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涙で縋る


 この田舎町は、本当に噂話が流れるのが早い。

 ネットもゲームもあるご時世に、それしか娯楽がないのかと疑いたくなるほどだ。

 明乃が布団屋のホモの痴情のもつれに巻き込まれたらしい事は、喫茶店にて木佐にコーヒーをぶちまけたその翌日。明乃が学校から帰る頃にはご近所中に知れ渡ることとなっていた。

「あんた!! あれ程秋一君に関わるなって口を酸っぱくして言ったのに、何でもう……この馬鹿!! 大馬鹿!!」

「だから、悪かったって言ってるでしょ。……心配しなくったってそんな変な事にはならないわよ。大体、浅井お兄ちゃんは女の子に全く興味無いし……」

「そういう問題じゃない!!」

 部屋中がビリビリと響くような怒鳴り声を浴びせられ、思わず明乃は目を瞑る。

「大体あんたって子は昔から人がダメだって言ったことばっかりやって……。そんな事ばっかりしてほんっとにほんっっっとに大事になった時どうするの!? ただでさえ秋一君は頭おかしくて昔から問題行動ばっかりなのに、アンタまで変なことに巻き込まれておかしくなったらと思うと母さんはもう心配で心配で!!」

 居間の床に座らされ、母親から説教される明乃は内心げんなりしながらも真面目に聞いているフリをした。そして浴びせかけられる数々の叱責を聞き流しながら、そういえば小学生の頃も浅井と懇意にしているのを知られた時に滅茶苦茶に怒られたなぁとぼんやり考える。

 そうだ。思い出した。

 昔も、浅井と遊ぶたびにこうやって両親から物凄く怒られていた。

 それでもめげずに浅井の家に通い詰めていたらいつの間にかこういう風に近所で噂になっていて、浅井の方から『お前、もう家には来るな。迷惑だから』と言われたのだった。今思えば、もしかしたら浅井秋一が幼女を家に連れ込んでいるという噂を気にした布団屋のおじさんとおばさんから明乃を家に居れないように言われたのかもしれない。が、当時の明乃はまさか浅井から拒否されるとは思っていなくて酷くショックを受けたのだった。

 そのうちに中学を卒業した浅井は布団屋を手伝い始め、忙しそうに働く浅井に対し、明乃は中々声をかけられなくなってしまったのだ。

 しかし、たくさんの布団を軽々と抱えて車に積み込む手伝いをする浅井を、明乃はいつもこっそりと見つめていた。

 何度、浅井の家の前を往復しただろう。何度、声をかけようと思っただろう。

 しかし、浅井の迷惑になってしまうかもしれないと思うと、どうしても出来なかった。それまで自分のやりたいことは誰から何と言われようと全部やっていたというのに、だ。

 もしかしたら、あれが明乃にとっての理性の目覚めという奴だったのかもしれない。

 暇さえあれば物陰からこっそりと浅井の姿を見に行った明乃は、声をかけようとしては止め、手を振ろうとしては止めという事を繰り返していた。本当はもう一度喋りたかったし、抱きついて撫でてもらいたかった。けれど再び『迷惑だ』と言われたらと思うと、明乃はどうしても話しかけることが出来なかったのだ。そうして月日が流れるうちに、明乃が浅井を眺める時間は減っていった。浅井を追いかければ追いかけるほど、どんどん辛くなる自分に耐えられなくなったから。

