椀を反す
人を好きになる気持ちはどこから来るのだろうか?
最近の明乃の頭の中は、その疑問で埋め尽くされていた。というのも、その感情の出所さえハッキリすれば打ち消すことも可能だと思ったからだ。
同性愛モノの小説を数冊通販で買って読んでみても、家にある少女漫画を細部まで読み返してみても、その気持ちがどこから来るのかは解らなかった。
人間と人間が出会って、笑ったり衝突したり怒ったり泣いたり紆余曲折を繰り返しているうちに一緒に居たくなる。あるいは、共に人生を歩む決意をする。ドキドキしたりわくわくしたり、胸がキュンとするのが恋らしい。
そういうのは何となく解るのだ。解るのだが、何故そうなるのか? どうすればこのどうしようもない恋心を打ち消せるのか? について書かれている書物は残念ながら一つも無かった。
納得いく話があるとしたら、インターネット検索で見つけた『脳内ホルモンの悪戯』なる言葉だろうか。フェニルエチルアミンというホルモンが脳内に分泌されることにより起こりうる現象。
薬か何かでこいつをどうにかすれば、このどこにもやり場のない苛立ちと焦燥感から抜けられるのだろうかと思った。が、一瞬にして噂の広がるこの田舎町で心の病院に行くという事にどうしても踏ん切りがつかず、明乃は一人で悶々としていた。
本来なら、精神病院に行かなければならないのは浅井の方なのだが、余程の問題を起こさない限り浅井の両親は彼を病院へは連れてい行かないだろうと思う。それくらい、この小さな町では偏見の目が厳しいのだ。
「ん~~~~~……解らん……」
自室にて数冊目の少女漫画をベッドの上に放り投げると、転がったままの明乃は伸びをして大きな溜息をついた。
どうやら自力で恋心を打ち消すことは難しいらしい。それはそれで仕方がないとして、明乃の頭には他にもう一つの大きな悩みがあった。それは、浅井のある種の女性っぽさに惹かれている自分である。
とりたてて女装少年やシーメール、ドラッグクイーン等の異性装姿の男性が好きという訳ではないはずなのだが、浅井に限りは女装させたら絶対可愛いと思うだろうなぁという妙な確信を持っていた。機会があったら見てみたい。というか見たい。似合う服も似合わない服も余すところ無く着せてみたい。
ゴスロリやバニー、猫耳メイドにウェディングドレスにチャイナドレス等の衣装を脳内の浅井に着せてみて、恥ずかしがるその様を思い描いているうちに、知らず知らず明乃の口はにんまりとだらしない笑みを浮かべていた。
「おっと、いかん」
思わず垂れていた涎を慌てて拭い、ありえない妄想を振り払う。
もしかして、男性が意中の女性を思う時というのは、こんな感じなのだろうか。
なんだか、自分が男として浅井の女性性を見ているような気がして、つい自分の女としてのセクシャリティを疑ってしまう。仮に自分が男としてのセクシャリティを持っていて浅井を女性として見ている場合、これは果たしてノーマルなのか否か。しかし自分の女性性に違和感は無いのだから、浅井の女性性に惹かれている場合はレズビアンの一種なのだろうか? それとも、普通に自分は女で浅井は男なのだから単なるノーマル……?
