三題小説第十三弾『トンネル』『雨』『飛行機』
台風の直撃した空港は多くの足止め客で混雑していた。僕は運よくベンチに座る事が出来たが、壁や柱にもたれかかりつつ床に座っている者もちらほらいる。
少し申し訳ない気分になりつつも文化祭のような活気を感じてわくわくする自分がいた。そしてさらに申し訳無い気持ちになる。
窓から見える景色は真昼間にもかかわらず薄暗い。窓ガラスを大粒の雨粒が無限に叩き続けている。
飛行機に雨、そしてこの薄暗さは僕を過去へと押し戻す。僕が初恋をする少し前へと。
それは10年以上も前の小学五年生の時だ。季節は梅雨で、台風ではなかったと思うがその日も大雨だった。
僕は全身もランドセルもびしょびしょに濡らして下校していた。歩くでもなく走るでもなくだったが、家路を急いでいたとは思う。
高速道路を潜る歩行者用トンネルに入った瞬間、トンネルの先の、その女子に気付いた。電灯が不調なトンネルの中ではシルエットくらいしか分からない。だが、学区の端にあるこのトンネルを下校時に通る女子は一人しかいなかった。ちなみに男子は僕しかいない。
それは時津ハナだった。同じ学校、同じ学年、同じクラスの女子だ。5年間同じクラスになった稀有なクラスメイトの一人だ。
当時の僕は多くの男子と同じく、女子を理解不能な存在と見なしていた。ともすれば敵だったかもしれない。時津ハナに関しては、ずっと同じクラスだったので他の女子と比べれば幾分マシだったとは思う。
そういうわけで目の前に現れた時津ハナに取るべき態度はキッズサイズの威嚇だった。とはいえそこはやはり男だ。自覚はなくとも女子と仲良くなりたいという深層心理を秘めていたのだろう。
結局僕は豪雨を眺める時津ハナの赤いランドセルに話しかけた。できるだけぶっきらぼうな態度で。
「何してんの?」
よく蓄勢していたバネのように振り返った時津ハナは目を丸くして僕を見つめた。手には紙飛行機が握られていた。
ヘアピンで複雑に整えられた髪とシックな大人っぽい服だった気がする。確かこの年ごろから目に見えて女子達の服装が変わっていったという記憶があった。彼女も男子の遥か先を進む女子の一人だったのだ。
それでも顔立ちは子供っぽく化粧等はまだしていなかったと思う。僕が気付かなかっただけかもしれないけれど。
僕は目を合わせたり合わせなかったりしてそわそわしていたのだが、彼女は真っ直ぐに僕を見つめていた事をよく覚えている。
「何って……? 雨宿りだけど。乙部君もでしょ。私も途中までは友達の傘に入れてもらっていたんだけど、トンネルに入ってる間に雨脚が強くなっちゃってさ」そう言って時津ハナは壁にもたれてランドセルを抱えて座った。「どうしたの? 座らないの?」
「うん。まあ雨強いし仕方ないかな」などと言い訳しながら時津ハナの向かいに座ろうとする。
「そっちに座ったら通行の邪魔になるでしょ」
なんといっても歩行者用のトンネルなので確かに道幅は狭いのだ。僕は何事かをぶつぶつと呟きながら、だけど素直に従った。時津ハナの隣に透明人間でも座っているかのように距離をあけて座る。
「乙部君は今日のテストどうだった?」
抱えたランドセルにぴたりと頬をくっ付けて時津ハナは言った。僕は誰かがトンネルの向こうから来ないかちらちら見ながら答えた。
「どうって、別に……」
「良かったの? 悪かったの? 良くも悪くもなかったの?」
「良くも悪くもないよ。68点」
「そっかー」
「何だよ」
「悪いね」
「ほっとけ」
時津ハナは抱えたランドセルの上で紙飛行機をもてあそぶ。どうやらその日のテストのようだった。
「時津は?」
例えばこの状況を女子に見られたらと想像すると最悪な光景しか思い浮かばなかった。男子に見られた場合に比べれば遥かにマシだが。
「ん?」
「テスト」
「良くなかったね。少なくともお母さんはそう言うだろうなー」
「何点?」
「87点」
「良い点じゃん。俺と比べたら時津の方が全然マシ。それで怒られるの?」
「別に怒られはしないよ。悲しい顔してため息つくの。それで2,3個のお小言ね」
「ふうん」
厳しい家庭もあるもんだな、と思った。我が母は学校のテストなど無頓着で出来について何かを言われた記憶は一つもない。良い点を取って褒められた事も悪い点を取って貶された事もない。子に無関心という訳ではなくテストに無関心だったようだ。
