした。

「どうしたんだい? 君、こんなところで」

 聞きなれない、特徴的なバリトンボイスにのろのろと目を開いて見上げると、カッチリという表現がよく似合うスーツ姿の眼鏡をかけた男が浅井を見下ろしていた。

「うるせぇ」

 手負いの獣みたいに浅井が二十代後半と思しきその男を睨みつけても、そいつは少しも怯んだりはしなかった。

「怪我をしているのかい?」

「見りゃ解んだろ」

 吐き捨てるように言っても、スーツの男は口の端に不思議な笑みを湛えて浅井の前にしゃがみこんだだけだった。こちらの顔を覗き込む、眼鏡の奥に光る目が何故だか少し楽しげだった。

「救急車でも呼ぶかい?」

「……金がねぇ。保険証も」

 見つめるスーツ姿の男の目に、何だか心の奥を見透かされている気がして浅井はふいに目を逸らす。

「そうか……なら、うちに来ると良い。手当くらいは出来るだろう」

 何故だ?

 思いもよらず目の前へ差し出されたその手に浅井が視線で尋ねると、男は細かく肩を揺らして笑った。

「君、顔が私の好みなんだよ。この時間にこの町に居るって事は君もソッチの人なんだろう? 困った時はお互い様だ。何。こう見えて私は紳士だからね。今すぐ君をどうこうしようなんて思ってないよ」

 ソッチというのは、ホモという意味だろうか。

 考えながら、ざっと全身を見た感じだと確かに目の前に居る細身のスーツの男は強そうには見えなかった。

 まぁ何かされそうになったら、暴れて逃げりゃいいか。

 そう決断した浅井は、痛む腕を無理矢理持ち上げるとその男の手を取った。

 おいおい、大丈夫なのか? それとも優しくされたら誰でも良いのか? 尻の軽い奴だな。お前は。

 幻の声が頭の中で響いたが、浅井はその声をあえて無視した。



 ★   ★   ★



 幸せな思い出はいつ誰に取られるか解らない。

 だから浅井は誰かに取られないように、時々きちんと口に出すように心がけていた。明乃が居る時は明乃に聞かせたりもするのだが、一人の時でもそうやって口に出してみて、頭の中から無くなっていないかどうか確かめているのだ。

「そうして、俺を拾ってくれた木佐さんは俺を家に連れて帰ってくれたんだ。それから傷の手当てをしてくれたし、ご飯もくれたし、お風呂にもいれてくれたんだよ」

 へぇ。そいつは良かったな。

 箪笥の引き出しが相槌を打った。

「うん。そんでね、布団で寝る時に撫でてくれたんだ。『痛かったね、もう大丈夫だよ』って。それが凄く優しくて気持ち良かったから、出て行こうと思っていた次の日も出て行かなかったんだけど、木佐さんは出て行けって言わなかったんだよ」

 おう、それは幸せな事だな。それで? 他には何があったんだい?

 カーテンの隙間から誰かが聞いた。

「うん。あとはね、俺が携帯は電波が怖いから嫌だって言ったらね、家では普通の回線電話を使うようにしてくれたよ。それまで電話なんて全部携帯とか、スマホで済ませてた人だったのにね」

 うんうん。それは凄く気を使ってもらったんだね!!

 天井の木目が楽しそうに言っていた。

「そうなんだ。だから、木佐さんは凄く良い人なんだよ」

 よかったなぁ。もうすぐそこへ帰れるんだなぁ。

 嬉しそうに浅井が頷いた相手は、荷物を飲み込んで膨れ上がったボストンバッグだ。

 木佐がいろいろ手続きの関係があるからとホテルに戻ってしまった後から、浅井は部屋の中にある無機物や時折視界の隅を走る得体の知れない何かに延々と語って見せていた。

 無機物相手にさも楽しそうに語る浅井。もしも第三者がこの光景を見たならば、きっと腰を抜かしてしまうほど異様な光景なのだが、残念ながらそれをおかしく思う人間は今はここに居なかった。

 くぱくぱと一つ一つの目が開いたり閉じたりする畳に向かって浅井は声を上げて笑う。

「その頃は俺ももうちょっとまともだったから、いろいろ出来たはずなんだけど、でも失敗してばっかりだったんだよね。それでも、木佐さんは俺を許してくれたんだよ。これって凄い事だよね。お皿いっぱい割っちゃっても怒らなかったんだよ」

 ふぅん。その頃はまともだったんだ? 今はまともじゃないのかい?

