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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編作品

崩壊

作者: 武田章利

 台風の直撃で堤防が決壊して、泥色の水が町を飲み込んでいる。そんな写真で飾られた朝刊の一面、死者と行方不明者と怪我人の数を探して、まだ死者が出ていないことに安心した。そういえば少し前には、火山が噴火したというニュースもあった。日本のいろんなところで災害が起きて、幸運にも私はそのどれにも当たってはいないが、本当に、これは運の問題なのだろうか、と、時々そんなことを思う。スマホでネットを見てみると、顔の分からない不特定多数の人たちが、思ったことを思ったままに書き込んでいる。災害が続くと出てくるのが陰謀論だ。読んでみると発想は面白いが、これを考えたり言ったりしている人の頭は、きっと現実の生活から外れたところで動いているのだろうと思えてくる。それから、環境破壊問題と結びつけられた発言。真偽はともかくとしても、陰謀論よりは現実的で、おそらくみんながある程度身近に感じているはずだ。最後にスピリチュアル的な発言。もっともらしいことを言う人たちもいれば、とんでもなく酷い内容もある。例えば、災害に遭うのは過去の悪事に対する償いだ、という言い方は、何も解決してくれないし何の慰めにもならない。それに、だとすると災害に遭遇していない私の過去には悪事がなかったのだろうか。こんな生気のない人間に? スピリチュアルなことを言われると腹が立つ。その内容が正しいかどうかの判断は誰にもできないからだ。もしかすると悪事のせいで災害に遭うのかもしれない。行いのせいで私の背がそんなに高くなかったり胸が小さかったりするのかもしれない。だけどそうだとして、いったい私はどうすればいいのだろう。分かってもいないのに分かったようなことを言う人たちは、結局のところ、生気の抜けた肉人形のように生きている私と何も変わらない。だから、私は無表情でスマホの明るい画面を見ながらいつも思うのだ。日本なんて潰れてしまえばいいのに、と。

 ピコン、と、小さな音がして、ラインのメッセージが送られてきた。カシワからだ。ほんの少しだけ付き合っていたからか、今でも彼氏面をしてくる嫌なやつだ。私と違って活動的、だけど人の気持ちを考えようとはしないやつ。メッセージを読まずに放っておいてもいいが、そうすると電話をかけてくるかもしれない。そうなると厄介だ。無視をし続けてもどこまでも追いかけてくるカシワはもうストーカーだ。下手をすると家にまで来られるかもしれない。そう考えるとぞっとして、指は素早くメッセージを確認していた。

「今日のデモ、一緒に行こう!」

 本当に頭の悪いやつだと思う。どんな神経でこんな誘いを私に送ってきたのだろう。基本的に外には出ない、出たとしてもだいたい一人で人ごみを避けて動いている、そんな私にデモに参加しようなんてよく言えたものだ。それとも知り合い全員にでも声をかけているのだろうか。ともかくこんな誘いは早々に断ってしまうのがいい。

「今日はプールに行くから無理。返信不要」

 これで引き下がってくれればいいが、と、一抹の不安が残る。出会ったころから強引で、自分の情欲をうまく隠せないやつだった。初めて会ったのは大学の講義の時。たまたま同じ講義を受けていて、終わった時に彼から声をかけられた。食事の誘いだったので断ると、「なら何なら一緒に来てくれる?」と質問された。「一緒には行かない」と言ったが、カシワは引き下がらなかった。講義室に人がいなくなってもしつこく言い寄ってくるので、「今日はもう帰ります」と立ち上がったら腕を掴まれた。思ったより汗ばんでなくて、その時はちょっとだけ爽やかだと思ったから、「途中まで一緒に帰るだけなら」と妥協した。でもそれが間違いだった。帰り道、カシワはずっと「付き合ってくれ」とばかり言って、周りの目も気にしていなかった。このあたりから「こいつはバカだ」と思い始めたのだけど、本当にしつこくて周りの目も気になって恥ずかしくもあったので、私は逃げるように「だったら三日だけ」と言ってしまった。

 そして始まった恋人生活の一日目、つまり付き合い始めた当日、まず電話番号と住所を聞かれた。仕方なく電話番号を教え、住所は拒否した。それでもカシワはずっと私に付いてきて、結局一人暮らしをしているアパートまで来てしまった。部屋には上げなかったが、帰った直後に電話が鳴り、それから約一時間、中身のない話を延々と聞かされた。そして最後に「明日は食事をしよう」と言われたので、「学食なら」と妥協した。

