住人
母から、こんな話を聞きました。
今はもう無くなってしまったのですが、元々の母の実家というのは、不思議な家だったのだそうです。
平屋建ての一軒家でした。ただ、お屋敷などという立派なものではなくて、当時としてはごく普通の家屋でした。
都市部の下町に位置する住居だったということもあり、家の中は思いのほか狭く、物をちょっとでも貯めこむと、あっという間に手狭さを感じてしまうような状態だったといいます。
それでも、一応母には自室が一部屋あてがわれていました。おそらく、母が一人っ子だったからというのが主な理由なのでしょう。母は狭い家の中にあっても、ちょっとした贅沢気分を味わっていたわけです。
母の部屋は、三方をふすまで仕切られている三畳の和室でした。部屋の東側が廊下と接しており、反対の西側には物置部屋があります。そして南側の部屋は仏間になっていて、北側には、ガラス戸ごしの車庫があったのでした。
部屋には、雨漏りがあるでもなく、すき間風が入り込んでくるでもなく、取り立てて苦労もないままに、そこでの生活を母は送っていたのだそうです。ただ一つだけ、奇妙な現象を除いては……。
おかしなことが起こるのは、部屋の東側にあった廊下でした。そこにはどうも、何者かが住みついていたそうなのです。
当時の母の家にペットはいません。そしてもちろんそれは、家族のことでもなかったわけです。
異変が起こるのは、きまって夜になってからだったといいます。夜更けを過ぎると、正体不明の何者かが、猛烈な勢いで廊下を駆け出すのだそうです。
ダダダ、ダダダダ、ダダダダダダ。と、激しい足音が静かな廊下にこだましました。その足音は廊下を行ったり来たりと、意図のくみ取れない動きを繰り返します。とても正気の沙汰であるとは思えませんでした。そして不思議なことなのですが、その足音をとらえていたのは、どうやら母の耳だけだったらしいのです。両親に事情を説明してみましたが、そんな音は全く聞こえないと言われていました。
明らかに異常な事態だったわけですが、母はわりと冷静だったというか、はっきり言ってしまうと無頓着な様子で、ただなんとなく、おかしいなあとだけ思っていたのだそうです。
その廊下は幅が狭く、長さは三メートルくらいはあったらしいのですが、なぜか母は、それほど怯える感じではなかったといいます。当時の母は、もし幽霊がいるならば、それはそれで構わないと思っていたのだそうです。
そんなある夜のことでした。部屋で眠っていた母は、物音に気づいて目を覚ましました。例のごとく、何者かが狂ったようにして廊下を走っていました。やや痛みが見える板張りの廊下を、連続的な低い音が鳴り響いていました。
その夜も、またやってると思った母は、なんとはなしに廊下に向かい声をかけてみたのだそうです。
「走っているのは、誰ですか?」
ふとんをかぶったまま、母はじっと返事を待っていました。
するとです。それまで間断なく鳴り響いていた足音が、急にぴたりと鳴り止んだのでした。
母は、聞こえたのかなと思い、すっとふすまに目を向けました。すると、寝る前にはしっかり閉じておいたはずのふすまが、その時、少しだけ開いていたのだといいます。
母は暗がりの中で目を凝らし、そのすき間の向こうをうかがいました。するとそこには、何か影のようなものが立っていたました。しかし廊下で点灯していた小さな裸電球のせいで、その人の姿は真っ黒い壁のように見え、はっきりと姿を確認することができませんでした。それでもそこからは、確かに何者かの意志のような、又は気配のようなものが感じとれたといいます。
母は、なおもじいっと目を凝らしていました。そのうち、今ふすまの向こうにいるその相手が、誰か人であるように思えてきたのだそうです。それまでは全く正体不明の相手だったものが、少しだけその輪郭をあらわしてきたといいます。
そしてさらにしばらくするうちに、その何者かの顔が、目にもはっきりと見えるようになってきました。
それは、女の人でした。しかしその人は、まるで般若のお面のように顔を歪ませています。ふすまの向こう側から、寝ている母のことをぐわっと睨みつけていたのです。その間、母もその人も、一言も言葉を発しませんでした。お互いがお互いの顔を、無言でのぞき込んでいました。
あまりに女の人の表情が強烈だったために、母はその人がどんな服を着ているかとか、歳はいくつくらいであるかとかいったことは、よく憶えていないらしいのです。
ただ……。女の人はとても恐ろしい形相をしていましたが、なんとなく悲しげな様子にも見えたのだそうです。
母は、ふすま越しに女の人と目を合わせたまま、わけもわからず意識が薄れていくのを感じていました。そして再び目が覚めた時には、もう翌朝になっていたのだといいます。それでも母は、前夜のその出来事について、はっきりと憶えていたのでした。
その日をさかいにして、奇妙な足音というのは全く聞こえなくなってしまったそうです。
それから何年かの月日が経ちました。母が少しだけ大きくなってのことになります。
その時の母は、風邪をこじらせて寝込んでいました。そしてどうも悪いことには、別の悪い菌にも感染してしまっていたそうなのです。
起きることもままならずにふとんで横になっていると、耐え難い苦痛が何度も母を襲ってきました。高熱と、そして絶え間の無い嘔吐に、何日ものあいだ悩まされ続けていたのです。
いったい、いつまでこんなことが続くのだろう……。そう思いながら、一人病床で涙をにじませていたのですが、ある時、あまりのつらさから、ふとんの中で横たわったまま母親の名を呼びかけたのだそうです。
「お母さーん、お母さーん」
と、かすれる声を必死にのど奥からしぼり出して、母親のことを呼びました。しかし、母親は声の届かない所に居るらしく、様子を見に来てくれるような気配は全くなかったのだそうです。
ふとんに身を沈めたまま、母はみじめさにうちひしがれてしまいました。もう自分はだめかもしれないと、そんなことすら思い始めたそうなのです。大切な何かを、ふところから投げ出しかかっていました。ところが、もうろうとする意識が極限に混濁しかけた時、誰かが母の枕元にひざまずいたのです。
ひざを折る物腰のやわらかさから、それは女の人であるように感じられました。しかしその時母は、直観的にすぐさま気付いたのだそうです。今枕元に座った人は自分の母親ではなくて、あの夜の女の人だということを。
なぜこの時この場所でという理由については、母にはよくわからなかったといいます。ふらふらとしておぼつかない意識の中で、考えることもままなりませんでした。
ただ、あの夜の女の人がすぐ近くに黙って腰を落としている。それだけを認めたのだそうです。
枕元に座る女の人は、特に何かをしようとするふうではありませんでした。なぜかはわかりませんが、ただ苦しむ母のそばにじっと寄り添っていたのだといいます。そしてそれは、心細く苦しみに打ちひしがれていた母にとって、とても大きななぐさめとなったのだそうです。
女の人がかたわらに座る中で、母は安心したのか、ゆっくりとまどろみに入り込んでいきました。その後の記憶は残っていないのだそうです。
母が目覚めた時、女の人はもういませんでした。そして、これ以来、再び姿を現すこともなかったようなのです。
その後、母はなんとか回復し、元のように生活できる状態へと戻りました。
今になって、母はこう言っています。
もしかしたら、あの女の人は私の中に住んでいるのかもしれない。私の心に何か異変が起きた時、あの女の人は姿を現すのかもしれない、と。母はずっと女の人に会っていません。
私の母が幼いころのお話でした。




