金科玉条
つまり元々、人は「宗教」に人間を超えたもの
永遠的で絶対的なものを求めるわけです
大抵の人間にとって宗教本来の意味とは
「これを示す事にあるわけです」
逆に言うと、「絶対的価値観、絶対的な法、金科玉条を示せないものは駄目だ」という事です
そんなんだったら単なる人間の考えであり、別に宗教なんぞに頼らなくても、自分で考えればよい
だけだからです
つまり、はっきり言うと「絶対出ない宗教は無意味」、「金科玉条でない教義は無意味」という事です
宗教は本来、「経典を教条的に絶対視するからこそ意味が生じてくる価値観であり」
でなければ「意味がありません」
何故かこの当たり前の事を逆転させて考える人がリベラル派には多いのですが
そんなの単に仏典や聖書が人間の妄想であったという事からくる「逃げ」でしかありません
単なる『恥』でしかないのですよ(大笑)
じゃあ、そんなもの本当にあるのか!
というのなら
言ったでしょう
「宗教」は、ないものねだりをするものだ、と
他のすべてのものには出来ない、人を超えた要素を
大抵の人間は「宗教」に求めますし
その役目が果たせないのなら
はっきり言って、なくなってよいです
経典が間違っていようが正しかろうが
経典を絶対視しなくなった時点で、「宗教は終わりです」(そんなものは『逃げ』でしかない)
つまり、別段、人間の理性に頼るとか、教条的に物事を考えないとかいう事は
『ふりだしに戻っただけで、何も進歩ではないし、何も「解決」になっていません』
私は寧ろ、リベラル派の方こそが詐欺であり、カルトであると思っています
神、奇跡、真理、永遠
それらのものを一切与えられないのですから
そんなものがなかろうとあろうと
『どちらにしろ、リベラル派には「意味がありません」』(宗教としての、だから福祉に逃げようとして結局、左翼的な思想に染まって破綻するのです)
どこをどう言い訳しようが、「人は宗教に絶対的価値観を求める」という事は『変えようがありません』
でなければ救われないからですが
そんなものが「あろうがなかろうが」、です(大笑)