その6 フルスイング
俺は榊原 一馬。
「いくぞ一馬!」
「……こいっ!」
全身を緊張させながら、両肩だけ無理矢理力を抜いている。
見据えるはマウンドの上にいる色黒の友人。早乙女 純
中学一年生には見えない長身を目一杯に活かし、圧倒的な存在感をたたき付けてくる。
飲み込まれそうなほどのプレッシャー。バッターボックスに立つ自分が酷く頼りなく思えてくる。
「……っ!」
一球目が飛んでくる。
積み上げた経験が、付け焼き刃程度には役に立つ。
無意識に突き出した両手が、その先にあるバットが。
悲鳴をあげる。
「ふぁーるー」
鈍く高い音。矛盾したような衝突。
痺れが連鎖していくように、心にまで届く。
「HEY!HEY!HEY! バッタービビってる! 震えてんじゃねぇーぞ!」
「どうした一馬?」
見透かすような純の声。
どこか間の抜けた拓也の声。
「武者震いだよ……!」
限界まで虚勢を巡らせ、体勢だけは崩さない。
一度バットから片手を離し、痺れを払い握り直す。
マメが潰れて固くなった掌。馴染んでしまったグリップの感触。
三ヶ月前の自分からは想像出来ない変化。
なんでこうなったんだっけな。
「次いくぞ!」
「こいよっ!」
場に集中して溶けていく意識が、引っ張られるように過去へ飛んだ。
「やっぱ野球だろ!」
春の終わり。夏の手前。のんびりした空気の流れる昼休み。
梅雨に入り安定しない気温と湿気にやられたのか、野球馬鹿が騒ぎ始めた。
「脈絡って言葉知ってるか?」
「知らん! なにそれ?」
本物の馬鹿か。
「まあ純だもんね」
対面でサンドイッチを食べていた拓也が、適当に場を流す。
くるくると髪を弄りながら、流れるように毒を吐く。
癖の強い猫っ毛はこの時期いろいろ面倒らしく、若干機嫌が悪い。
表情は柔らかいのだが口調がキツイ。
が、馬鹿はそんなこと気にしない。
「まあいいや。とりあえず野球だ」
「何がどうなってなんで野球なのか説明しろよ……」
うざったいくらいに自信たっぷりに純は喋り始めた。
「かくかくしかじ「同じネタ禁止ね」かなんて言わないよ絶対」
拓也がちょっと怖い。
「……ごほん。いや、一馬がモテモテになりたいっていってたじゃねぇか」
確かに言った。そして協力を求めた。
「これは野球しかないなと」
「意味が分からんぞ」
「……純だもんね」
「最後まで聞いてから止めろよ」
肩を竦めてようやっとまともに説明をしてくれた。
雑談混じりでやたら時間はかかったが。
纏めると。
九月に球技大会がある。
種目を野球にする。
そこで活躍してモテモテに。
なんともわかりやすい作戦だった。
「種目を野球にって……出来るのかぁ?」
「知らなかったのか? 俺は体育委員だ」
「確かに種目は体育委員が決めるんだろうけど……」
一年の意見なんて通るのか?