 ボストンバッグとカーテンが同時に疑問を口にすると、そこで初めて浅井は少し寂しそうな顔をして頷いた。

「……うん。昔は、もう少しまともだったんだ……」

 今はまともじゃないのかい? なんで?

 天井が赤黒い涙を流しながら同じことを尋ねると、一瞬押し黙った浅井は突然憤怒の形相になって畳に拳を叩きつけた。びちゃ、と悲鳴を上げた畳が血を流しながら苦しがるが、浅井は気にせず怒鳴りつける。

「それもこれも、全部ナメクジのせいだ!! あのナメクジが来なければ俺はまともだったんだ!! あのナメクジどもが、恋矢で刺すから、俺はこんなに、どんどんおかしくなっちまったんだよ!! あいつらさえ来なけりゃ、俺は幸せだったんだ!! 俺は幸せになれたんだ!!」

 ナメクジさえ来なければ、ナメクジさえいなければ、俺はこんなに馬鹿にならずに済んだ。木佐さんは女なんかに走らなかった。ずっと幸せなままでいられたはずなんだ。

 あまりの悔しさに歯を食いしばって畳を殴り続ける泣きそうな浅井を、押し入れの隙間からいつも覗き込んでいる赤い魔物が指を指して大笑いするのが見えた。柱の木目が一つ一つ涎を垂らし、畳の目は血を吹き出しながら悲鳴を上げてカーテンには瞬きをする大きな目玉がはりついている。それらすべてが頭が割れそうなほど大きな声で大合唱して浅井の事を罵っていた。捨てられてやんのばーかばーかおまえなんてだれもあいてにしねぇんだよ。すてられたのだってぜんぶおまえがわるいにきまってんだろなにせおまえはばかなんだからないいかおまえはしあわせになんてなれないんだよだってうまれたことじたいがぜんぶまちがいだったんだからなけけけけけ。

「だまれ!!」

 脳に直接響いてくる罵詈雑言に頭を掻きむしりながら怒鳴りつけると、それら全ての音が一瞬ぴたりと収まった。

 一瞬無音になった室内だが、瞬間、浅井の全身から脂汗が吹き出し過呼吸に陥ったように呼吸が徐々に早くなる。

 部屋の向こうから、ずずずっ、ずずずっ、と等身大のナメクジの這いずる音がしたからだ。こんなところにナメクジは来ない。それは幻聴だというのが解っているはずのに、心臓が早鐘を打つように鳴っていた。

「木佐さん。木佐さん。たすけて。たすけて……」

 部屋の隅まで逃げた浅井は体を丸めて膝を抱えて、ここには居ない木佐に助けを求める。が、あらゆることから浅井を守ってくれていたはずの木佐は何故かナメクジからは助けてくれない事も知っている。ナメクジは、木佐の大事なお客さんだからだ。お客さんは殴ってはいけない。逃げてもいけない。怒鳴ってもいけない。

『お客様を殴ってはいけないよ。怒ったり怒鳴ったりしてもいけない。そんなことをしたら私は浅井を嫌いになってしまうよ』

 優しく頭を撫でられる幻触と耳元でねっとりと囁かれる幻聴に、浅井は手近にあったボストンバッグを引き寄せると思い切り抱きしめて、こくこくと何度も頷いた。

 お客さんに愛想よくしていれば、木佐は浅井にとても優しかったから。そして、優しい木佐に浅井は絶対嫌われたくなかったのだ。

「うん。がんばる。おれがんばるから……そばにいてください。俺をきらいにならないで。お願いだから、きらいにならないで……」



 ★   ★   ★



 浅井は、木佐と過ごした五年間のうち、記憶が抜け落ちている部分が多数ある。

 それはもともと浅井自身が覚えていたくない事だから後から意図的に忘れたのかもしれない。あるいは極端なストレスからの本能的な自衛行為だったのかもしれない。もしくは記憶を司る電波の回路が高電圧に耐えきれず、少々途切れてしまったせいなのかもしれない。