(まぁ、どっちにしろ叶うはずはないんだけどね……)
考えるうちにだんだん頭の中がこんがらがってきたのだが、最終的にはそんな寂しい結論に思い至り考えるのをやめた。
どのみち、浅井は見ず知らずの『木佐』という人物しか見てはいないのだ。
実際この目で見ていない以上、木佐という人物が本当に存在しているかどうかは解らない。しかし、あれ程まで一途に思い続けている浅井の姿を思い出すと、胸の内側がつきんと痛んだ。けれど、それはどうしようもない事だと溜息と共に諦めるしか無いのもまた事実。
ふと、浅井も同じような気持ちに苦しんだ事もあったのだろうか? と思った。
浅井は、自分の体内に『卵』を貰ったのだと思い込んでいる。浅井にしか見えないその卵と言うものは、もしかしたら浅井が木佐から感じていた愛情や思い出の具現化なのかもしれないと思った。
木佐なる人物はもしかしたら浅井の妄想の産物なのかもしれないが、もう二度と手に入らない『卵』という名の思い出の欠片で、自分を捨てた元恋人を探そうとしているのかもしれない思うと、明乃は少しだけ切ない気持ちになった。
近いうちにまた浅井の家に行こうと思う。
例え叶わぬ恋だとしても、誰からも喜ばれない、望まれない恋だとしても、ただ傍に居るくらいは誰にも文句を言わせたくない。
明乃は、そう強く思っていた。
★ ★ ★
黙って帰ってしまったお詫びには、浅井の好物だったはずのコーヒーゼリーを用意した。
小学生の頃、遊びに行った浅井の家では時々食べさせてもらったオヤツの一つだ。
本当は自分の手作りで持って行ってあげたかったのだが、親にバレるとやっかいなので、学校帰りにわざわざスーパーまで行って学校で食べる用のキャンディと一緒に購入した。制服姿の入店なので周到とは言えないカモフラージュだが、親の耳に入った場合を考えて、しないよりはする方がマシだろう。
いつものように浅井布団店の店先におばさんもおじさんも居ないことを確認し、周囲で喋っているおば様方が居ないかどうかもとりあえず辺りを一周して確認する。そして植木鉢から鍵を取って空き巣か野良猫のようにするりと中に入るのだ。
我ながら慣れた手つきだとほくそ笑みつつ、浅井家の古びた木の階段を二階の四畳半目指して上がって行った。
二階に上がって、一番最初にある襖が浅井の部屋になっている。そこを開けると、いつものように浅井が窓際にのっそりと座って待っているはずなのだ。
誰を待っているのかというとそれは言わずもがな『木佐』なのだが、例え来たのが明乃だとしても、彼は透き通った湖のように静かに、しかし美しく笑って「いらっしゃい」と答えてくれる。
もうすぐ、浅井に会える。
先日、あんなにも腹立たしかったのが嘘のようにうきうきと襖の引き手に手をかけた所で、鼻にかかった猫のような鳴き声と、浅井じゃない誰かの声が聞こえた。
「……さん、もっ……ダメ……から……っ」
「うん……じゃない……だろ? ほら、……よなっ?」
わざとバンッと音がするほど勢いよく襖を開いた。
四畳半の一番奥で、スーツを着た見知らぬ男が仰向けに寝転がった浅井にべったりと密着して覆いかぶさっていた。
音に驚いたのか、はっと顔を上げた見知らぬ男の眼鏡越しに目が合った。
バンッ!!
襖を閉じた。
突然の光景に明乃の頭の中はパニックに陥っていたが、妙に冷静な自分の一部がこの家の構造を分析して台所のありかを物凄いスピードで模索し始めていた。
包丁だ。包丁を持ってこないといけない。
「……包丁、持ってこなくちゃ」
体を動かせないまま、ぽつっと思ったことが口から出た瞬間、バンッと今度は内側から襖が開かれた。
立っていたのは、黒髪で黒縁の眼鏡をかけた、やたらと神経質そうなスーツ姿の男だった。
★ ★ ★
神経質そうな黒縁眼鏡の男は爪の先で神経質そうにシュガースティックの口を開くと神経質そうに叩いてコーヒーに落とし、そして神経質そうな細い指先で神経質なまでに執拗にティースプーンでかき混ぜた。
短い黒髪は神経質に一本の乱れも無く整髪料で撫でつけられ、その黒い眼は神経質そうに忙しなく周囲を見回している。神経質なまでに黒で統一されたスーツは神経質そうな彼の性格を反映するかのように皺の一つもなくピンと張っている。形状記憶スーツだろうか。
