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卵を埋める

 田舎町というのは、噂が流れるスピードがやたらと早い。

 三年前に結婚した二丁目の肉屋の娘が離婚して出戻ってきた、なんて話は当人が玄関の敷居を跨いで三時間も経過する前には近所の奥様方の口に上っているなんてことはザラである。

 そんな田舎町なものだから、昨晩布団屋の浅井さん家の頭の緩いバカ息子が都会から帰ってきた話は、明乃が学校から帰ってきた頃には既にご町内中に知れ渡る所となっていた。

「ちょっとねぇ聞いてよ、浅井さん所の息子さん、お父さん押し倒したんだって」

 玄関前で母と立ち話をする三人の奥様方の会話の内容が偶然耳に入り、学校から帰ってきたばかりの明乃は道の真ん中で固まった。

「怖いわねぇ。お父さんびっくりしすぎて救急車で運ばれたって言うじゃない?」

 やだわぁ、怖いわねぇと玄関前で囀る母と奥様方の脇を通り抜けることもできず、明乃がもだもだしていると、不意に母親がこちらに気が付いた。

「明乃、おかえりなさい」

「ただいま」

「あらぁ明乃ちゃん、おかえりなさいねぇ。それじゃあそろそろ私達も行きましょうか」

「そうですわね。それじゃあまた今度お食事でも行きましょうね」

 おほほおほほと笑いながら奥様会が散っていくと、ようやく玄関先が静かになった。

「ねぇお母さん、今の話本当なの?」

「何が?」

「だから、浅井のお兄ちゃんが帰ってきた話……」

 制服からジーンズにTシャツへ着替えた明乃が冷蔵庫から牛乳を取り出しながら聞くと、夕飯の支度をし始めた母は少し言いにくそうに「ああ……」とため息交じりに声を漏らした。

「そうみたいね」

「なんで帰ってきたのかな? 勘当されてたんでしょ?」

 なんでもない風を装って、棚から出したコップに牛乳を注ぎながら明乃が聞くと、やはり母はあからさまに嫌そうな顔をする。

「さぁ。でも帰ってきたってことは相手の彼氏と失敗したんじゃないの? ってかアンタ、まさか会いに行く気じゃないでしょうね?」

 ぎろりと包丁をもった母親に睨まれて、明乃は慌てて首を振った。

「なんでさ! ちょっと聞いただけじゃん」

「なら良いけど!! アンタまで変な噂に巻き込まれたらたまったもんじゃないよ」

 はぁっと大きなため息をついた母親を尻目に牛乳を一気に飲み干した明乃は玄関へ向かうと、おおよそ現役女子高生の着る物ではないダークグリーンでフード付きの地味なジャンパーを羽織った。

「どこ行くの!?」

「ちょっとノートとシャー芯が無くなったから買ってくる」

「もうすぐご飯よ」

「すぐ帰るから大丈夫!!」

 そして慌てて床をつま先で鳴らしながら玄関を飛び出していったのだった。



 ★   ★   ★



 布団屋の浅井さん家のお兄ちゃんこと浅井秋一は頭が少しばかり『緩い』ことで昔から有名だった。

 曰く、中学にも殆ど行かず、毎日どこかでふらふらと遊び歩いている不良。喧嘩早くて、しょっちゅう殴り合いをしては警察の御厄介になっている。理由を聞けば『あいつらが俺の悪口を言ったから殴った』とのたまうが、殴られた側に聞いても『誰もそんなことは言ってない』と言う。しかし、殴られる相手も浅井と同じ昼間からふらふらしている不良が多く、直接的に悪口を言わないまでも何か気の障るようなことはあったのかもしれないという事になっていた。

 友達もおらず、一山いくらの不良のように徒党は組まず、盗み、万引きはしないが時折妙な事を口走っては道行く人に口論を吹っかけてボコボコにぶちのめすという浅井は、まるでいつ爆発するかわからない時限爆弾のような存在になっていた。

 ご両親はとうの昔に矯正は諦めていて、彼は親でも手の付けられないとんでもない馬鹿息子として、この界隈で不動の地位を築き上げていたのだった。

 その悪名高い浅井秋一が町を出て行ったのは、明乃が小学六年生で、浅井が十八歳のこと。高校には行かず、便宜上は布団屋の手伝いをしていたらしいのだが、ある日突然ふらりと都会へ出かけて、そしてこの町には帰ってこなかった。