 浅井が木佐のマンションに転がり込んで半年ほども過ぎた後、木佐は時折『大事なお客様』というのを連れてきた。ところが、それはどう頑張って目を凝らして見てみても人間と同じ大きさの、巨大なナメクジにしか見えなかったのだ。

 もしかしたら初めの頃はナメクジでは無かったのかもしれないが、しかし、後になってから浅井の頭の中で回想される『お客様』はどれもこれもが等身大のナメクジになっていた。

 浅井は最初、玄関先でナメクジと話す木佐を見ても(木佐さんはナメクジ語も解るのか。凄いなぁ)くらいにしか思わなかった。

 木佐からは事前に「大事なお客様が来るのだから、何をされても絶対に怒ったり殴ったりしないように」と念を押されていたし、浅井自身も木佐さんの大事なお客さんなら例えナメクジだとしても行儀良くしなければと、平素ならば絶対しない愛想笑いも頑張った。

 ところがだ。

 ナメクジは浅井が怒らない事をいいことに、ねとねとの粘液を滴らせながらぶじゅうぶじゅうとワケの解らない言語を操って圧し掛かってこようとするのだ。

「あの、済みません。重たいので少し離れてもらえますか?」

 生臭い体臭と、ねばつく体液に辟易した浅井はなるべく言葉を選んでナメクジを窘めつつ押し戻す。と、ナメクジは後ろの椅子に座って見ていた木佐さんに角を向けてナメクジ語で何事かを言っていた。

 助けて欲しい。と浅井も目で訴えるが、ナメクジ語に二、三頷いた木佐は「お好きにして構いませんよ」と笑っただけだ。そして浅井にも優しげな目を向けて一言。

「秋一。抵抗すると私は君を嫌いになるよ」

 優しい声音。だが、絶対に抵抗は許さないという圧力がある。

「あ……」

 浅井には、もう何も言えなかった。

 ナメクジが皮膚に吸い付く感触と、温かいのか冷たいのかよく解らない温度。それから薄気味の悪い呼吸音がじりじりと近づいてくる。助けてくれる人は誰もいない。助けてくれると思っていた人は動かない。助けを求める気持ちと、かつて自分を助けてくれた人の為に頑張らないとと思っている気持ちの双方に引っ張られて知らぬ内に心がゆっくりと裂けて行く。

 そんな時でさえ涙が出なかった浅井には、自分の心が泣いている事に気が付かない。

 ドロドロでぐちゃぐちゃで、粘着質で痛くも苦しくも無い奇妙な暴力。感覚が麻痺して現実感が乏しくなり、自分が居なくなってしまったかのような不思議な感覚がして、気が付いたら数時間が経っていた。

 既にナメクジはその場におらず、後に残ったのはやたらと優しい木佐とやけに重たい体だけ。

 ちょっと動くといろんな部分が痛むのは、きっと恋矢を射されたからだと咄嗟に思う。

 恋矢はカタツムリやナメクジの持っている槍で、それを使われたのだろう。覚えてないのに、そんな気持ちだけが残っている。

 何で恋矢で刺されてしまったのかは解らなかったが、低能なナメクジの考える事なんて、人間の浅井には解るはずがない。

 しかし、その日からだ。浅井の記憶の断絶が始まったのは。

 時折、木佐はナメクジをつれてきて、浅井がそいつの酌をする。しばらくしてから記憶が飛んで、戻ってきた頃にはもうナメクジは居なくなっている。

 ナメクジが居なくなったその後の木佐は妙に優しい。風呂場で丁寧に体を流してくれたり、美味しい物を食べさせてくれたり、優しく抱いてくれたりと色々尽くしてくれるのだ。

「何か、良い事があったんですか?」

 猫のように撫でられながら浅井が聞いても、木佐は「ああ。秋一のおかげだよ」と言うだけで浅井が何をしたのか、その内容は決して教えてはくれなかった。

 それで不信感の一つも湧けば上等なのだが、浅井はそこまで気にしない。

 そこに木佐という存在があるだけで嬉しかったから。記憶がところどころで飛んだとしても、それは決して楽しい思い出ではないだろうから、解らないなら解らないで構わない。別にどうでも良いと思っていたのだ。