 二日目、忘れたふりをして帰ろうとしていると、カシワから電話があった。もちろん学食へ来るよう促す電話で、仕方なく一緒に食べることにした。サラダを一皿だけ取って彼の前に座ると、「栄養が足りない」とか「それだから暗く見えるんだ」とか散々なことを、学生で溢れかえる学食のなかで大声で言われた。カシワは唐揚げ定食だった。スポーツをしているのか肉付きは良く、背もそこそこに高い。私なんか捻り潰されそうなくらいだが、恐怖を感じたことはない。ただ、頭の悪いやつだとずっと思っている。彼は食事を終えると、ぎらぎらした脂っこい目付きで私を見てきた。これはつまり、セックスがしたいのだなと直感したので、「今日は一人で帰る」と言うと、「彼女を家まで送らない彼氏は駄目だ」と言いだし、結局一緒に帰ることになった。さすがに家のなかに上げたくはなかったので、そのための口実を帰り道の間ずっと考えていたが、よいアイディアは思い浮かばず、案の定、カシワは部屋に上がると言いだした。何と言って断ろうかと考えていると、いきなり彼に抱きしめられて、キスを強要されたので必死に抵抗した。彼も必死で私の唇を追いかけてきたが腹が立ってきたので「クソ野郎!」と罵ると、一瞬、彼の体がびくっと震えて、おとなしく引き下がった。カシワの存在が心底許せなかったので、「お前とセックスは絶対にしない」と言ってやった。それで帰ってくれるかと思ったら、彼はニヤリと脂っぽい笑いを浮かべて、「そのうちしたくなるさ」と言ってきた。たぶんその時の私の顔は真っ赤だったと思う。自分にもまだこれだけ他人に対する感情が残っていたのかと驚いたくらいだ。私はとにかくカシワに怒りを感じて、こいつを失望させてやりたいと思い、つい、「性病うつる覚悟あんのか?」と出任せを言ってしまった。それでも、その時のカシワの表情は忘れられない。恥をかいた子供のように惨めで情けない顔をして数歩後ずさり、どもりながら「だ、だ、だ、誰にうつされたんだ?」と半分裏返った声で聞いてきた。「クソ野郎」と返すと、それでもカシワは食い下がって、「だ、だったら治療してるのか? ちゃんと治してるのか?」と言ってきたので、「何もしてない」と言うと、もう半分以上泣き出しそうな顔をしながら、彼の意地は「それは良くない。すぐに病院へ行くんだ。連れて行くから、すぐに行こう。今すぐに」と呟くような小さな声を出した。自分で蒔いた種、と言えばそうなのだが、何かを言われる度に怒りが増していき、ついに私は、カシワの脛を思い切り蹴り飛ばしてやった。私の細い足でも、ちゃんと当たれば痛いようで、カシワはぐっと声を我慢しながらうずくまった。最後に、「クソ野郎。二度と恋人だとか抜かしたら、その顔を廃墟みたいにしてやる」と言ってやって、大きな足音を立てながら自分の部屋に戻った。

 それからは確かに、私のことを「彼女」だとは言わないが、内心では一人で恋人ごっこを妄想しているはずだ。カシワは時々電話をかけてくるし、ラインも送ってくる。無視すると、こっちが返事をするまで諦めない。用事は様々で、母の日のプレゼントを一緒に選んでほしい、だとか、たまには食事を一緒にしよう、だとか、ライヴに行こう、だとか、つまり、恋人感覚だ。その全てを断ってきているが、カシワはしつこい。そしてやはり彼は、私とセックスをすることを目的として動いている。彼がラインを送る時の指遣いが想像できる。いやらしくて気持ち悪い。