 そして、気が付いた時にはもう浅井はさよならも告げずにこの田舎町を出て行った後だった。

 小学六年生になっていた明乃は既に悲しいとは思わなかったが、胸の奥の大事な場所にぽっかりと穴が開いたような、何とも言えない寂しさはしばらく消えてはくれなかった。

 幼い頃の苦くて酸っぱい思い出についしかめっ面をすると「聞いてるの!?」と怒鳴られた。

「聞いてます!! 聞いてますから耳元で怒鳴らないでって!!」

 まったくもう、と母親はため息をついて腕を組む。

「アンタがコーヒーかけたっていう木佐さんだっけ? まぁ、良い人だったから良かったものの……秋一君みたいに変な人だったらどうなってたことか……」

 心ここに非ずの状態だった明乃は、しかし唐突に母親の口から出た木佐、という名前を聞いて驚いた。

「木佐!? お母さんなんで木佐を知ってるの!?」

「え? そりゃアンタ、秋一君の元彼でしょ? 喧嘩して、お互い少し離れて頭が冷えたから迎えに来たって噂で聞いたわよ? で、アンタが痴話喧嘩の間にしゃしゃり出てコーヒーかけたって話を聞いて、母さんすぐ浅井さんの所に謝りに行ったわよ!! 丁度布団屋さんの前で鉢合わせしてね。都会の人って物腰ですぐ解るのね。ウチのバカ娘が済みませんって謝ったら『私がつい口を滑らせて浅井君の悪口を言ってしまったから悪いんです』って逆に謝られちゃったわよ。クリーニング代もいらないって凄く丁寧に言われたわ。秋一君、頭はアレなのに男を見る目だけはあったのね」

 あんないい男がホモなんて世の中間違ってるわ。等と年甲斐もなく木佐を思い出してぽっと頬を染めた母を見て、明乃は愕然とした。

 あの悪魔を良い人呼ばわりした母もそうだが、木佐がまだ浅井の傍に居たことも驚いた。しかし、そりゃそうだと思い直す。明乃がコーヒーの一つや二つ頭からかけた所で、木佐が町から消えるはずはない。奴の目的はあくまで浅井をこの町から連れ出して、自分の都合の良いように働かせることにあるのだから。

 しかし、それを正直に言ったところでこの町の住人同様に浅井を蔑み、木佐の上品な上っ面に騙されている母が信用してくれるとは思わなかった。よしんば明乃が訴えて信用したとしても、母が町の厄介者である浅井の為に行動を起こしてくれるとはどうしても思えない。せいぜい『関わるな』と言われるのが関の山だろう。

「……ねぇお母さん。木佐……さんと他に何か喋った?」

 本当は、あの悪魔にさん付けをするのも嫌だったが、仕方がない。早鐘のように鳴る心臓を宥めるようにゆっくりと尋ねる。

「そうね特には……そう言えば、日曜には秋一君と都会に戻るって言ってたかしら? まぁ、結局なんだかんだで元の鞘に戻ったって事かしらね」

 やれやれ、とため息をつく母親の言葉に息を飲む。

 慌てて壁にかかったカレンダーを盗み見ると、日曜日と言えばもう今日を入れても三日しか無いではないか。

「アンタ、顔色が悪いわよ? 大丈夫?」

 急激にに顔から血の気を失った娘を見て、怪訝そうな顔をする母はもう一度ため息をつくと「まぁ、木佐さんに免じてこの事は許してやるわ。今日はもう良いからご飯が出来るまで部屋で寝てなさい」と明乃を自室へ追いやった。

 ふらふらとした足取りでベッドの上に倒れこんだ明乃は、叫びたい気持ちで一杯になっていた。

 どうしようどうしようどうしようどうしよう。このままじゃ、このままじゃ浅井お兄ちゃんが悪魔に連れて行かれてしまう!!

 誰かに助けを求めるか? 否、この町の住人は皆浅井を避けている。明乃が訴えたとして、誰が彼の為に動くだろう。警察に言うとしても、当事者でもない自分が何と言って届け出れば良いのだろうか。

 浅井はきっと馬鹿だから、騙されている事にも気づかずに利用されて、最後にはゴミのように捨てられてしまうに決まっている。そして捨てられてからもきっと木佐を信じて、信じ続けて、自分を迎えに来てくれるのを待ち続けるのだ。

 きっと死ぬまで――。

 そう思ったとたん、後頭部を角材で殴られるような衝撃と胸の痛みが明乃を襲った。

 浅井は頭がおかしくて、友達も居なくて、明乃以外の誰からも……親からも見放されている。だから、浅井を、浅井の心から救ってくれる人間はどこにも居ない。木佐という悪魔に人生を弄ばれて、裏切られ続けて、でも気付けなくて、だから本人は自分が辛い事さえ気づかなくて誰かに助けてと言う事すら思いつけないのだ。

 そんな浅井を思うと、あまりにも苦しかった。ズキズキと痛みの走る頭と掻きむしりたい程に苦しい胸を抑えて過呼吸を起こしたようにはぁはぁと喘ぐ。しかし、それでも抑えきれない涙が無意識のうちにぼろぼろと流れ落ちた。