 木佐さえ居れば、他には何もいらない。

 木佐さえいれば、それで良い。

 ところがだ。

 記憶が断絶するようになってしばらくしてから、浅井は自分がどうにもおかしくなっている事に気が付いた。幻聴と幻覚は昔からの事なのだが、木佐がナメクジのお客様を連れてくるようになってからはその頻度が余りにも多くなっている。

 酷い時には床が海のように波打っているように見えて、立って歩く事さえもままならない。

 家じゅうに監視カメラが設置されていて、常に何かに見られている気配がする。蛇口から慕ったり落ちる水滴が、何か陰謀を企てている気がする。

 最初は無自覚だったしあえて知らないフリをしていたが、日常生活にまで支障をきたせば嫌でも自覚してしまう。

 それどころか、注意深く聞いているにも関わらず木佐が何を言っているのか解らない事も多々あるのだ。音は聞こえるのだが「シュウイチオマエイツマデネテルンダ」という具合で、どこで音節を区切って良いのか、この音をどう言葉として解釈すればいいのかが解らない。

 これは大変だ。

 ほかの雑音が解らなくなるのはどうでも良いが、木佐の言葉が解らないのは凄く困る。

 言葉が解る時にどうにか思考を保とうと思うのだが、それもナメクジがやってくると僅かに残っている正気ごと意識を削り取って飛んでしまう。

 仕舞には何かを答える時に、自分が何と言葉を発していいのかさえも解らなくなってきてしまった。

 言葉が解らず、それでも木佐と話がしたくて何事かを紡ごうとして、それでも出来ない浅井は徐々に、しかし確実に狂ってきていた。

「木佐さん、おれぇ、なんかおかしいのがぁ……。なめくじが、ヤ、だぁから……。なめぇ、せいだぁから」

 浅井はどうにかナメクジが来るたびに頭がおかしくなる。このままでは頭が壊れてしまうと訴えようとした。しかし、調子の良い時でさえ言葉がこんがらがり始めている浅井の言葉は木佐には解ってもらえないようだった。

 そういう時、木佐は優しく浅井の頭を撫でながら、その雑音まみれの耳に囁きかける。

「秋一。君、だんだん可愛くなってきているね。本当に雌みたいな顔をしているよ。お客受けもとても良い。君のおかげで私も懐の方がとても温かいよ」

「木佐さ、ユー……うりぃ……しゃあー、あ、あ……」

 その言葉はとても早口で、浅井にはどうしても聞き取れなかった。もっとゆっくり喋ってほしい。けれど、その訴え方も忘れたように口から出るのは舌ったらずな雑音ばかり。だから、浅井はぽかんと口を開けたまま押し黙るしかなかった。

 ナメクジが帰った後の部屋。

 床の上に座り込んだまま、話したくても話せず、けれども何かを紡ごうと口の中であぐ、あぐと舌をもがかせる浅井のその唇に、木佐はそっと口づけた。

「君は物凄く馬鹿だけど本当に可愛いね」

 全体が蠢いて見える部屋の中。そうして優しく抱きしめられて、慈しむように微笑まれたらもうダメだ。

 きっとこの人に嫌われたら、生きていけないのだろうと浅井は思ってしまうから。


 ★   ★   ★


 もう良いや。

 木佐さんに嫌われないなら、頭が壊れてももう良いや。

 どうせ俺は馬鹿だから、これ以上馬鹿になっても大丈夫。

 木佐さんさえ居ればあとはどうでも良い。

 毎日のようにナメクジはやってくる。相も変わらず浅井の記憶の断絶は繰り返し、それに伴って頭はどんどん馬鹿になる。木佐の言葉もさることながら、好戦的な方だと自負していた元の自分の人格がどこへいってしまったのかも解らない。

 痛いような苦しいような、怒りたいような泣きたいような、でもそのどれでもないような。

 日常の全てが夢の中のようにふわふわと浮いていた。

 食事一つとってもどれも何故だか味が鈍い。

 大好きな木佐からの抱擁も、慰めも、口付けも、どれもこれもが夢で起きている事のように現実感が乏しかった。

 毎日飽きもせずに床も天井も衣装ケースもカーテンも、無機物が楽しそうに合唱したり談笑したりを繰り返す。テレビはいつでも血の涙を流しているし、壁の中の黒い目玉はいつまでも浅井を見つめている。昔はもう少しぐらい小さかったはずの脳の雑音は、もうどこが木佐の声なのか無機物の声なのか、はたまた自分の声なのかもよく解らないほど大きくなっていた。