 また、ピコン、と音がした。もちろんカシワだ。

「どこのプールに行くの? 俺も行く」

 読んだ瞬間にいらっとして、「クソ野郎」と思わず声が出てしまった。素早く返信を打って、怒りをぶつけたい。

「はやくデモに行って熱中症にでもなってろ、クソ野郎」

 それからしばらく時間が経っても、カシワからの返信は来なかった。既読にはなっているから、さすがに諦めたのだろう。いらいらとする気分を抱えたまま窓を開けると、朝の日差しに充満している蝉の声が流れ込んできた。とてもうるさくて頭がガンガンする。だけれど、カシワの存在よりはいくらもましだ。蝉の声は澄んでいる。彼らには、私を傷付けようとする意志なんてこれっぽっちもない。だから、この頭の痛さも気持ち良く感じることができる。そうして額に滲む汗は、夏に燃える私の感情だ。それは心地悪いものだが、同時にとても気持ちいい。私はその、夏独特の情動に従ってプールへ行く。家を出て、暑い道をとぼとぼと歩きながら、きっと私は今日も思うはずだ。こんな日本なんて、潰れてしまえばいいのに、と。


   ◇


 水に入るのは好きなのに、水着を買いに行こうとはぜんぜん思わない。お店にあるのは可愛く着飾った派手めの水着ばかりで、見ているとむかむかする。かといって競泳用の水着となると、私には似合わない。だから私は、今でも高校生の時に着ていたスクール水着を使っている。童顔で背も低いから、その格好になれば周りからは高校生だと思われているかもしれない。でもそんなものでいい。自分がどう思われるかなんて大した問題じゃない。実害がない限りは。

 休日だから人が多いかと思っていたが、そうでもない。プールに入っているのは六人。監視員が一人いて、プールサイドの椅子に二人が座っている。きっと私と同じくらいの年の女の子が二人、ずっと話をしている。屋内プールだから、日焼けをする心配もなく、ずっとそうやって楽しめるのだろうか。何が楽しいのだろう。時々、周りの人たちを見ていると思う。何が楽しいのだろう。

 手首と足首を回し、アキレス腱をゆっくりと伸ばしてから、プールサイドの隅に置いてある青いビート板をひとつ取る。それを持ってゆっくりと足からプールに入り、少しだけ冷たい水の感触に身を縮めて、それから、ゆっくりと息を吐き出しながら体に入った力を抜いていく。二十五メートルプールも、私には少しだけ大きい。泳げない距離ではないし、上から眺めることができたら、「なんだ」と思ってしまうくらいの大きさのはずだ。でも、ここに入れられている水の量は、人間一人にとっては多すぎる。この量、圧力、それらを思うと身震いする。だから私は、二十五メートルプールに勝負を挑んだりはしない。勝てる見込みなんてないから、最初から仲良くしておくほうがいい。

 プールは七レーンあって、左の二レーンは歩行用、その隣二レーンは泳ぐ用、残りの三レーンが自由スペースとなっている。私は自由スペースで、両足の膝裏でビート板を挟み、背泳の要領で水に浮かぶ。頭を水の方に下げると体全体が浮かび、両手の先で少しだけバランスを取ると、そのままの状態で浮かんでいられる。目のすぐ横で揺れている私の髪の毛を見ていると、南の島の綺麗な海に浮かんでいるような気がしてくる。だけどまっすぐ見上げると、無機質な天井が高い場所にあって、少し味気ない。でもこの状態はとても落ち着く。ゆらゆらと揺れる水の感触は、まるで幻の世界を見せてくれているようだし、水のなかに完全に浸かっている耳からは、くぐもった重い音が絶えず入ってくる。日常世界もずっとこうならいいのに、と思う。

 魚はきっと、自分のことを水だと思っている。あんなに自由に水のなかを動けるのだし、陸上の生物と違って、ずっと水のなかにいても平気なのだ。彼らが実際に水の一部であったとしても、何も問題はない。それに比べて人間は、どんなに長い時間を水に浮かんで過ごしたとしても、ずっと異物のままだ。水に溶けることもないのだから、分かり合えることもない。でも死んでしまったらどうだろう。魚に食べられたりバクテリアにぼろぼろにされたりして、水のなかに消えていけるだろうか。分かり合えるだろうか。それともやっぱり、最後の最後まで異物だろうか。

 水の音のなかに、少しだけ大きな人の声が混じってきて、ずっと続いているので体を上げた。プールの床に足が着くと、なんだか落ち着かない。まるで囚人になったような気分がする。