 それは絶対に嫌だった。

 それだけは絶対に嫌だった。

 そんなのだけは絶対に嫌だった。

 今日の学校帰り、浅井に会いに行けば良かった。どうしても周囲に人が居て入れなかった。でも、そんなのもう気にする必要無かったんだ。噂はもう走り出していたんだから。

 私はもう、巻き込まれているんだから……。

 ――浅井お兄ちゃんに会いたい。

 黒く沈みかけた意識に射した一筋の光のような気持ちに、バチバチと雷に打たれたような閃きが脳内に弾ける。体中に電流が駆け巡り、考えるより先に体が暴走していた。

 あの小学二年生の頃と同じように、ベッドからバネのように飛び起きた明乃は流れる涙も拭かずに激情に身を任せて走り出していた。

 母親の静止も聞かず、バッグも持たず、上着も着ずに、外靴だけを足につっかけて、気付けば明乃は家を飛び出していたのだった。



 ★   ★   ★



 バタン、と勢いよく襖を開けると、目を丸くした浅井が大きな鞄を前にして畳の上に座っていた。

「明乃ちゃん? どうしたの?」

 昨日会ったばかりだと言うのに、その染ムラだらけの虎猫頭が懐かしくて仕方がない。

「お、お兄ちゃぁん!!」

 ガバリと抱きついた明乃は、うろたえている浅井のよれよれのシャツに頭を埋めてグズグズと泣いていた。良かった。まだ居てくれて、本当に良かった。

「ど、どうしたの? 何で泣いてるの?」

「お、お兄ちゃん、行かないで、どこにも行かないで!! あの人について行かないで!! ここから出て行かないで!!」

 顔を埋めたまま、しゃくりあげながら悲鳴みたいな感情を吐き出すと、一拍遅れで明乃の震える体を抱きしめる感触がした。それから、手のひらで優しく頭を撫でられている感触。小学生の時みたいな乱暴な撫で方ではなくて、本当に小さい子を慰めるみたいに優しい触れ方。

 おずおずとシャツから顔を上げると、少し困ったような笑み浮かべた浅井がそこに居た。

「何で笑ってるの!?」

 ふつふつと湧き上がる照れのような気持ちが制御出来なくて浅井にしがみついたまま明乃は怒鳴る。すると、今度は浅井は年上のお姉さんみたいに両腕で明乃を抱いて、背中を優しく撫でてくれる。

「うん? 明乃ちゃんは可愛いなぁって思った」

「なっ!? 何で今そんな事言うの!?」

「だって今思ったから」

 まさか、ここでその言葉は反則だろう。突然顔が熱くなるが、この居心地の良い抱擁から脱出するには至らない。その代り引っ切り無しに流れていた涙が引っ込んだ。そのまましばらく無言で撫で続ける手の感触と、とくとくと規則正しく刻む心音を聴いているうちに、明乃は少しだけ落ち着いてきた。

「落ち着いた?」

「……うん」

「どうして泣いてたのか言える?」

「うん……」

 頷いて、浅井の体から離れた明乃は涙の塩気にひりつく目を擦る。

 箱ごと手渡されたティッシュで鼻をかみながら部屋を見ると、どうやら浅井は荷造りをしている最中のようだった。狭い四畳半に置かれた大きなボストンバッグには、いくつかの私物が既に詰め込まれている。また何も言わずに出て行ってしまうつもりだったのだろうかと思うと、胸の奥がつきりと痛んだが、今はそれどころではない。姿勢を正した明乃は浅井を真っ直ぐに見据えた。

「お兄ちゃん、木佐さんについて行かないで。お兄ちゃんは、騙されてるの」

 一語一語、はっきりと言う。母親から浅井が町を出ると聞いたこと。それから喫茶店で木佐の言っていた話を、浅井にも解りやすいようゆっくり、そしてちょっと誇張した表現を交えつつも、明乃は浅井が騙されている。あの人は女と別れていない。お金だけが目的で、ついて行ったら都合よく使われて捨てられるだけだ。裏切られ続けるだけだと説明した。

 浅井の骨ばった手をぎゅっと両手で握りしめ、だから、浅井が傷つくから行ってほしくない。だから、浅井が心配だから行ってほしくない。浅井を不幸にしたくないと何度も繰り返し訴え続ける。