そんな神経質がゲシュタルト崩壊しそうな男の前で、制服姿の明乃は居心地悪そうに体を縮こまらせて座っていた。明乃の目の前のテーブルには、男と同じアメリカンコーヒーが緩く煙を立ち上らせている。
地元高校の制服を着た女子高生と見知らぬスーツ姿の三十代手前くらいの男というカップルを、喫茶店の先客たちは奇異の視線で見つめていた。
おそらく明日くらいにはもう噂になってるんだろうなぁ。うまくしらばっくれる事ができるかなぁ。一応適当に言い訳でも考えておくかなぁ。と明乃が思っていると、目の前の細身の男が指先でコーヒーカップのハンドルを摘まんで薄い唇へ上品に黒い液体を流し込むのが見えた。
向かい合わせに座ったままどちらも喋らず、重苦しい雰囲気だけがその場を支配しているこの状況。
「……本当に居るとは思いませんでした」
沈黙に耐えかねた明乃がぽつんと口を開くと、カップをソーサーに戻した男が怪訝そうな視線を向けてくる。
「あの、私てっきり木佐さんっていう人はお兄……浅井さんの妄想か何かなのかもしれないと思ってたんです。だから、本当に居てちょっとびっくりしたと言いますか……」
「アレは昔から言う事が滅裂な時があるからね。まぁそう思われても仕方がないだろう」
特徴的なバリトンボイス。顔は整っているのに明乃に対しにこりとも笑わない、冷たい印象を与えるこの男は自分の事を『木佐』と名乗り、明乃を布団屋の近所にあるこの喫茶店へと連れ出した。
明乃からしてみれば喫茶店なんて目立つ場所へ行くのはとんでもない事だったのだが、あの場に居て、浅井が同席するとやたらと木佐に纏わりついたり二人の間に割って入って滅裂な事ばかり言って全く話が進まないどころか、余計にややこしくなりそうなのでしぶしぶ男の言に従った。その時、浅井は一人にされるのを酷く嫌がっていたが、木佐が二言三言囁くと、突然よく躾けられた犬のようにおとなしく待つのを了承した。
しかし、今から思えば失敗だったのかもしれないと明乃は思う。
どう体を丸めようと周囲から明らかに目立つ上、この沈黙っぷりである。実存さえ危ぶまれた浅井の元彼を突然目の前にして、明乃は何を聞いていいのかさっぱり見当もつかなかった。
(聞きたいことは沢山あったはずなんだけどなぁ……)
周囲を気にしてまんじりともせずスプーンでくるくるコーヒーをかき混ぜていると、目の前の神経質そうな男が明乃を見ながらくいと人差し指で眼鏡を持ち上げる。値踏みされているような、嫌な目だなと明乃は思った。
「君は、アレとはどういう関係なんだい?」
唐突な質問に、明乃はしばし言葉を詰まらせてから浅井との関係を問われているのだと気が付いた。
「あっ、と……ただの友人です」
「友人? アレに? まさか。冗談だろ?」
この時、初めて木佐の口元に笑みが生まれた。それはもちろん親愛ではなく嘲笑で、心底浅井を馬鹿にしきった様子の元彼に明乃は妙な違和感を感じた。浅井が言うには元とはいえ良い恋人だったらしいのだが……。何かあったのだろうか?
「あのー……浅井さんから聞いたのですが、確か木佐さんと浅井さんは昔、恋人同士だったんですよね?」
「一応、形式上はそうなるね」
おずおずと尋ねた明乃に対し、木佐はなんの感慨も無い様子で言い切った。その言い方があまりにも冷たくて、いよいよ明乃は心の中で首を傾げる。
おかしい。どう考えても、おかしい。明乃には目の前の木佐が浅井の言うような優しい人にも凄い人にも全く見えなかった。
「あの、私は浅井さんから貴方に新しい恋人が出来たから振られてしまったと聞いたんですけど、何だか言い方が不明瞭なんですよね。結局の所、お二人はどうして別れてしまったんですか?」
ほんの興味本位の事だったが、木佐は不愉快そうに眉根を寄せた。
「そんな事を何で他人である君に言う必要があるのかい?」
冷たく言い放たれて明乃は少し怯む、が、ここで負けてはいけない気がした。女の勘とも言うべき何かがしきりに『引き下がるな』と訴えている。ここで引き下がったら、きっと何か大切な物を奪われてしまうような、そんな気がした。
「済みません……では、どうして今更別れたはずの浅井さんの所へいらっしゃったのですか? 浅井さんの言葉を信用するなら、貴方は今、ここに居るべきではないと思うのですが……? それとも、浅井さんとヨリを戻しに?」
