紅を差す
低いテーブルの上にはファンデーションとピンクのアイシャドウ、そのほかにもビューラーやマスカラ、コンシーラー、何本もの口紅などの化粧道具が所せましと散りばめられている。
明乃は無造作に広げられた化粧品のうち、真っ赤な口紅を選んでテーブルの上から拾い上げた。
「ほら、塗ってあげるからこっちを向いて」
畳の上に尻もちをついたように座る青年の頬に手を添えて、膝立ちになった明乃は彼の顔を上げさせる。と、無粋な髭の生えぬよう脱毛を施された彼の頬はひたりと明乃の手に吸い付いた。
怯えた子犬のように目を泳がせる彼に喉の奥で低く笑った明乃は慣れたように紅筆を使って男の唇に朱を入れ始めた。一つ間違えれば下品な色にもなってしまいそうな血のように真っ赤な口紅は、不思議とその生白い青年の端正な顔に似合っていた。
「すごく綺麗だよ。お兄さん……」
化粧を施された、女性には寸分たりとも見えない男。しかし、紫色の浴衣に包まれた肉のない肢体と困惑するような潤った瞳、そして唇に施された血のような紅のせいか、その青年からは女では到底醸し出せない不可思議な色気が放たれていた。
「ね、もう、嫌だよ」
濃いめにアイシャドウを塗られた瞼が伏せられ、成熟した体格に見合わない舌足らずな言葉と共に青年はむずがるように明乃から顔をそむけようとする。が、それは許されることではない。
「ダメ。ちゃんとこっちを見て」
テーブルに紅筆を置いた明乃の両手が青年の頬を包み込み、優しく、しかし有無を言わせない迫力を持って視線を合わせる。半ば無理矢理顔を突き合わされると、青年はそれ以上抵抗する事はなく、明乃の黒い瞳をじっと見つめ返した。
明乃は痛いことや傷をつけるようなことはしない。直接的な暴力で誰かを従わせるような下品な真似は絶対しない。だから、本当に嫌ならば青年が逃げ出す事は容易い事なのだ。しかし、彼は無理をしてまでその場所から逃れようとはしなかった。魔法にでもかけられたように、青年はぼんやりと明乃を見ている。
「可愛いよお兄さん。本当にすごく可愛い……」
明乃は自らが化粧を施した青年の頬を愛おしげに撫で、そして先ほど着つけてやった女物の浴衣の帯を解いた。はらりと紫色の浴衣の裾がはだけて青年の胸元が開くや、明乃は紅の差された薄い唇に深く噛み付くように口づけた。
「ん、むぅ……んぐっ」
くちくちと唇に舌を差し込んで唾液を貪る音が静まり返った部屋の中に響き渡る。それはとても長い口づけだった。やがて口内中を貪られ、酸欠に陥った青年は尚も纏わりつこうとする明乃の体を強く押す。ようやく唇が離れると、青年はふぅふぅと息をついて酸素を取り込みながら、首を振った。
「ダメだよ。あけのちゃ……もう……」
「何がダメなのかな? ほら、こっちを向いて、私を見て、目を合わせて、キチンと教えて」
うっとりと、熱っぽく囁くように明乃が問いただすと、青年は瞳の奥を潤ませて、少し逡巡してから口を開いた。
「だって……これ以上明乃ちゃんに取られたら、居なくなっちゃうから……」
「何が?」
「卵が……木佐さんの、なのに……卵、最近はずっと明乃ちゃんに取られてばっかりだから、あんまりするともう無くなっちゃうか、ら……」
眼球だけを忙しく右往左往させ、ぽつぽつと漏らすように言う青年に、明乃はにっこりと笑んでゆっくり二度、三度頷いた。
「いいのですよ。あの人の卵は全部私が引き受けますから。安心してください」
そして男物のダークスーツを着た明乃は青年の頭を胸に抱いて、子守唄を歌うように囁いた。
「貴方は私の子を孕んでください。あんな男のことは忘れて、私の子だけを孕んでください。そして私の愛情だけを食べて、私の子を産んでください。貴方が孕んだと認識するまで何度だって愛してあげますからね。私だけを見て、私だけを受け入れて、私だけを愛して下さい」
愛しています。愛しています。愛しています。と呪文のように、熱にうなされるように唱えて青年の額に口づけをした男装の娘は、手ずから女装させた青年の体を畳の上にそっと押し倒したのだった。