 奥様方の噂によると、浅井は都会で知り合った男の家に転がり込んで猫になったらしい。

 猫になった、の意味が明乃にはよく解らなかったが、何かホモのヒモ的な存在だというのは彼の噂話をする人々が発する言葉の端々からにじみ出るニュアンスで感じ取っていた。

 顔を見られないようにフードを被った明乃がまず最初にしたことは、布団屋の手前で前後左右を確認する事だった。

 道路に人影は無し。

 路上駐車の車は数台あるが、中に人は居ない。

 その場でぐるりと上空を確認する。近所の窓からこちらを伺っているオバちゃんの類は居なさそうだ。

 今の時間帯なら、たぶん晩御飯の準備で忙しいだろう。先ほどの噂話によると、布団屋のおばさんはおじさんに付き添って病院に行ってるはずだから、居るのは浅井秋一ただ一人……のはずだ。

 今なら大丈夫。

 はやる気持ちを抑えて深呼吸をした明乃は、薄汚れたいかにも下町の布団屋然とした建物の裏、二階の屋根から伸びるステンレス製の雨樋を二度、平手で殴った。ゴォンゴォンと鈍い鉄の音が響く。

「浅井お兄ちゃーん。遊びに来たよ」

 二階の窓へ向かって小声で呼びかけながら、もう二回、ゴォンゴォンと叩くと、少しのブランクを置いてガタガタと窓を開ける音がした。

「だれ?」

 二階の窓から寝起きと思わしき舌足らずな言葉と共に、虎猫みたいに染ムラだらけの頭をした青年が怪訝そうな顔を覗かせた。

「私!! わたしだよ!! あーけーのー!! そっち行くから裏口開けて!」

 大声にならないように声を上げ、目深に被っていた緑色のフードを取り去ると、青年はぽかんと口を開けて「あっ」と声を出した気がした。そして一端家の中に引っ込むと、二階の窓から銀色に光る物を明乃に向かって放り投げる。

 チャリ、と音を立てて明乃の足元に落ちたのは、布団屋の裏玄関の鍵だった。



 ★   ★   ★



「久しぶりだね。何もないけど、お茶くらいなら出せるよ。飲む?」

「ううん。いい。いらない。今日はちょっと挨拶に来ただけだし」

 埃っぽい畳の四畳半の部屋は、小学生のころに来た時よりも少し狭く感じたが、それよりも懐かしさのほうが上回る。補修の為にパッチワークされた薄汚れた襖や、カビだらけの古い窓枠。部屋の片隅に乱雑に積み上げられた布団も、壁に積み上げられたマンガ本も、なにもかもあの頃のままのような気がした。

「まー、立ち話もなんだしね。その辺座って」

 のすん、と窓際の畳に胡坐をかく青年の向かいに明乃もおずおずと座る。流石に胡坐は格好悪いので、一応正座を崩した横座りにしてみた。ちらり、と青年を見ると、不良少年と呼ばれていたあの頃に比べて柔和になった表情で笑みを浮かべていた。古いキャラクターがプリントされた黒いシャツと、よれ始めたジーンズのくたびれた感じが何故か肉の無い薄っぺらな体によく似合っている気がした。

「お兄ちゃんって今何歳になったんだっけ?」

「二十三歳じゃなかったかな? 数えてないけど。……明乃ちゃんは、なんかお姉さんになったね」

「そ、そりゃそうよ! もう五年もたってりゃ誰だって少しは変わるもん! 昔とは違うのよ! 昔とは!!」

 おっぱいも少しはおっきくなったしっ! と頭の中で喚いてみたが、目の前の青年は解ってるのか解ってないのか懐かしそうに目を細めるだけだった。

「というか、戻ってきてるなら戻ってきてるって言ってくれれば良かったのに! 勝手にふらっと消えて、私も一応心配したんだよ? なんで出てっちゃったの?」

 今日、ここに来た本題をようやく切り出せた明乃が浅井に詰め寄ると、目の前の青年は特に何も考えてないようで「ああ」と呆けたような声を出す。

「うん。それはまぁ、好きな人が出来たら傍に居たいでしょ?」

「男の人?」

「うん。木佐さんって言ってね、凄く良い人」

 マタタビを嗅いだ猫みたいにふやふやとした青年の言葉に明乃はガクリと肩を落とした。

 浅井秋一はホモ。やはり、あの噂は間違いではなかったのだ。

「じゃあ、なんで帰ってきたのさ。やっぱり別れちゃったから?」

 言ってから、流石に少し突っ込みすぎだったかと思ったが、浅井はさして気にもしないようにうーん。と困ったように首をかしげた。

「別れた……というよりね、まおんな……がね……」

「まおんな?」

 聞きなれない単語を口の中でもう一度発すると、青年も「まおんな」と繰り返す。

「間男とか言うでしょ。女だから、たぶん間女であってると思うんだけど」

「うん」

「間女に寝取られた。けど、俺は多分、木佐さんは騙されてるだけだと思うんだ。だから、俺が間女の手から木佐さんを助けてあげなきゃならないと思う。でも、都会で木佐さんを探すには電波も強いし、手がかりが無いから、一端こっちに戻ってきて、卵を使って探そうとも思ってる。こっちは電波も少ないと思うから、たぶん子供たちの通信でも間に合うかと思って」