舐められないよう精いっぱい虚勢を張って、このつっけんどんな男の底を見透かすような冷たい視線に怖気づいているのを悟られないように明乃は背筋を正してはっきりと問い尋ねた。
しばしの間、お互いに威嚇しあうような沈黙が続く。
喫茶店の中、周囲からの視線が痛い程自分たちに向けられているのが感覚で解る。少し耳を澄ませば奥様方の噂話も聞こえてしまうだろう。ついつい目立つのが恐ろしくなり、明乃はまた背を丸めそうになるが、目の前の男との睨みあいに屈するわけにはいかない。すると、鉛のように重苦しい沈黙の末、目の前の男は突然何かを考えるように一瞬目を伏せると、ふぅーっと細い溜息をついてもう一口コーヒーを舐めるように飲んだ。
「そうだな……これは、アレに構ってくれる親や友達なんぞ誰も居ないと高を括っていた私の落ち度なのかもしれん。いいだろう。だが、その前に聞かせてほしい。この町で、君以外にアレと親しくしている友人は居るのか?」
爬虫類のように熱の無い目で問われ、明乃は静かに首を振る。
「いいえ。友達は私以外には居ないと思います。あと彼の場合、親御さんとの仲は悪くは無いと思うんですけど少々諦められているだけと言いますか……」
「ああ、それは良いよ。アレの両親はとっくの昔にアレを真人間に戻すのは諦めているみたいだからね。むしろアレが居ない方が騒ぎが無くて落ち着いているんじゃないのか? 今現在だって一応息子だから家に上げてもらってるだけで、どうせ大してアレと接触しようとしてはいないんだろう?」
知ったような木佐の口ぶりに、ぐっと明乃は言葉を詰まらせた。
確かに、明乃が浅井の両親について知っていることはほとんど無い。小さい頃、浅井の家に出入りしていた時は挨拶くらいは交わしたけれど、その時は浅井と遊ぶのがメインだったし、その後もせいぜいが浅井が昔勘当されていた事や、帰宅早々お父さんを押し倒したという噂話。それと浅井に対しては『決して外に出るな』と念を押したらしい事以外には何も知らなかった。
今の浅井との会話の端々から解る事も、食事は台所の作り置きを食べ、あとは延々部屋で別れた恋人を一人で待ち続けるのがここ最近のライフスタイルらしく、親の話は全くと言って良いほど出ていない。
明乃が何も言えないでいると、再びコーヒーを手にした木佐は冷たい笑い声を静かに漏らした。
「そりゃ、そうだろうな。あんな気の触れかけたような人間、生きているだけで迷惑以外の何物でもないからな。アレのご両親も、この町の人間も現在過去未来でアレに関わった人間全てに私は同情しているよ」
「それは……どういう意味ですか?」
まるで最初から浅井を見下していたかのような木佐の言葉に、明乃の眉が跳ね上がる。曲がりなりにも恋人だったろうに、何故そんな酷いことを言えるのだろうか。
木佐は冷静に、人間らしい感情を感じさせない言葉を明乃に投げつける。
「そのままの意味だよ。友人だと言う君には悪いけど、アレは人としては下の下だ。私は学歴で人を差別しない主義だが、そんな私でも高校さえ出なかったアレを真っ当な一人の人間と見なすことは出来ないと思っている。というかね、あんな気狂いと同じヒト化だと定義されることすら腹立たしいと思うね。せいぜいが人の皮を被った犬か猿か、そんなもんだろう」
「でも、貴方は都会ではお兄ちゃんの恋人だったんでしょう!?」
思わず語気が強くなる明乃だが、木佐は心外だと言わんばかりに肩を竦めた。
「まさか。アレはそう思っていたかもしれないけど、私は一度だってそう思ったことはない。君は若いから、肉体関係さえあればその二人は恋人同士になると思っているのかもしれないが、それは大きな間違いさ」
乾ききった木佐の話に、明乃はもう顔を赤くして良いのか青くして良いのか解らなかった。浅井から聞いた優しい恋人というのは、一体誰の事だったのだろうか? 浅井の見ていたものは幻だったのだろうか? 考えるだけで、ぐらぐらと眩暈がする気がした。
「だって……じゃあ、なんでまたお兄ちゃんに会いに来たの……?」
肺腑から絞り出すようにもう一度訪ねると、木佐はここで初めて穏やかに笑った。そして明乃だけに聞こえるように口元に手をかざし、低く、おぞましい悪魔のように囁いた。
「いいかい? いくらアレの頭が悪かろうが狂ってようが人としての知能指数に達してなかろうが、物は使いようだ。たとえそこらに落ちている路傍の小石だろうと、やり方によってはいくらでも利用価値があるんだよ」
