家に帰る
実の所、どうして警察に連れていかれたり父親に殴られたり、病院に入れられたりしたのかを浅井はまるで理解していなかった。
木佐さんの卵を返してもらおうとしたあの日、明乃ちゃんが転んだのを受け止めきれなくて一緒に倒れてしまった。そしたら明乃ちゃんがびっくりして悲鳴を上げた。それを見ていた人が勘違いして警察を呼んだ。
浅井の中ではそんな風になっている。
そもそも、今の浅井は精神的な負荷をまともに受け止める事が出来ない。この辺の記憶周りは一日経った後には木佐との同棲生活と同様にすっかり断片化していて、浅井にとってはさしたる問題ではなくなっていた。
だから浅井は明乃を嫌いにならなかったし、ましてや憎しみの感情などは微塵も湧いてはいなかった。確かに前はあれだけ頻繁に遊びに来ていた明乃が来なくなったのは寂しいが、それよりも浅井のなかで一番の問題であるのは、木佐が中々迎えに来ない事だった。
精神病院の中にある閉鎖病棟の小さな個室。
窓枠と出入り口に鉄格子がはめ込まれた部屋の中で、布団の上に横たわった浅井は灰色の天井をぼんやりと眺めながら木佐が来るのを待っていた。
無理矢理飲まされた薬のせいか頭の芯がぼんやりとしているが、考える事は変わらない。
(木佐さん、いつ来るのかなぁ?)
『もう来ないかもしれないよ?』
耳元で枕から呟くような声で言われた。
「来るよ」
浅井はすぐに反論するが、枕はそれきりもう喋らなかった。
★ ★ ★
突然家に帰ることになった。
本当はもっと前から言われていたのかもしれないが、薬のせいか巷に飛び交っている電波のせいか、いつ帰る事が決まっていたのかも浅井には解らなかった。
相変わらず頭の中はドロリと重たくて、卵の所在がどこにあるのかも解らない日々が続いていた。
迎えに来た母親の車に乗って、浅井は再びあの自室へと戻っていた。
絶対に家から出るな、といつものように両親からは念を押されたが、もとより家から出るつもりはまったく無い。
(家から出たら、木佐さんが来ても解らないからね)
畳の敷かれた小さな古い部屋。眠い目を擦り、いつものように人通りの少ない窓の外を眺めながら、浅井は木佐を待っていた。
★ ★ ★
木佐は中々来なかった。
凍えるような雪の降る日も、浅井はじっと窓から外を見て木佐が迎えに来るのを待っていた。
頭の中は、相変わらず鉛を流されたかのように重かった。
それもこれも薬のせいだと浅井は思う。
薬を飲むと確かに医者の言うとおり無機物達は大人しくなり、頭の中の酷いざわめきも時折視界の隅にちらつく不気味な生き物たちも解らなくなるが、同時に卵がまだ体の中にあるのかどうかも解らなくなるし、頭の回転の方はナメクジが家に出入りしていた頃と同じくらい鈍くなっていた。
(俺、また馬鹿になっちゃうのかな)
そう思うと段々不安になっていく。馬鹿になるのは構わないが、そのせいで木佐が来たのも解らなくなったらどうしよう、と思ったのだ。
それは困る。
昔、木佐の言葉も解らなくなったことがあったが、あんなことは二度とごめんだ。
(木佐さんが来たらすぐ解るようにしなくちゃ)
だから、浅井は薬を止めた。
食事と一緒に部屋の前に置かれる薬は、盆の上にそのまま戻すと両親からよく解らない言葉でうるさく叱られるので、全ての中身を窓から捨てるかトイレの水に流してしまう。
すると、少しずつまた浅井の目に、耳に、あの不思議なざわめきが戻り始めてきた。
ある日、上を向いたら久しぶりに天井と目があった。ぱっちりと赤い目を開く天井の染みが黒い涙を畳へ流したのは、多分戻ってこれた嬉し涙なのだろう。
「久しぶりだね。木佐さんは、まだこないよ」
布団に、窓に、天井に、押し入れに、天井からぶら下がる電灯に、浅井の声が染み込むと、部屋がざわりと騒ぎ出す。
アンタまだこんな場所にいたの?
木佐さんは迎えに来ないのかい?