「そこの君、キャップが外れているよ」

 声は私に向かっていた。監視員が私のすぐ右側を指差して、キャップのジェスチャーをしている。このプールはキャップを被らないと入ることができないので、キャップが外れでもしたら、すぐに監視員に注意をされる。ゆっくりと水の抵抗を感じながら腕を動かして、ぷかぷかと浮かんでいる紺色のキャップを取った。髪を上げたりはせずに、そのまますぽっと被る。すると監視員は何も言わずに、満足そうな動きをしながら私に背中を向けた。

「そこの君、キャップが外れているよ」

 と、私は監視員の言葉を小さな声で復唱した。どんな気持ちで言ったのか、少しだけでも分かるかもしれない、と思ったのだ。高校生みたいに見えるスクール水着を付けた根暗な表情の女に声を掛けるのって、きっと勇気がいったに違いない。悪いことをしてしまったような気がする。私はきっと、人にどう思われようが気にしない、のではなくて、人にどうにか思われることに罪悪感が湧くのだ。昔はこんなに根暗でもなかった気がする。何が原因だろう。でも、まだカシワに怒りを感じて暴力を振るえるくらいには、感情的な何かが残っている。だから私はまだ、人間をしているのだ。水に溶けることのできない、異物のような人間を。

 もう一度、ビート板を膝裏で挟んで浮かぶ。水のなかに耳が浸かっていると、自分の呼吸音まで大きく聞こえて面白い。この呼吸で生まれる私の筋肉の動きが、水に伝わってプールを揺らすのだ。でも、この大量の水に私の力は分散していき、すぐになくなってしまう。溶けていってる。体は溶けないのに、力は水のなかに満遍なく溶けていく。気持ちいい。目を瞑る。音がさらに大きくなって、私は幻の世界にたゆたう、太古の人間になる。水でできた、太古の人間に。


   ◇


 きっと水のなかに浸かっていたのは一時間くらい。浮かんでいる間は気持ちいいのに、地上に上がると、この体の重さが鬱陶しい。時々、汚らしいと感じることもある。わたしの体重は四十キロくらいだから、プールに入れられた水の総量に比べるとわずかなものだ。なのに私は、この四十キロのなかに閉じ込められていて、私の世界は、この重みのなかにしかない。そう考えると、決して大きな数字ではないはずなのに、私には重たいのだ。この、体が。水は水で、あんなに大きなものを抱えているのに。

 プールを出て、ぴたぴたと足音をさせながらシャワー室に向かう。それはひとつの救いだ。水から上がった直後は、おそらくまだ、地上の生活に馴染めない状態なのだと思う。私は戸惑っている。どうしたらいいか分からなくて、もしかすると、呼吸の仕方から覚えないといけないかもしれない。だから、暖かいシャワーを浴びて、地上を思い出さないといけない。

 シャワー室に入る手前で、私を呼ぶ声がした。どうしてだろう、立ち止まってしまった。この声は知っている。むかむかする声だ。死骸をついばむカラスを見たときのような、真っ黒い嫌悪感を吐き出したくなる声。振り向いてはいけない。振り向いては……。

「おい、聞こえてるだろ! こっち向けよ」

 このクズ野郎! 大声出して恥ずかしくないのか。……きっと、私は怒りで振り向いたのだと思う。肩で息をしながら、そこにはカシワが立っていた。今すぐこいつの股間を蹴り上げて踏みつけてやりたい。でも、私はこんな場所で、目立ちたくはない。

「どうしてここが分かったの?」

「そんなことはどうでもいいだろ。それより、デモに行こう。まだ始まってないし、今から行けば間に合う」

「馬鹿じゃないの。まだ恋人のつもりでいるんなら、鏡を見たほうがいいんじゃない。あんた、人間の顔してないよ」

「おい、あんまり俺を怒らすなよ」

 心臓が寒気で震えて、硬直した。まずい、カシワが近付いてくる。怒りたいのは私だ。このストーカー男、でも、こいつは今逆ギレして、どんどん私に近付いてくる。体が動かない。細い足と腕が縮こまって震えている。声も出ない。