 喋っている最中、浅井の事だからもしかしたら短気を起こして途中で聞いてくれなくなるかもしれないと思っていたのだが、意外なことに浅井は黙って聞いていた。そして、明乃が話し終えた後、浅井は一つ頷いた。

「うん。明乃ちゃんが俺を凄く心配してくれてるのはよく解ったよ。ありがとう。こんなに心配してくれるのは明乃ちゃんだけだもんね」

 その言葉と笑顔に明乃は報われた気持ちになった。しかし、それも一瞬の事。

「でも、俺は木佐さんと一緒に行かなくちゃならないんだ」

 急に、目の前が真っ暗になった気がした。

「なんで……? お兄ちゃん騙されてるんだよ!? 馬鹿にされてるんだよ!? 完全に遊ばれてるんだよ!? それなのに、何でそんな人と居ようとするの!? 馬鹿なの!? 阿呆なの!?」

 掴みかからん勢いで迫り捲し立てても、浅井は少し困ったように眉を八の字に寄せただけだ。

「えーと……上手く言えないけどさ。俺って、明乃ちゃんや皆が言うように凄く馬鹿だろ? 金も全然持ってないし、本もあんまり読まないから、少し難しい話されたら全然解らない。俺が高校も出てないのは皆知ってるよね?」

 明乃は頷きはしなかった。

 自分でも言ったクセに、自嘲する浅井に向かって「自分で自分を馬鹿って言うな」と怒鳴りつけたい衝動に駆られるが、明乃は何も言わず、ただ怒ったような顔で浅井を睨みつけていた。

 浅井は年齢と体格に似合わない、眠たげで舌足らずな音を紡ぎ続ける。

「でもさ、俺は明乃ちゃんが言うみたいに馬鹿だから騙されてたのかもしれないけど、今まで生きてきた中では木佐さんだけなんだよね」

「何が?」

 そこで、浅井は少し恥ずかしげに目を伏せる。

「……心の底から『愛してる』って思ったのが」

 ふやふやと夢を見る乙女みたいな甘ったるい言葉に、明乃の心臓が見えない鎖でギリと締め付けられる音が聞こえた。

「だから、やっぱり俺は木佐さんについていくよ。そのうち、木佐さんも間女に騙されてるって気付くかもしれないし、卵も育てなくちゃいけないし……それに、あの人に必要とされてるなら、やっぱり嬉しいんだ」

 聖母のような慈しみさえ感じる笑みを前に、明乃は自分でも気付かないうちに関節が真っ白になるほど両手を握りしめていた。

「愛してるなら、何をされても構わないの……?」

 血を吐くような質問に、浅井は躊躇いもなく頷いた。

「うん。俺には、他に何もないからね」

 途端、明乃の両目から音も無く、大粒の涙がぼたぼたと零れ落ちてきた。

 明乃の内側に溢れていた先ほどの焦燥とは全然違う。悲しいのか苦しいのか辛いのか訳が解らない感情が満ちてきて、涙がそれらに押し出されるように後から後から流れてくる。

 胸の奥が締め付けられて、軋むような痛みで頭がどうにかなりそうだった。それと同時に、この感情がきっと愛だと思った。

 こんなに好きで、離れたくなくて、絶対に不幸にはさせたくないのに止められない。幸せにしてあげたいのに、自分にはどうすることもできず、そのやり方さえも解らない。それが歯痒くて堪らない。明乃は、浅井から好かれなくても良かった。でも、ここで木佐の元へ行かせてしまったらきっと浅井は幸せにはなれないだろう。例え浅井が自分の不幸に気付かなくても、浅井自身が望んでやることだとしても、明乃はそれを思うだけで頭がおかしくなりそうだった。

 ここで引き留めなければならない。

 けれど、浅井はもう決めていた。

 でも、それを許したくはない。

 ここで諦めてしまったら、絶対に後悔するのは解りきった事だった。

 行かせたくない。けれど、浅井を思いとどまらせる方法が明乃には解らない。

 だからもう、明乃は浅井に縋りつくしか無かった。

「お兄ちゃん、私ね……私も、お兄ちゃんを愛してるよ。愛してるの。愛してるから。愛してる。お兄ちゃんが木佐さんを愛してるのよりずーっと、百倍も千倍も何万倍も愛してるの!! 小学生の時からずっと、ずーっと愛してる。愛してるの、愛してる!! だから行かないで。愛してるから、行かないで!! お願いだから行かないで!!」