とはいえ僕自身はテストというものに良い感情は持っていなかった。おそらく世間の、つまりクラスの皆のテストに対する反応を見て知らず知らず悪感情を持ったのだろう。
「シナセンって抜き打ちテストばっかだよなあ。他のクラスよりテスト多いらしいよ。あいつ授業が面倒でテストばっかしてんじゃねえかって言われてるし」
シナセンというのは品田先生のあだ名だ。誰が言い始めたのか分からない。大抵の先生には○○センというあだ名がついていた。
「テストの準備も採点も大変だって聞いた事あるよ。授業もそうだけど。面倒だからって理由でやれるものじゃないよ」
「でもあいつ贔屓ばっかじゃん。成績良いやつばっか褒めてるし、宿題忘れたくらいでうるさいし」
などと反論になっていない反論をした。
「成績良い人しか褒めようがないし宿題忘れなきゃ良い話でしょ」
と言われれば僕は黙ってしまうしかないのだった。本当にあの頃の僕は考えなしだったな。
「でもね」と時津ハナは続ける。「そんな事より私にそんな事を言ってもいいの?」
「何が?」
「そんな事を言ってたって先生に知られてもいいの?」
「は? チクんの?」と強気な態度を見せてみても時津ハナに目を見つめられてしまうと押し黙る僕。
「チクらないよ。だけどチクられたくないなら何で私にそんな事を言ったの?」
「時津が秘密にしてくれればいいだろ……」
「どうして他人が秘密を守ってくれるって思えるのよ。今、乙部君自身すら守れなかった秘密だよ?」
「だけど。だって」
「とにかく誰かに聞かれちゃ駄目な事は誰にも言わない事ね」
ピシャリと言われてその話は終わってしまった。
僕は黙って、頭の中でぐるぐると言い訳を考えていたような気がする。結局何も言い返す事が出来なかった事は覚えている。
雨は降り止む気配を見せず、むしろより強くなったような気さえした。まるで滝のような音でトンネルの中に反響していた。入口は水のカーテンでもかけているかのようだった。
「暇だし宿題やろうよ」
「え? ここで?」
「どこでやっても同じだよ。外で宿題した事を先生に怒られたりしないしね」
時津ハナはくすくす笑いながらランドセルを開き、意気揚々と文房具やドリルを取り出していた。
僕も渋々という態度を取りながら準備をする。内心は少し嬉しかった気がする。外で宿題をするなどという出来事など初めてだったからだろうか。あるいは誰かと宿題をするのが初めてだったからかもしれない。あの頃の僕にとって友達とはただひたすらに一緒に遊ぶ存在だった。
ほとんど会話らしい会話もなく宿題をしていた。小学生の宿題に難しくて分からないというようなものはまずない。漢字ドリルを埋め計算ドリルを解いていくだけだ。それでも何か心地よい気分でいた。その時には僕の中で何かが変わっていたのかもしれない。結局最初に宿題に飽きたのは僕だったけど。
僕は適当にノートを破って紙飛行機を折り始めた。時津ハナはすぐに気付いたようでこちらをじっと見つめていた。その視線に心内でどぎまぎしながら紙飛行機を折っていく。正直なところ時津ハナが紙飛行機を持っていた事を見越していた。怒られるかもしれない期待――小学生男子特有のあれだ――と何かしらのプラスな反応に対する期待を抱いていた。
結局最後まで折り終えても何一つ反応はなかった。僕の視界の端で時津ハナが手元の紙飛行機に視線を送っている事には気付いていたが、僕の方から何かを言う事もなかった。
そういうわけでその紙飛行機をトンネルのやって来た方向へと飛ばした。紙飛行機は上手く揚力を発生させてトンネルの半分を越えるくらいまで飛んで行った。調節なしであそこまで飛ぶのはかなり上手くいった方だ。
「すごおい!!!」
時津ハナの聞いた事もない歓声がトンネルに木霊した。僕に詰め寄り、捲し立てる。
「すごいすごい! あんなに飛ぶ紙飛行機初めて見たよ! どうやったの!? 何か飛ばすコツとかあるの? それとも紙飛行機自体の出来が良かったの? そういえば翼の後ろを調節してたよね? あれよく見るけどどういう意味があるの?」
時津ハナのそのような高揚は初めて見た。僕は圧倒されて何も言葉が出てこない。