そして得意げに腕を組むと、ビジネスの話をするかのように木佐は語る。
「君は何故彼と別れたのかと聞いたね。簡単な話さ。私は仕事上で知り合ったとある女性とお付き合いする事になったんだ。だから申し訳ないとは思いながらも彼とは一度別れてもらったのさ。しかしその彼女はどうにも浪費癖が抜けないようでね。まぁ顔も家柄も申し分無く良い部類なのだけれど、我儘なのが玉に瑕だというよくある話だよ。私ももちろん努力はしたが、そろそろ金銭的に厳しいんだ。そこで、私は元恋人というよしみで浅井君に協力を求めに来たわけさ。まぁ、多少は申し訳なくは思っているが、彼はいつでも私の頼みを快く聞いてくれるからね。恥ずかしながらつい頼りに来てしまったという訳さ」
そうして木佐は人好きのする笑みを作って見せる。最初に明乃にあった時とはまるで違う。何も知らない娘や近所の奥様方なら、一目でコロリと逝ってしまいそうな爽やかで優しい笑みだった。
「でも、今の彼にはそんな金は無いだろう? だから、仕事を紹介するからもう一度こちらに来ないか? と聞きに来たんだよ。私は。もちろん一緒に暮らすのは無理だが、月に数度なら会いに行ってやるよ、とね」
「……お兄ちゃんに何をさせるつもりなんですか?」
黒縁眼鏡の奥の奥、怜悧な瞳の裏に潜む悪魔の笑みにうすら寒い物を感じた明乃は、吐き気を抑えながらかろうじて問うと、悪魔は一層笑みを深くする。一体、浅井を含めた何人の人間がこの悪魔に騙されたのだろうか。
「何、簡単な肉体労働さ。もちろん彼にだって自分の取り分くらいはある。ただ、受け取るかどうかは彼次第だけどね」
肉体労働が何を意味するかは明乃にはなんとなくしか解らない。けれどこの悪魔の口ぶりからしてまっとうな事ではないのは確かだろう。そして協力したが最後、木佐を盲信する馬鹿な浅井が全力で目の前の悪魔に尽くす事は目に見えていた。
「まぁ、凄い計画ですね。そんなこと、どうして私に教えてくれるの?」
最低なネタばらしをくれた相手に怯まぬように精いっぱいに目で威嚇しながら口元に笑みを浮かべる明乃。対して悪魔は小路に鼠を追い詰めた猫のようににやにや笑いを続けていた。
「私はね、彼の顔だけは気に入ってるんだ。世の中は本当によく出来ているな。あんな人として最低の狂人のクズだって一つくらい良い物を持っている。もし今後の話が拗れたとき、私に協力してほしいんだよ。友達面している君だってどうせ彼を見下しているんだろう? だからさっきからしきりに周囲を気にしていたんだろう? 解るよ。彼と友人、もしくは知り合いなのを周りに知られたくないんだろう? もし上手く言いくるめるのを手伝ってくれる約束をしてくれたら彼の収入の五パーセントをお小遣いとして送ってあげても構わないよ。君くらいの年なら欲しい物も沢山あるだろう? どうだい? どうせこのまま生かしておいてもアレは真人間にはなれない。無益で役立たずな廃人まっしぐらだ。せいぜい動けるうちに利用してやった方が世のためであり『彼』のためだとは思わないか?」
自分のセリフに酔っているのか、得意げに語る木佐がわざとらしく浅井の事を『彼』と言った瞬間、明乃の中にわだかまっていた吐き気や寒気がフッと消えた。
既に怒りは通り過ぎたのか、それとも煮詰まり過ぎた怒りが全て気化したのか、恐ろしいほど頭の中身がクリアに冴えわたる。
精いっぱいの虚勢を張るのも木佐と居て目立つんじゃないかと体を縮めるのも、この話を聞かれやしないかと周囲を気にするのも唐突にバカバカしくなった。
強がりの笑みを顔に張り付けるのを止めた明乃は能面のような無表情となり、そして、気付いた時には半分ほど中身の残ったコーヒーカップを木佐の頭の上でひっくり返していた。
神経質に整えられた髪や黒縁の眼鏡から、ぽたぽたと滴るこげ茶色の液体は残念ながら既に冷め切っていた。もう一杯アツアツの入れたてを頼むのも悪くないと思ったが、それでは時間と金がもったいない。
表情を消したままの明乃は傍らに置いていた学生かばんを開くと、青い布の財布から一人分のコーヒー代金を机に置いて無言で立ち上がる。
「お、お前おおおお、お前!!?」
頭からコーヒーをぶちまけられ一息遅れに慌て始めた木佐に背を向けると、明乃は優雅に制服のスカートを靡かせてざわつく喫茶店を後にした。
野獣系女子、キレる。