 浅井の腕に縋りついて涙を流し、壊れた人形のように「愛している」「行かないで」と繰り返す明乃の頭を浅井はそっと抱きしめた。

「ごめんね」

 どんなに頼まれても、縋られても、それでも行く。そんなはっきりとした優しい拒絶に、ひゅっ、と明乃の息が詰まった。そして浅井に縋りついたまま、ずるずると力の抜ける体を青年は両腕でしっかり支えた。

「日曜日の朝には出て行かなきゃいけない。だからもしも、まだ明乃ちゃんに卵が残っていたら返してほしいんだ」

「卵……」

 涙濡れの呆けた頭で、そういえば再会したその日から何度もよく解らない卵を埋められたのを思い出す。粘膜接触で移すことの出来る卵は、浅井が木佐に産み付けられた卵らしい。電波で親を探して、携帯電話の電波で焼け死ぬという変な卵。浅井が後生大事に抱えて育てようとしている目に見えない謎の卵。

 もしも自分も浅井に卵を植えつける事が出来たら、浅井は木佐と自分のどちらを選ぶんだろう。

 泣き疲れ、茫洋とした思考の中で明乃で浅井の顔を見上げた。少し困ったような、申し訳なさそうな表情。けれど、整った顔つき。日向の猫のような眠たげな目と薄い唇。抱きしめる体の体温と、規則的に刻む心音。

 この人を、誰にも渡したくない。

 強く思った瞬間、明乃の心に大きなヒビが入る音がした。割れた心の、その表面から真っ黒な血液がじわりと滲み出す。

 黒い血は透明な心の表面を覆うように零れ落ち、流した涙の分だけ明乃の心がゆっくりと冷えて行く。それなのに、芯の部分だけはジクジクと膿んだように熱いのだ。

 渡さない。渡さない。渡したくない。例え誰かを不幸にしても、この人を自分以外が不幸にするのを許さない。許せない。絶対に許したくない。

 明乃は目の前の白い首に手をかける代わりに、もう一度抱きなおした。そして儀式のような口づけを交わす代わりにそっと浅井の耳に囁いた。

「残ってる、けど……明日まで一緒に居てあげたいの。卵……この子達とはずっと一緒だったから。明日の朝が来たら返すから、朝の七時くらいに玄関で待っていて。今度は、きちんとさよならの挨拶がしたいから……」

 言いながら、自分も悪魔と大して変わらないんだなと、どこか他人事のように考えた。



 ★   ★   ★



 玄関を出ると、偶然木佐と鉢合わせしてしまった。

「何しに来たのよ」

「それはこちらのセリフだが?」

 目に見えない火花が二人の間に散っている。浅井が見たら、おろおろと狼狽してしまいそうな一触即発の空気だが、神経質そうに中指で眼鏡を指で持ち上げた木佐はすぐに意地の悪い笑みを浮かべた。

「何、アレの気が変わらぬよう、親睦を深めに来ただけだ」

 その『親睦』という言葉の中に下品なニュアンスを感じ取った明乃はフンッと鼻で笑ってやった。

「お兄ちゃんの気が変わるのが怖いから繋ぎ止めに来ただけでしょ?」

「何だ。そのバカにした態度は。お前だってどうせ行かないでくれと無様に乞いに来たんだろう? どうだった? お前が泣きついて、奴の気は変わったか?」

 明乃は未だ涙に濡れて腫れた目を隠そうとはしなかった。そして浅井に行かないでくれと泣いて懇願し、縋りついた事もあえては否定しなかった。

「いいえ。健気にアンタについて行くって」

「だろうね」

 勝ち誇ったように脇を通り抜ける木佐だが、すれ違いざま明乃は笑った。そして悪魔も裸足で逃げ出したくなるほどぞっとするような声音で、楽しげに木佐に投げかける。

「お兄ちゃんは誰にも渡さないから」

 その言葉が何を意味しているのか解らなかったが、どうせ負け犬の遠吠えだと思った木佐は明乃を蔑むように笑うと堂々と玄関をくぐって行った。


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