「ああ、ごめんね。それくらいびっくりしたんだよ。特別に紙飛行機が好きってわけでもなかったはずだけど。あんなにも飛ぶものなんだねえ」
「さっき紙飛行機折ってたろ」
ようやく捻りだした言葉も何が言いたいのかよく分からない。
「うん。あれは今日のテストだよ。捨てる事も破る事も出来なかったってだけね。それより私にも紙飛行機の飛ばし方教えて! コツとか折り方とか」
「ええっと。重心が中心より前になるように折ると良いらしいよ。何でかは知らないけど」
「でもそれだと直ぐに落ちちゃうはずでしょ。前にこう、こういう風に」
時津ハナが真剣な眼差しと身振り手振りで訴える。
「そうならないように翼の後ろを曲げるんだよ。後はそのバランス。こう前後に振り子みたいにバランスが取れると良いらしい」
「なるほどー。そっか。よーし」
時津ハナは晴れやかな様子でドリルや文房具を片付け、早速紙飛行機を折り始めた。
まさか雨の日に外で紙飛行機で遊ぶ事になるとは思いもよらなかったな。
「ねえ乙部君。トンネルの向こうで待ってて」と、時津ハナは紙飛行機を構えて僕に言った。「それで受け取ったら調節して飛ばし返すの。それを何度もやれば飛距離がどんどん伸びるって寸法よ」
何度も取りに行くのが面倒なだけでは、と思ったが僕もその通りに思ったので口にはしなかった。トンネルの長さは30メートルくらいだろうか。反対の端で待機する。
シルエットの時津ハナが飛行機を飛ばすジェスチャーをするがどうやらトンネルの半分も飛ばなかったようだ。
トンネルを走って戻り紙飛行機を拾い上げる。かなり丁寧に折ってあって性格が滲み出ているようだ。
翼を調節して少し後ろに下がり時津ハナに向かって飛ばす。点滅する蛍光灯で彩られた斑な闇を突き進んでいく。紙飛行機もまた点滅しているように見え、安定した飛行で時津ハナの所まで届き、ふわりとその手の中に収まった。
そして彼女がまた翼を調節して飛ばす。飛距離が落ちた。二歩進んで一歩下がる。時津ハナが苦笑して手を振った。
つと人影が増える。時津ハナの後ろに誰かが現れた。何かを話しているが聞き取れない。
不安の気持ちを抑えて僕は元の場所まで駆け戻った。
その人は、その女性は二本の傘を持っていた。どうやら時津ハナを迎えに来たようだ。それは時津ハナのお母さんだった。何かを捲し立てた後に僕を一瞥して言った。
「さあ、帰るよ」
僕の事をよく思っていない事は明らかだった。母親に手を引っ張られ連れて行かれる時津ハナに咄嗟に思いつくままに僕は喋る。
「ありがとう。時津さん。勉強できる人の教え方は分かりやすかったよ」
それが僕に出来る最大限のフォローだった。
時津ハナは引っ張られながら振り返る。
「私こそ教えてくれてありがとう。ソラ君。次はもっと良くなりそう」
二人は一向に弱まらなかった雨の中に消えて行った。
その時に僕は時津ハナが好きなのだと自覚したのだったと思う。正直なところうろ覚えではあるが。
空港を覆う雨雲もどこかへ行く気配はなかった。雨も風も強さを増しているような気がする。
「どうしたの? ぼうっとして」
気がつくといつの間にかトイレに行っていた彼女が戻っていた。僕は立ち上がって彼女に席を譲る。
「昔を思い出してた。覚えてるかな。トンネルの中で紙飛行機を飛ばした日の事」
「ああ、あの日ね」そう言って彼女はにやにやした表情で僕を見る。「私の手練手管でソラ君を籠絡した日の事だ」
「え? えええ? あの時にはもう意識してたの?」
「当たり前でしょ。次の日から態度がまるっきり違ってたよね」
「何で秘密にしてたのさ」
「別に秘密じゃないよ。誰に聞かれても困らないしー」
そう言うハナの表情はあの雨の中に消えて行った時と同じ笑顔だった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ご意見ご感想ご質問お待ちしております。よろしくお願いします。
典型的な男子小学生が「好きな子に意地悪する」から「優しくする」に変化するストーリーを描きたかった。
もっと強烈な意地悪にした方が良かったのかもしれないけれど、そうなると変化に説得力を持たせるのが難しそうで悩みました。
女子も「ちょっと男子ー」的な典型的なキャラ設定だったはずなのに……。