神道について(つづき)
『他者と接触する事は、自分を形作る』
たとえば、日本にいる限り、日本人である事を意識することは「あまりない」
特に、『日本的』な型にとらわれることもなく、自然に生きるだろう
「だが、「外国」に行って生活すると『どうしても「それ」を意識してしまう』」
『それと同じように、「他者」は「自分の特徴を決定づけてしまう』
「ある意味、『他人が「自分」を作るのである』」
神道は、「教義」も「戒律」も『持たない』というが、「それはようするに
他の宗教との「比較」によって際立ってくる概念である」
『本来、「神道」は「別に「戒律」や「教義」を『持っては「いけない」訳ではない』』
だが、他と接触、比較し、自分の特徴を認識する事によって
『逆に自分の型、形態」を「決定してしまう」のである』
つまり、もう、「教義」や「戒律」がある「宗教」は『神道ではない』という
「定義がなされてしまう訳だ」
「他者と接する事は、本来、自然であった自分の行動に『意識して不自然な型』がつけられる事でもある」
自分たちしかいなければ、「神道とは『こういうものだ』という「定義」など「必要ない」」
だが、異なる存在である他者と接する事によって「決定されてしまう」のだ
「つまり、判り易く言うと、『最早、「教義」や「戒律」を『持たない』』という事「そのものが」
『「神道の教義」に「なってしまっているのである」』
人は、他者と接する時に、「定義」と「型」と無縁には『存在出来なくなる』(まあ
はっきり言うと、「神道」には『元々、はっきり「教義」があるけどね』「たとえば、
神が複数であること」とか「自然が神であること」とか、実際は色々な無数の教義が
存在する、単に、他のより進歩した具体性を持った宗教に比べれば「無いように見える」
だけである)
そういう意味では、ヒンドゥー教の方が「よっぽど教義がないよ」
だって、ヒンドゥー教の中には「ふつうに一神教」があるもの(大笑)
勿論、通常の形態は「多神教」なんだけど、ヒンドゥー教の場合、ヒンドゥー教の
範囲内においてなら「どんな教義も認められる」(さすがに、キリスト教やイスラム
教は『違う宗教』である事を認識出来るらしく、暴力的な排斥をしばしば彼らはする)
「つまり、「他者」と「本格的」に『接した』「第二次世界大戦時における「神道の形態」が」
『ああなったのは「必然」であり』
神道がもし本格的に外国の宗教と接触していくとするならば
「いつまでも「教義」や「戒律」を『持たない』では「すまない」」
『ある種の教義と戒律(日本中心主義、大和魂? (大笑))は『絶対に持たない
ではいられない』のである』
そもそも、「神道は優れており」「日本人がもっとも霊性が高い」とか言っていること
事態が
『既にこれ以上ないというくらい「具体的な宗教性」(実につまらない「選民意識」)の
現れであり』
「「キリスト教原理主義」と『次元によってなんら変わらない「究極の教義」(戒律)』なのである」
(国家神道の問題とは、「まさしくこの日本中心の特別意識そのものにこそあったのである」)
もし、具体的な教義を持たない事と戒律を持たない事を「特別な優越性」と考えるのなら
『それは「これ以上ないというくらい立派で危険な『教義』である」と指摘しておこう』
(繰り返すが、「キリスト教」や「イスラム教」と『何の違いもなくなる事である(そもそも
教義の違いが争いを生むのではなく、「自分の宗教こそが優越する」という考えそのものが
争いを生むのだから)』)
「つまり、自分の宗教の優越性を主張するのなら、『それは事実上、「教義がある」のと『変わらない』』」
(それを理解できていないところが、神道信者や右翼の『どうしようもないところ』)