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浅井に会えば、彼は必ずキスをする。
深く、舌で粘膜を互いに擦り合わせて唾液を混ぜるディープキス。
しかしそれは恋人同士の甘い口づけ等ではなく『卵を埋めて電波を受信してもらう』という浅井なりの元彼探しの一環であるのだが、何故だかキスをすること自体は明乃はそんなに嫌ではなかった。
場合によっては、初日に再開したときのようにキスなんかよりももっと凄いことをされそうになったとしても、多分拒絶出来ないだろうなと明乃は思う。
浅井が町に帰ってきて一か月弱。最初はいちいち驚いていた口づけも、最近ではこちらから積極的に舌を絡ませて濃厚な接触を楽しんでいた。
例え、卵というなんだかよく解らない物を埋められる作業なのだとしても、ねっとりとした深い口づけを交わす度に胸が熱くなって仕方がない。まぁ、木佐の話をされるのは腹立たしいがそれは諦めるしか無いのだろう。だって浅井は今、本当に木佐の事しか考えていないのだから。それが堪らなく悔しくて悲しくて辛い事であっても、明乃は黙って聞くしかない。
果たして、この気持ちは何なのか。
恋なのか。
何で今更とも思う。
確かに昔は好きだった。そりゃもう、男に生まれたかった自分が女の子として振る舞っても良いかと思えるくらいには好きだった。多分、女の子らしくするのも悪くないんじゃないかと思い始めてスカートに抵抗が無くなったのもあの頃だったはずだ。
では、今の自分は浅井秋一が好きなのか。浅井自身は木佐の方に気持ちが向いていると言うのに、それでも自分は浅井の事が好きなのか。浅井が女の子を好きになれないホモ野郎だと解っていても、それでも自分は浅井の事を好きと言えるのか。さよならも言わずに町を出て行った男なのに、頭もちょっとおかしいのに、それでも好きなのか。それとも、単に昔の友人を取った木佐に対する嫉妬なのか。
浅井の眼中に、自分なんかいないのは知っている。
それなら、浅井とのキスが楽しいのは彼氏のいない自分の寂しさがまぎれるから……?
もう少し突っ込んで考えてみよう。
例えば今は何だかよく解らない胸の高鳴りやらについて。この気持ちが好きの気持ちだと仮定しよう。
では、自分は浅井のどの辺りが、何故好きなのか。
まず顔は良い。少女漫画に出てきそうな整った顔立ち。これは合格。しかし昔の、格好いいと言うべき男らしさは消えていた。高校も行ってないので特筆すべき学歴は無し。昔は多少あった気がした筋肉も今はほとんど無いに等しい。比例して今は何か弱そう。自活力は多分無し。いつまでも自分を振った恋人にこだわる女々しい性格。それに加わる著しい電波――。
本気で顔以外はあまりにも良い所が無さすぎるとげんなりする一方で、もう一人の自分がだけど、と反論する。
彼は優しい。頭はおかしいけれど一途で、人に対する気遣いも多少は出来る。眠たげな目と滲み出る変な色気。一目見たら目を放すことの出来ない、薄い唇から除く艶めかしい唇といちいち雌臭い仕草。筋肉と引き換えに得たような、思わず噛み付きたくなる程白い肌。キスした後に自分の唇を舐める癖があって、唾液に光る舌が頭に思い浮かんだ瞬間『明乃ちゃん』と湿った口調で呼ばれた気がして心臓がびっくりするくらい飛び跳ねた。
成熟した美しい女性と対面した時の少年の気持ちとは、もしかしたらこういう物なのかもしれない。
――なら、自分は浅井の中に感じる女性に恋をしているのか……?