 至極真面目そうな顔で説明する浅井。だんだんと雲行きの怪しくなってきた説明に、明乃は「待って待って」と浅井の言葉を遮った。今の説明で聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず。

「卵って何? 通信って携帯か何か? ケータイあるなら電話番号とメルアドの交換ならすぐ出来るよ」

 明乃がポケットからスマーホフォンを取り出そうとすると、

「や、やめろ!! それをこっちに向けるな!! こっち来んじゃねぇ!!」

 スマートフォンの存在を認識した浅井は逃げるように体を逸らすと、突然形相を変えて明乃を怒鳴りつけた。びくりと肩をすくめた明乃が怯えたような表情で固まると、浅井ははっとしてふるふると首を振った。

「違う、それは違うくて。ごめんよ。本当に。怒鳴ってごめん。だけど、携帯はダメなんだよ。電波はダメなんだ。電子レンジと一緒で全部焼けちゃうから……卵は、木佐さんから貰ったんだけど、俺一人じゃきっと探せないと思う。だから、明乃ちゃんも木佐さん探すの、手伝ってもらえる?」

 必死で謝りながら半分くらい泣きそうな声で頼まれると、怒鳴られた衝撃から回復できなかった明乃は、すぐに嫌だとは言えなかった。言葉を探そうと迷っている間も、浅井はじっと見つめている。嫌とは言わないよね? 見捨てないよね? 助けてくれるよね? そんな縋るような目で見つめられると、今度は嫌だと言う事も出来なくなってきた。

「……あ、と……特徴、教えてもらえたら……まぁそれくらいは……」

 しぶしぶ答えると、浅井はぱぁっと飼い主に撫でられた子犬のような明るい表情になって明乃の手を握って嬉しそうに振る。

「ありがとう!! 明乃ちゃん、本当にありがとう!! それじゃあ早速……」

「待って待って待って!! なんでいきなりズボン脱ぐの!?」

「え?」

 いそいそと立ち上がり、ベルトを外してジーパンとパンツをいっしょくたに脱ごうとする青年を阻止すると、浅井はあっ、と思い出したような顔をした。

「そうだよね。明乃ちゃんは女の子だったんだ。こっちは流石にダメだよね。痛くない方も、出来ないよね。ごめんごめん」

 妙なニュアンスで喋りながら、照れたように頭を掻いてもう一度ズボンを穿きなおした青年。

 明乃がほっとしたのも束の間、今日の噂話で聞いた『お父さんを押し倒した』の全容を身を以て知ることとなる。

 突然、浅井秋一の唇が明乃の唇を塞いだ。

「んぅっ!」

 唇の裏の粘膜を、ざらついた舌で舐められる。

 あっという間の出来事だった。

「なっなっなっあっ!!」

 突然の口づけに本気で目を白黒させていると、浅井は悪びれもせず悪戯好きな猫みたいに目を細めてぺろりと自分の唇を舐めていた。唾液で光る舌先が、妙に艶めかしい。

「これで木佐さんが傍に来たらすぐ解るよ。俺に言わなくても、ちゃんと俺にも知らせてくれるから。電波ですぐ解るんだ。ほんとはもっと沢山渡したほうが間違いないけど、粘膜、じゃないとダメだから。これ以上は女の子には申し訳ないからさ……ちょっとだけ、ね」

「今、何をしたの?」

 一応明乃に気を使っているらしい浅井の言動だが、キスをされた以上のことは何も解らない。

 しかし、浅井は目を瞬かせて、さも何でもないように穏やかに笑う。

「卵、埋めただけだから。大丈夫。日常生活には何の問題もないよ」

「何、それ」

 何をされたのか解らず戸惑っていると、浅井は無視するようにふと窓の外を指差した。

「もう、遅いから帰った方がいい。また今度おいで」



 ★   ★   ★



 外に出ると、太陽はすでに沈んでいた。

 まるで、宇宙人にでも浚われて戻ってきたような、変な気分だった。

 今から帰ったら、きっと怒られるだろうなぁと思いながら暗い道路に佇んだ明乃は一人、人差し指でそっと唇をなぞってみて、ふと思い出した。

「これ、ファーストキスじゃん……」



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