今までどこにいってたの。
会えなくて寂しかったよ。
一つ一つの無機物の声に引き攣った笑みを浮かべて頷く浅井の体内に、何かが蠢く気配がした。
「たまご」
それは紛れもない卵の気配で、それが余りにも嬉しくて、浅井は畳の上に丸まると自分の体を抱きしめた。
「木佐さんのたまご」
★ ★ ★
卵の気配が解るなら、後はもう大丈夫だ。
あとはゆっくりと木佐さんを待てばいい。しかし、待てども暮らせども木佐さんが迎えに来る様子は一向に無かった。
窓の外の景色は前よりも一層真っ白になった雪景色で、道はタイヤの跡が二本だけどこまでも続いているのが良く見える。
いつの間にか部屋の中はいつか見たような赤と灰色の世界で塗りつぶされていて、天井から目玉の流す粘液やぺちゃぺちゃと喋る畳の目の唾液でしっとりと濡れていて、まるで誰かの体内に入っているようだ。
しかし、それなのにやたらと寒い。
誰かの体内なら、体温の一つくらいあっても良さそうなものなのに。
布団を肩から被って窓の外を見ていると、不意に布団に話しかけられた。
このまま、ここで待っていても良いのかな?
「どういうこと?」
木佐さんには迎えに来ると言われている。それなのに、待つ以外に何をすればいいのだろう。
もそもそと喋る布団に耳を当ててよく聞いてみると、布団はくぐもった声でぼそりとぼやくように言う。
『本当に会いたいなら、自分から探しに行かなくては』
『黙っていては、何も解決しないだろう』
「そうは言っても、」
どこに探しに行けば良いのか解らないじゃないか。と浅井が反論しようと顔を上げた時、窓の外にそびえる電柱の陰から手が伸びていて、こちらに向かって手招きしているのに気が付いた。
誰も隠れられそうにない細い電柱だ。
そこから、子供のような小さな手だけが生えるように伸びていて、おいでおいでと大きく振れている。
浅井はその手に見覚えがあった。
それは木佐に置いて行かれた都会から、この田舎に帰る時にも導いてくれたもの。
この田舎町で誰よりも、両親よりも浅井を気にしてくれた大事な友達。
細い電柱から、ちらりと髪の短い少女が顔を覗かせる。
「明乃ちゃんだ」
居るはずの無い小学二年生の明乃が、電柱から浅井を呼んでいた。
浅井は慌てて立ち上がると、上着も羽織らず靴下も履かないまま雪の積もった外へ、ふらふらと出て行った。
★ ★ ★
まだ明るいとはいえ、真冬の最中だ。
雪は浅井の脛まで積もっていて、一歩歩くごとに裸足につっかけただけのスニーカーには雪が入り込む。
常人ならば肌に噛み付く冷気にやられ、そう長くは薄着で居られない。が、目の前に次々と現れる手を追いかけるのに夢中の浅井はまるで冷気を感じないようにふらふらと進んでいく。
小さな頃の明乃の手は、電柱の陰や曲がり角。郵便ポストの裏などに次々と消えては現れ浅井の進む道を教えてくれている。
「明乃ちゃん、待ってよ」
昔ならばいざ知らず、長い事まともに歩いていない浅井は数メートルも進まぬうちにすぐに息が上がってしまうが、それでも立ち止まることはしなかった。
途中途中ですれ違う人が変な目で浅井を見ていたが、気にしてはいけない。とにかく、まずはあの手を見失わないようにしなければいけなかった。
花屋の前と肉屋の前を通り過ぎ、市民会館の脇道に入って木々の間を潜り抜け、広い道路を横断する。雪に足を取られたり、浅井自身がふらついていたりで随分時間がかかったが、そこはそう遠くは無い場所だ。それどころか、頭が更におかしくなる前ならば五分もかからず来れた場所だ。
人通りの少ない河川敷。
小さな明乃と初めて会った場所。
雪が積もっていて、今はあの頃とはまるで違う風景になっているけれど、確かにそこは小さな明乃が一人で泣いていたあの河川敷だった。
そこに辿りついた時、浅井を導く手は消えた。
「木佐さん……?」
誰もいない河川敷。
鉄さびだらけの手すりと雪の中に真っ直ぐ伸びる一本道。氷と氷の合間を通り抜ける川の水音だけが全ての世界。
てっきり、木佐さんのいるところに連れて行ってくれるのかと思っていた浅井は、きょろきょろと左右を見回しながら一本道へ入っていく。
ぎし、ぎし、と溶けかけた雪の軋む音。
枯れた草の茎が雪の間からまばらに伸びていた。
水の音だけが聞こえる。
冷え過ぎた体が痛くて熱い。
木佐さん、ともう一度呼ぼうとして、出来なかった。
誰もいない。
浅井はこの感覚を知っている。
『誰もお前を迎えに来ないよ』