 浅井の中の現実は滅茶苦茶だった。

 もう何が何だかわからない。

 全てが赤色と灰色がぐちゃぐちゃに混ざり合った世界に押しつぶされて、ナメクジが来たんだか、来ていないんだか。自分の記憶があるのだか無いのだか。木佐さんに抱かれているのか、ナメクジに抱かれているのか。自分は一体誰なのか。今横になって居るのは天井なのか、床なのか。宙に浮いているのかどこかに接地しているのか。

 言い知れない焦燥感にパニックに陥って暴れて、誰かに殴られても痛みも全く感じない。

 現実と夢が解らない。どこに意識の境目があるのか解らない。

 だからきっと、そういう事も幸いしたのだと思う。

 浅井の正気を代償に続けられた木佐との同棲生活は、ある日突然終止符が打たれた。

「秋一。悪いけど今度、とある女性と結婚を前提にお付き合いする事になったんだ。済まないけれど君とは別れなくてはいけない」

 夢と現実の境があいまいな意識の中では、木佐が何を言っているのか、浅井は全く解らなかった。

「取引先のお偉いさんの娘でね。良い縁談だと思ったんだよ。家柄も悪くない。私の幸せを願ってくれるなら、君も解ってくれるだろう?」

 浅井にも解るように言っているのか、ゆっくり話す木佐の言葉。よく考えれば解るような気もするが、脳の方が受け付けない。だから言葉の意味が解らない。

「いつまでも男同士なんて、不毛すぎるじゃないか」

 どういう意味ですか? と聞こうとしたら、お尻の下の絨毯が「大馬鹿野郎のお前なんかよりも、女の方が良いんだってさ」と教えてくれた。

 いやです。と言おうとしたが、舌がもつれて喋れない。

 捨てないでくださいと言おうとして、舌をもがかせているそのうちに、木佐はまた両腕で浅井を抱きしめる。

「今までありがとう秋一。愛していたよ」

 部屋は一週間後に引き払う。

 私は明日から新たな引っ越し先で準備をしなければならない。

 田舎へ帰るお金は用意してあげるから、引っ越し業者が来るまでに準備をしておきなさい。

 他にもいろいろ言われた気がするが、半分以上どこかに溶けてしまったような浅井の頭では、その言葉の意味を理解することが殆ど出来なくなっていた。

 だから、次の日から木佐が家に帰ってこなくても、どうして帰ってこないのか、浅井にはよく解らない。

 木佐の手配した引っ越し業者がやってくるその日まで、浅井は家の中でじっと考えた。喉が乾いたら水道をひねるぐらいのことは出来たから、水だけを飲みながら考えた。ぐちゃぐちゃになったまま思考の纏まらない頭の中は、一つ考えるだけでも随分時間がかかるのだ。

 木佐さんが家に帰ってこないのは何でだろう。俺、何か悪い事したかなぁ。どうして木佐さんは帰ってこないんだろう。俺が馬鹿になったからかなぁ。

 そうして同じ事ばかり三日も寝ないで考えて続けて居ると、馬鹿を憐れんだらしい家中の無機物が、浅井にも解るようにゆっくり教えてくれた。

『それはお前が女じゃないからじゃないのか?』

『そうよそうよ。馬鹿でグズでのろまで間抜けな男なんだから、間女に寝取られちゃって当然よ!!』

 ずっと考え事ばかりしていたおかげか、何かの声がキチンと解るのは久しぶりの事だった。浅井はその時、初めてナメクジが来ていた時よりも頭の中の雑音がマシになっているのに気が付いた。

 天井とタンスに言われて、絨毯の上で仰向けに倒れている浅井はぼんやりと呟いた。

「でも、木佐さんは最後まで愛してるって言ってたよ」

 声に出してみてまた驚いた。ナメクジが来なくなったせいなのか、珍しい事にすんなりと口から言葉が出てきたことにちょっとだけ感動する。しかし、木佐が居なくなってから言葉が解ったり出たりするようになっても意味がない。