「大人しくしてりゃ、いい気になりやがって。お前みたいな根暗女が男と一緒にいられるだけでもありがたく思えよ」

 左手首を強い力で握られた。痛い、でも、声はでない。唇が震えて寒気がする。だけど、体の奥は変に熱いような気がする。掴まれた左手首を上げられて、そのまま壁に押し付けられた。痛い。そしてカシワの左手が水着の上から胸を触ってくる。分厚い手が、ほとんどない私の胸を、まるで何かを探しているみたいに蠢く。気持ちが悪い。本当に気持ちが悪い。気持ちが、気持ちが、気持ちが……

「おえっ」

 嘔吐する直前の声が出た。カシワの手が止まる。でも次には、右の頬を叩かれた。びしっと音が響いて、目のすぐ下にひりひりする痛みを感じる。痛い、痛い……。カシワは、初めて万引きに成功した中学生のような、そんな恐れと喜びが入り混じった目をして、私を見下ろしている。手首を握っているこいつの手も、少しだけ震えている。こいつ、やっぱりクズだ。

「お、おい、声、声、声出すんじゃねえぞ、馬鹿女が。黙って、喘いでりゃいいんだよ」

 声が、震えている。そしてまた、左手で私の胸を探り出した。気持ち悪い。だけど、寒気はもうない。今ではむしろ悔しい。こんなやつに、少しだけでもびびってしまった自分に吐き気がする。右手をカシワの顔に押し当てて、ともかく引き離そうと力を入れる。だけど私の腕なんて、こいつからするとマッチ棒みたいなものだ。すぐに振り払われ、また胸を探られる。私はまたすぐにカシワの顔を押しやる。それを何度か繰り返していると、とうとう胸を探すのを諦めて、このクズは腰に手を回してきた。そのまま勢いで近付いてきて、顔を、いや、変にべとべとした分厚い唇を、私の顔に押し当てようとしてくる。生暖かい、情念の腐臭が顔に当たる。

「やめろ、この変態!」

「静かにしろって言ってるだろ、一緒に楽しくなろうぜ」

 顔を左右に振って、なんとかこいつの唇から逃れようとしていると、今度は頭を抑えられた。近付き過ぎていて、足は動かせない。残った右手をもう一度カシワの顔に押し当てて引き離そうとするが、どんどん近付いてくる。私の力なんて、紙切れみたいなもんだ。

「はぁはぁ、はぁはぁ、はぁはぁ」

 唇が、唇が、唇が……近付いてくる、嫌だ、嫌だ、こんなやつに私の何かを奪われてたまるか! この目に、この、いやらしく充血して脂ぎった目に、これ以上見つめられてたまるか!

 次の瞬間、私は自分の右手親指に、ぶちゅっ、という感触と音を聞いた。固いのは一瞬、少しだけ力を込めると、私の細い指は角膜を突き破って、カシワの左目の開ききった瞳孔から眼球内に入り、ゼリー状の少し暖かい何かをぐちゅぐちゅとかき回した。

「あぎやああああああああああかかはははががじゃぼがじゃぎょじゃあっがががあじゃっじゃ!!」

 耳をつんざくようなカシワの悲鳴に、思わず目を閉じて体を強張らせる。でもすぐに、私はカシワから自由になった。指を抜くと、先がぬめっとした血で濡れていて、筆を振るように右腕をしならせると、ぴちょぴちょっとほんの小さな音を立てて、床に血が付いた。その後ろにまでカシワは叫びながら後ずさりして、左目を押さえてうずくまる。

 この建物全体の空気が止まった。しばらく何の動きも起こらず、ただカシワが悲鳴を上げてのたうちまわっているだけ。私はただ、そんな彼を見下ろしている。なんだろう、この、からっぽな感じ。でもわずかに、私の心のなかに、今までなかったものが存在している。カシワが、憎くない。酷いことをしてしまったという罪悪感はこれっぽっちもない。ただ、憐れだと思う。こんなやつでも、生きていかないといけないのだと思うと、なんだかとても、自分のことのように重苦しい。

 ばたばたと音がし始めた。人の声がして、こちらに向かってきている。眼球の奥の感触は気持ちが良かった。この国が潰れていくとすれば、きっとその時も、気持ちが良いに違いない。私はずっと、自分が適応できないこの地上世界を疎んできたが、今はちょっと違う。今は、目の前で血を流しながら転げ回っている、この憐れな男のために、この日本が潰れてしまえばいいと思っている。カシワが、もうこんな生き方をしなくてもいいように、日本が潰れてしまえばいいと、そう、思っている。

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