後ろから女の子の声が聞こえて、慌てて振り返った。
誰もいない。
『お前なんか迎えに来ないよ』
振り返る。
誰もいない。
来ないよ。
お前なんか。
迎えに来ない。
待ってても無駄。
それからくすくすと笑う声に変わったが、辺りを見回してみても誰もいない。無機物では無い。どこかで見ているはずなのに、木の裏に川の中にも空の上にも草の影にも誰もいない。明乃の声に似ているが、明乃ではない。知らない人だ。唐突に怖くなった浅井は誰もいない場所に向かって大声で反論した。
「そんなことは無い!! 木佐さんは来るんだ!! 約束したんだ!! 絶対来るに決まってる」
言葉は無い。でも見ているのは解る。こちらを見ていて、声を出さずに笑っている。馬鹿にしている。浅井には解る。寒いはずなのに、全身からドッと汗が噴き出してきた。
怖い。
「何なんだよお前!! 何も知らないくせに何が面白いんだよ!! 出てこいよ!! さっきから影でコソコソ笑って、気持ち悪ぃんだよ!!」
叫ぶように空に向かって怒鳴りつけるも、返ってくるのは沈黙だけだ。
久しぶりに上げた大声に肺が疲れ、肩で息をしていると今度はすぐ耳元で小さな少女の笑い声が聞こえた。
「じゃあ、どうして誰も来てくれないの?」
やたらとリアルなその声を振り払うように腕を振り上げる。しかし、肉の無い腕は空を切っただけだった。
誰もいない。
誰もいない。
誰もいない。
誰も迎えに来ない。
気が付けば声が、あちこちから無機物の声が聞こえる。浅井を見て笑っている。来もしない人を待ち続ける愚かな男を馬鹿にして笑っている。
げげぎゃげげぎゃぎゃははははぐははぐははくすすくすすぐわはははぐわはは。
あいつは馬鹿だな。
まだ待っているつもりでいるよ。
もう誰も来ないのに。
馬鹿だなあいつは。
あいつは馬鹿だ。
「黙れ!!」
頭を押さえて掻きむしり、無機物達に怒鳴りつけるが声たちは収まらない。
一層浅井を馬鹿にするように四方八方から囲んで罵詈雑言を浴びせかける。声はどんどん膨らんで、もう何を言っているのかも定かではないが、あまりの煩さに頭が割れそうなほどズキズキと痛みだした。
額を鈍器で割られて直接脳を引っ掻き回されるような苦痛に、浅井は立っている事も出来なくなってとうとう雪の上にへたり込む。
自分がここに居るのも解らなくなる程の声の塊に押しつぶされそうで、頭を抱えたまま浅井は大声で叫んだ。
力の限り大きな声で。とにかく罵詈雑言の塊に押しつぶされないようにしなければいけなかった。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
木佐さんは迎えに来ない。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
誰も迎えに来たりしない。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
お前はずーっと一人きり。
「わぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
大声で叫んでいるうちに、雪の上にぽろぽろと透明な水が零れ落ちるのに気が付いた。
それは、久しく流していない涙だった。
雪の上に蹲った浅井は、大声で叫びながら泣いていた。
木佐さんは迎えに来ると思っていた。
迎えに来ると思いたかった。
自分は愛されていると思っていた。
愛されていると思いたかった。
ねっとりと笑う優しい声。
体内の卵を感じようとする。
愛されていた。
そうでなかったとは考えない。考えたくない。嫌だ嫌だこれ以上は思い出したくない。違うんだ。違うんだ。アレはただのナメクジだった。俺は何も覚えていない。覚えていない。やめろ思い出すな。馬鹿にならなくちゃ。今すぐに馬鹿にならなくちゃ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、自分がここで何をしているのか解らなくなった。ただ凄く怖かった。逃げ出さなくちゃと思った。耳を塞いで雪の上を走り出した。早く逃げなくてはいけない。途中で靴は脱げた。裸足のまま大声で叫びながら雪の上を逃げる、逃げる、逃げる。
突然、視界が反転した。
途中で転んだのは、きっと雪の中から生えた半透明の手のせいだ。
起き上がろうと体を雪から持ち上げた時、うっかり空を見上げた浅井は目を見開いて悲鳴を上げた。