『そんなの、社交辞令に決まってるじゃない!!』

 タンスに冷たく言い放たれて、浅井は急に泣きたいような気分になった。

「俺、木佐さんにあいたい……」

 しかし、行き先が解らない。呟いた言葉は誰にも拾われず、静かに闇に溶けていく。木佐の行先のヒントを求めてふらふらと立ち上がり、箪笥を今更ながらに漁ってみると、木佐がいつも着ていた服は無くなっていた。会社に着ていくスーツも、私服も。私物の類もどこにも見つからない。時計も眼鏡の予備も全部が全部だ。

 木佐の物が無くなっていることにようやく気付き、一人ぼっちで置き去りにされてしまった子供のように洗面所の床に座り込んだ浅井は呆然としてしまう。

「木佐さんは、もう一度くらい帰ってくるよね?」

 縋るように尋ねてみると、洗濯機が声を出す。

『無理だね。間女に取られてしまったから』

『せめてお前が子供を産めたなら……』

 地獄の底から響くようなクッションフロアの声が、浅井の体を震わせる。

 ずっと昔から恐れていた事だった。

 ずっと昔から解り切った事だった。

 どんなに頑張ったって、逆立ちしたって、本当の女の人には敵わないんだと言う事だ。

 どうして自分は女の子に生まれなかったんだろう。自分が女性なら、女性だったなら、もう少しだけ木佐と一緒に居られたのかもしれない。大事な人を知らない人に取られたりしなかったのかもしれないと思うと、悲しくなった。けれど、慰めてくれる人はここに居ない。無機物は話を聞いてくれるけど、優しく慰めてくれたりはしなかった。

 膝を抱えて静かにしていると、ふと昔「男になりたかった」と言っていた女の子の事を思い出す。

 髪の短い、乱暴な女の子。

 もう顔もあんまり思い出すことは出来ないけれど、浅井は女の子というただそれだけで、その子の事が羨ましかったのだ。男になりたがるその少女と、この体を交換する事が出来たなら、それはどんなに素晴らしい事か。

 きっと彼女は成長したら、素敵な男の人と結婚して素晴らしい家庭を築くのだろう。男を好きになったって、誰もおかしく思いはしない。浅井がどんなに頑張ったって出来ない事を「男になりたい」と言った少女は簡単に実現させてしまうのだろう。

 自分よりずっと小さな少女に会う度に、いつもいつも言いようの無い嫉妬を覚えていた。

 そんな昔を思い出して、悔しくて悲しくて惨めで情けなくて、けれど涙は出なかった。

 ただ洗面所の床の上で寝そべって、一人はこんなに寂しかったんだったなぁと他人事のように考えた。今この瞬間になるまで、ずっと頭の中が煩くて、変な焦りがあって捨てられてしまうのが怖くて凄く忙しかった。

 木佐さんに会いたいなぁと思いながらも、このまま何も考えないで眠ってしまいたい。そうしてゆっくり目を瞑り、闇の中に意識を埋没させようとした時だ。体の内側がざわざわとざわめく気配がした。

「なに、なに、なに」

 風邪を引いた時に感じる悪寒のような、怖気のようなざわめきにじっとしていられずに立ち上がる。背筋を這い登るぞわぞわした寒気と腹の底から湧き上がる奇妙な吐き気を感じて洗面台に唾を吐く。泡の混じった、普通の唾だ。

 しかし、陶製の洗面台を伝うなんの変哲もないその唾液の中に、浅井は不思議な卵を見つけた。透明な泡に交じって、確かにそれが動いているように見えたのだ。

「たまご……」

 浅井がぽつりと呟くと、まだ体の中で何かがざわざわと蠢いている気配がする。

『おめでとう。良かったじゃないか』

 浅井と同じ顔をした洗面台の鏡がそう言った時、天から理解が降り注ぐ音がした。

 コップが言った。洗濯機が言った。歯ブラシが言った。

『おめでとう君。おめでとう。願いが叶ったじゃないか』

『おや、おめでとう。可愛らしい子供じゃないか』

 おめでとう。おめでとうと拍手でも聞こえてきそうな無機物達の祝福の中で、鏡の中の浅井は引き攣ったような笑みを浮かべて喜びに胸を躍らせていた。

 ナメクジではないだろう。あのデロデロとした生き物が、こんなに透明で美しい卵を産みつけられるわけがない。

 だから、その卵は誰がくれた卵かは考えるまでもない。

「木佐さんがくれたんだ」




浅井視点。電波。

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