自分でもどういう事かよく解らないが、そんな気がする。
「私、もしかしたらレズかもしれない……」
高校の中庭にて。弁当を食べている最中に明乃がぽつりと呟いた言葉に、隣で食事をしていた便宜上友人が牛乳を吹いた。
「なに? なんで!? どうしたの急に!?」
目を白黒させる便宜上友人。明乃は淡々と白米を口に詰め込みながら必死に今しがた浮かんだ自分の煩悩と動揺を押し隠していた。
「んにゃ、ちょっと自分でも解らないんだけどね。もしかしたらそうなのかなーと思っただけ」
「え、でもそう思うような事態になってるってことでしょ? 私誰にも言わないし、そういうの偏見無いから相談くらいのるよー」
笑いながらじゅーーーーっとストローでパック牛乳を飲む便宜上友人だが、明乃は彼女の事を信用はしていても信頼はしていなかった。誰にも言わないなどと都合の良いことを言うこの小鳥によく似たショートヘアの彼女は、根は良い人間なのだがどうにもお喋りなのだ。偏見が無いというものの、それだって深層心理は解らない。もしほんの少しでもどこかで失敗すれば、自分と浅井の関係がたちまちにご近所中に知れ渡ることは間違いない。そうなってしまってはおしまいだ。
しかし、浮かんだ奇妙な疑念を胸の内に秘めっぱなしに出来るほどの余裕も、残念ながら今の明乃には無かった。
「うーん。何か最近男の人のちょっと女の子っぽい仕草にドキっとしちゃってさ」
「だれだれ? 誰のどんな仕草?」
そんなにわくわくされた目で見られても困る。ので、頬にかかる細い髪の毛を耳にかけながら明乃はさらりとごまかした。
「ドラマよドラマ!! 食事シーンで唇を舐めてるのとか、目を擦りながら起きてくるとか、顔が綺麗な人のシーンだとカッコいいよりも可愛いなーって思うことが多くてさ」
「えーでもそれって普通じゃないの?」
菓子パンをもぐもぐする便宜上友人だが、普通じゃないから困っているのだ。
「や、なんて言うか、男として見ているというより、女の人を見るように見ている気がして……」
「でも男なんでしょ? 女の人にはそういう事は無いんでしょ?」
「まぁ。そうだけど……」
「じゃあ全然大丈夫だよ! だって女性的つったって別に男が化粧したり口紅塗ってるワケじゃ無し! ならそれも男の色気の一つじゃん!」
大げさに手を広げて「大丈夫だって!! ノーマルノーマル!」と言う便宜上友人。本当にそうだろうか? と明乃は思いながらも、これ以上話をするとどこかでボロが出てしまいそうで「そっかー。じゃあ私の勘違いなのかもしれないわね。何か安心した」と語調を合わせて少し大げさ気味に笑い、これ以上の話はしないことにしたのだった。
★ ★ ★
口紅を塗ってみた。
少し下品に見えるくらい真っ赤な口紅を、他人に見られぬように、浅井に会う直前の布団屋の二階に上がる階段で濃いめに塗ってみた。
浅井の持っていた玄関ドアの鍵は初日以来、外にある鉢植えの下が定位置にされており、不用心だと思いつつ何時でも布団屋の裏から入ることができるのは大変ありがたい。
急な来客があっても良いように、玄関で脱いだ靴をビニール袋に入れて鞄にしまう。そして、古く変色しかけた階段をギィギィ軋ませて上がっていく。明乃が二階の四畳半に入ればいつものように浅井がそこに居て、窓から外を見下ろしているのだった。
「いらっしゃい明乃ちゃん。あれ、口紅つけたんだ?」
これだけ目立つ紅ならばどんなに鈍くても気付くのだろう。明乃を見た眠そうな浅井の唇が緩く弧を描いて笑みを作る。
「似合う?」
四畳半の畳の上に歩を進めながら明乃もはにかんだような笑顔を向けると、浅井はこっくりとうなずいた。
「似合うよ。口紅なんて、明乃ちゃんも女の子らしいものをつけるようになったんだね。昔は男になりたかったってずっと騒いでいたのに」
「昔の話はしないでよ。もうそんな下らない駄々をこねるような歳じゃないんだから」
お兄ちゃんは逆に女っぽくなったよね。とは、あえて言わなかった。
明乃はそろそろと浅井の傍に座ると、学校帰りのコンビニで買ったシュークリームを袋から取り出した。プライベートブランドの少し高くておいしい奴だ。すると、目の前の青年の表情がぱっと明るくなる。
「おみやげ。甘いの嫌いじゃなかったでしょ?」
「うん。ありがとう。最近はずっと赤いゼラチンに見られているから、うまく食べる事も出来やしなかったんだ」
「また悪口でも言われるの?」
「いや、黙って見られているだけなんだけど、気持ちが悪くて。あそこにもここにも見えるだろ」
ガサガサとシュークリームの個包装を取り外しながら、何もない場所に視線を向け、ありもしないことを話す浅井。普通の人が聞けば気味悪がる所だが、こういうことは昔からよくあることで、明乃は既に慣れっこになっていた。