ぽっかりと赤い空に浮いた巨大な一つ目が、じっと浅井を見つめていた。
★ ★ ★
気が付いたら浅井はまた病院に居た。
河川敷の細道で、奇声を上げて一人で暴れていたのを見た人が警察を呼んだらしかったのだが、浅井はそのことを全く覚えていなかった。
脇には透明な液体が入った点滴が伸びていて、そこから伸びるチューブはどうやら腕の方につながっているようだった。変な声も目玉も無かったが、天井がぐるぐるとまわっている。ふと体を動かそうとすると、まったく動けない事に気が付いた。
体がベルトで固定されているのだ。
何かを考えようとしたが、頭の中がどよんと淀んで考える事が出来なかった。
遠くか近くか解らない所で声がしたが、それが今の声なのか記憶の声なのかが解らない。
あの子はもうダメかもしれない。
生きてても死んでても同じですから。
ずっとここに置いてやってください。
障害年金が出るそうです。
もう家では面倒見きれません。
家に借金があるんです。
果たして、これらは誰の声なのか、どんよりと目の前が曇ったようになっている浅井にはまるで見当もつかなかった。
★ ★ ★
夢か幻覚かは解らない。
確か、体を固定していたベルトは外してもらっていた気がする。
薄暗い、鉄格子のついた部屋の中で布団に潜って寝ていると、小さな女の子の声が聞こえたのだ。
「ねぇ、まだ木佐なんて待ってるの?」
ちょっと生意気そうなその声は、小さい頃の明乃の声に聞こえた。
うん、と浅井が頷くと、小さい明乃は「馬鹿だなぁ兄ちゃんは」と笑った。
「しょうがないから、一緒に居てやるよ。どうせ暇なんだろ?」
ありがとう、と言って声の方に目をやると、そこには誰も居なかった。
ぼんやりと、明乃ちゃんは元気かなぁと浅井は思った。
★ ★ ★
誰も来ない。
誰も迎えに来ない。
ずっと誰も迎えに来ない。
まるで死んでしまったようだ。
いつから死んでいたのだろうか。
多分、結構前から死んでいたのだ。
いや、もしかしたらまだ生きている?
ああ、もうどうでも良い。なんでも良い。
木佐さんはいつ迎えに来るのか、解らなかった。
★ ★ ★
もうどれくらいの時間が経ったのかもよく解らなかった。
何度か入退院を繰り返したような気がするが、覚えているとも覚えていないともつかない随分とぼんやりした記憶しか浅井には無い。
ただ、随分と長い事あちらへ行ったりこちらへ行ったりしていたような気がする。身繕いをするのにも随分と時間がかかるので、最近は常に誰かが居るような気がするが、それが誰なのかは解る時と解らない時がある。知らない人という訳では無く、のっぺらぼうなのだ。それらが人間かどうかも定かではない。
ある日、誰かが浅井を迎えに来た。
確かその時は病院に居たはずだ。
浅井を迎えに来たと言うその人は、木佐ではなかった。誰が迎えに来たのかも解らなかったが、とにかく家とは違う場所に行かなくてはならないようだった。
両親は来ていなかったような気がする。
やたらと大きな車の後部座席に乗せられて運ばれる。まるで売られていく牛のようだと浅井は思った。
運転手のような何かの塊と二言三言何かを喋ったかもしれないが、何を喋ったのかもよく思い出せなかった。
ただ、何も出来ない浅井を他所に時間は進む。
★ ★ ★
知らないうちに自室に帰ってきていた。
いや、これは自室なのだろうか?
けれど、この部屋はどう見ても自室にしか見えなかった。
ここに来る前にもみくちゃにされたのは何だったのだろう。
詳細な事はあまりの速さに覚えていられなかったが、今は無理矢理着せられた着物の帯が食い込んで痛い。
引き戸が開いた。
誰かいる。
お兄さん。
知っているような声にのろのろと頭を上げると、スーツを着た見知らぬ男が立っていた。
多分、男だと思う。
少年と青年の中間くらいの年齢で、少し意地悪そうな目をしていた。丁度木佐を若くしたような感じの子だと思う。何より周囲はぼんやりしているのに、その子だけは浮き出たようにハッキリ見えているのが不思議だった。
男が、静かに近づいてくる。
「だれ……?」
知っているかもしれない。
知らないかもしれない。
一瞬、泣きそうな顔をした男だが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべるとその場に跪き、両腕で優しく浅井を抱きしめた。
「お帰りなさい。お兄ちゃん」