こんな時は下手に話を合わせようとすると浅井の変なスイッチが入ってしまい会話どころでは無くなってしまうので、明乃は「これすごく美味しいね。さすがプレミアム」とシュークリームを食べながら話題を逸らす。と、浅井もそれ以上奇妙な事を話さずに「どれどれ」と明乃にならって甘い菓子に口をつけたのだった。
自分もシュークリームを食べながら、明乃は浅井がそれを食べる姿を盗み見る。
薄い唇が開いて、柔らかいシュー皮に吸い込まれていく。はぐ、と歯が建てられれば反対側から中のクリームが出てきてしまう。筋張った細い指にクリームがつくのも構わず一口、二口とシュークリームを食べる浅井。メインのシュー皮が無くなると唇についたクリームを指先で拭い取り、最後になってようやく親指と人差し指についた薄黄色いカスタードクリームを舐めとった。自分の二本の指を浅井はぺろぺろと何度も舐める。
いつの間にか、明乃は食い入るようにじっと見ていた。
浅井はそれを、菓子に夢中で気付かない。
これ幸いと、明乃はこのシーンをいつでもどんな時でも思い出せるよう、脳裏に焼き付けるように、それはもう、穴の開きそうなほどじっと見つめた。
浅井はまるで猫みたいに目を細めて。うっとりと。艶めかしく。赤い舌で。扇情的に。官能的に舐めている。指からクリームが消える代わりに、透明な唾液が纏わりついて、てらと光る。
最後にもう一度、ぺろりと舌先で自分の唇を舐めとって――
「おいし」
目を細め、うっそりと呟いた声に、びりりと明乃の腰から頭のてっぺんまで何かよく解らない熱い電流が這い上り、とうとう我慢が出来なくなった。
「お兄ちゃん」
「うん?」
振り向いた浅井に、思わず這い寄った明乃の方からキスしてしまった。
「んん……んぐ、ン……んう゛ぅ……」
浅井の唇に僅かに残っていたカスタードの甘い味がした。明乃はそのまま浅井の肩に手をついて重心を移動させ、古い畳の上に押し倒す。右手の親指を使って唇をこじ開けると、そのまま舌を差し込んで自分の唾液に蕩けかけたカスタードを舌先で無理矢理中へ押し込んだ。
相手の顔が横へ逃れられないよう虎猫頭に左手を回して髪を根元からがっしり掴んで固定して、印鑑でも押すかのように唇をぐいぐいと押し付けて自分の口に入っていたクリームを全部残らず相手の中に流し込む。
浅井の口の中で行き場を失った柔らかなカスタードクリームがごくんと飲み下されるのを確認し、ようやく明乃が口を放す。と、浅井の唇には玄関先で塗った口紅が赤く色移っていた。長く激しい口づけに、二人そろってはぁはぁと息をついていると、先に声を出したのは未だ畳の上に組み敷かれたままの浅井の方だった。
「どうしたの? 急に」
口を捕らえられ押し倒された時こそ目を白黒させていた浅井だが、今はさして気にもしないように、べたべたになった口の周りをぺろりと舌で拭いつつ緩く首を傾げるだけだった。
問われても、明乃にも明確な答えは無い。
指を舐める仕草を見ているうちに抗いがたい衝動がこみ上げてきて自然と押し倒してしまったワケだが、そんな事を言葉にしている暇はない。恍惚としながら無言で目の前にある口紅が赤く色移りした浅井の唇を親指でなぞる。と、奇妙な満足感と飢餓感が同時に背筋をぬるぬると這い登ってくるのを感じた。
もともとこの色移りを見るために、軽い気持ちで口紅を塗って来たのだ。まさかここでこんな風に無理矢理押し倒すつもりは断じて無かったし、シュークリームの口移しなんて言語道断だ。しかし、今はもうそれどころではない。
便宜上友人の言うとおり、口紅のついた男なんて見たらきっと醒めるだろうと思っていたのだが、結果的にはまったく真逆の効果だったらしい。
赤く口紅のついた浅井の姿を見て、明乃は今、確実に暴走していた。
「お兄ちゃん……」
浅井の頭から頬にかけてを上から下へそろりと撫で、凄く綺麗だと明乃は思う。凄く美人だ。可愛い。美しい。抱きしめたい。支配したい。犯したい。噛み付きたい。笑わせたい。端整なこの顔を歪めてみたい。一生残る程の傷をつけたい。そうして傷口からあふれ出る血を思うさま啜ってみたい。恍惚として目の前の青年の端正な顔を己が印した紅と共に眺めていると、そんな矛盾した感情が次々と湧き上がってくる。このまま身ぐるみを剥いでこちらから抱いてしまったら、この人はどんな顔をするんだろう。
女の子みたいに泣くのかな。それとも男らしく怒るのかな。嫌がって暴れるのかな。殴られるのはちょっと怖いけど、どうなるにしてもきっと自分は可愛いと思うのだろう。
熱暴走を起こした頭のままでよれよれの黒いTシャツの裾に手をかけた。シャツの中では、古い猫のキャラクターが笑っている。力任せに脱がせてやろうと画策したが、しかし臍のあたりまで捲り上げた時、浅井はそんな明乃の沸騰した頭に氷水をぶっかけてくれた。
「そっか。卵、だよね。足りなくなった? 木佐さん、中々帰ってこないからね」
木佐、という名前が浅井の口から出た瞬間に、熱く恍惚とした気持ちが風に吹かれた煙のようにするりと消え去った。
いつもそうだ。
いつもこの人は木佐、木佐、木佐、と。挨拶も無しに置いて行かれた私がどんな気持ちだったかなんて気付きもしないで、自分を振った恋人が迎えに来ると夢を見て妄言ばかりを吐いている。
そう思うと、今度は煮えたぎるような怒りが胸の奥をふつふつと焼いていくのを感じた。ぎゅっと爪が肉に食い込むほど手を握り締め、衝動的に怒鳴りつけながら首を絞めたくなるのを必死に抑える。
「お兄ちゃん、まだ恋人が迎えに来てくれると思ってるの? とっくに他所の女に寝取られてるのに? もうねお兄ちゃんなんてとっくの昔に捨てられてるんだよ? それなのにまだ待つの?」
自分の下に横たわる青年の、その青白い頬を殴る代わりに、自分でもぞっとするほど冷たい声で意地悪な質問が口をついて出てきた。
取り乱すか、怒られるか、いずれにしろ感情を表すだろうと思っていた明乃だが、聞かれた浅井は一瞬きょとんとした顔をして、そしてゆっくりと溶けるように信頼しきった笑みを浮かべた。
「当たり前じゃないか。木佐さんは必ず来るよ。今は騙されているだけだから」
明乃が入り込む余地すらない圧倒的な信頼。それを見た明乃は悔しさにギリと音が鳴る程に歯を食いしばって立ち上がる。そして浅井が呼び止める間も無く四畳半を足早に出て行った。
★ ★ ★
明乃は泣かなかった。
泣かない代わりに、憎しみとも怒りとも悲しみともつかない溶岩のような感情だけが胸の内でドロドロと燃え滾っているのを感じていた。
誰にも見られぬように足早に布団屋を後にすると、道中で立ち止まって額を手のひらでぐっと抑える。冷や汗で湿った手のひらが火照った頭に気持ちいい。
「ダメだ……」
まずは、頭を冷やさなくてはならない。
やはり浅井に再会してからというもの、自分は少しおかしくなったような気がする。
恥ずかしいとかふしだらだとかは思わないが、普通は女の方から男を押し倒したりしないだろう。
浅井はホモで、女に興味が無くて、頭がおかしくて、女々しくて、学歴も無くておまけに金も無い。なのに、冷静に考えれば何のメリットも無いと言うのに、どうしてあの女の腐ったようなダメ人間をこんなにも欲しいと思ってしまっているのか。
顔が良いから? 顔なんぞホモで頭がおかしいことと比べれば全くプラスになっていない。
それよりなにより、そもそもの問題として浅井は自分を全く恋愛の対象として見ていないではないか。こっちの方から押し倒しても全く意に介さなかったのがその証拠だ。
しかし、その事実が無性に悲しくて悔しい。
解っている。
ああ、解っているとも。
これはきっと執着だ。
もう手に入らない玩具をいつまでも忘れられない、駄々をこねる子供みたいな幼稚な執着。
このどうしようもない執着を、恋という甘い言葉で包んでみよう。
明乃は浅井に恋をしている。
しかし、恋をしているからどうすれば良いと言うのだろう。例え明乃が浅井を好きでも、それはほぼ確実に実らない。
浅井はどこの誰とも知らない木佐とやらを向いていて、明乃が思いを伝えてもきっと困るだけだろう。例えば明乃が少年であったなら少しは勝ち目もあったのかもしれないが、残念ながら戸籍も中身も立派な女だ。加えるように、今は扶養されてる学生の身分。無理に浅井を連れて駆け落ちしたところで行き倒れるのは目に見えていた。
今なら何でこんな奴好きになっちゃったんだろうという少女漫画のセリフがよく解る。
親にも友達にも紹介できないダメ男。何故なら紹介したが最後、誰も彼もが十中八九『やめておけ』と口にするのは目に見える。しかも明乃の一方通行。本人以外の誰もが全く望んでいない、寂しい悲しい恋心。
ふいに激情に任せて暴れまわっていた小学二年生の自分が恋しくなった。あのころの自分なら、他人にどう思われようとも欲しい物は欲しいとはっきりと言えていた気がするからだ。ダメと言われようと、会いに行くのは止せと言われても、浅井が困ることさえ恐れずに、それら全てを突っぱねて、反抗して、好きなものは好きだとはっきり言えていたのだろう。
しかし、少しだけ大人になった明乃にそんな事はもうできない。
もし間違って告白なんかしたりして、浅井に拒まれたりしようものなら明乃はきっと生きていけない。
「ほんっと……どうすれば良いのかなぁ」
ひんやりとした手の感触を瞼に押し当て楽しみながら、自嘲するように明乃はぼやくしかできなかった。