「まあ実際には先輩に頼ることになるんだけどな」
聞けば体育委員の大半が野球部らしい。
「ま、だから多分野球になる。というか、する」
「数の暴力だね」
既に種目は決まったようなもんだった。
「それは別に良いんだけど、一馬」
「ん?」
「……頑張ろうか」
「……ああ」
言葉を飲み込むような間を空けて、拓也と手をたたき合う。
何も言わない我が儘に、何も聞かない気遣い。
見た目以上に繊細な気配りが出来るから、拓也はモテるのかもしれない。
「そうと決まれば特訓だな」
「一所懸命に頑張る男はモテるらしいし、ちょうどいいね」
「特訓ったって、何するんだよ」
自慢じゃないが、野球は全くやったことない。
「なーに、この未来のスラッガーにして大エース、早乙女純様に任せとけ!」
「ったく、どこが大エースだ……」
割と酷い目にあった。
目立つならピッチャーだが、まともな投球が三ヶ月かそこらで出来るようになるわけがない。
かといって守備練習してもそうそう目立つファインプレーを狙える球なんて飛んでこない。
だったら確実に回ってくるバッティングを徹底的に鍛える。
野球関連の純の理屈は全面的に同意出来るし、するけど……
「腰が痛い」
デッドボールが多すぎるんだよ……
特訓内容はいたって単純。
アップして、筋トレして、ひたすらにバッティング。
キャッチャーは拓也が、ピッチャーは純がやってくれたんだがコントロールが酷い。
初級から顔面に当たりそうになった。
それからも五球に一球はデッドボールコース。
そのくせ球速はあるもんだから、避け切れずに何回か当てられた。
お詫びと練習用のバットを貸してくれたが、釣り合った気がしない。
「だいたい、自主練する体力なんて残ってないよ」
なれない運動に物理的打撃で体はボロボロ。
「なのに、なんで家と逆方向に歩いてるのかね」
決まっている。
悔しかったからだ。
暗くなるまで延々バッティング練習をしたのに、ヒットどころかまともに前にも飛ばせなかった。
ほとんどが空振り。よくてチップやキャッチャーフライ。
何も知らない素人だからとか、言い訳は出来なくもない。
「そういう問題じゃないんだ」
俺はモテたい。カッコイイと言われたい。
今日の俺は、とことんまで情けなかった。
夕暮れすぎの暗い公園。
街頭の明かりも遠くなるような、広場のど真ん中。
学生鞄を放り投げて、一心不乱に素振りを始める。
肩が直ぐに重くなる。腰がぎりぎりと悲鳴をあげる。
それでも両の足だけは、力強く地面を踏み込んでいる。
「ふ、ふ、は、は、はは」
声にならない呼気が漏れ、鈍い風切り音だけが耳に届く。
へとへとになっても振り続けて、いい加減肩が上がらなくなったところで素振りをやめる。
崩れ落ちる体が、酸素を求めて喘ぐ。
凄くしんどい。けれど、辛くはない。
充足感に包まれながら、少しだけぶっ倒れる。
夜の帳はおりきって、梅雨の晴れ間に星が浮かぶ。
明滅する街灯に、雲を抜ける月明かり。
風情ある景色。だと思う。よく分からないけど。
とりあえず、デカすぎる腹の音は場違いだってことは悟った。
「あー夕飯食べてないもんな。つか家に帰ってもないし」
これでも育ち盛りの男子中学生だ。空腹は敵。
ちゃっちゃと家に帰ってご飯を食べたいけど、そこまで体力は回復してない。
ならやることは一つ。
立ち上がり、家とは逆方向へ歩く。
常連目指して、売り上げに貢献することにしよう。
「いらっしゃいませー、一馬君」
「ほんと、いつも居ますね薫さん」
「いつもって訳じゃないけどね」
君のタイミングが良いのだよと、にこやかに応えながら席へと案内してくれる。
夕飯時を過ぎた店内にはあまりお客さんもいない。
その証拠とばかりに薫さんが対面に座って話しかけてきた。
「今日はこんな時間にどうしたんだい?」
「ちょっと、なんというか、特訓を……」
「ふうん?」
「というか良いんですか? 仕事しなくて」
「本来なら私の役目は終わってる筈なんだ。これくらいの我が儘は通すよ」
よく分からないが逃げられないらしい。
「しかし、特訓とはね。なんのかな?」
「なんとなく秘密です」
「それは野球部のバットを入れているケースと一緒の物だね」
バレバレな気がする。
にやにやとにこにこの中間くらいの表情で、頬杖ついて覗き込まれる。
思わず目を逸らして、早口で注文を告げた。
運ばれてきたいつものサンドイッチと、頼んでいないドリンク。
「これは?」
「頑張る若者へのサービスさ」
「……ありがとうございます」
サービスされてばかりだ。
「特訓もいいけど、家には連絡とりなよ。雪が心配していた」
メールがきてね。と携帯をひらひら。
完全に忘れてた。もう9時前だもんな。
「……明日からも特訓はするのかい?」
「はい」
即答した事に自分でも驚く。心はいつの間にか決まっていた。
「なら、毎日おいで。ドリンクくらいはお姉さんがサービスするよ」
「いや、そんなの悪いですよ」
「中学生なんだから甘えときなさい」
とん、と額を突かれる。
姉ちゃんといい薫さんといい、年上の女性には何を言っても勝てないな。
それから三ヶ月。毎日学校帰りに素振りした。
休日や夏休みにはランニングや筋トレもして、体力作りも万全。
マメができて、潰れて。それでもバットを振り続けて。
いつの頃からかバットが空を切る音も、鋭くなっていた。
そうして迎えた球技大会本番。無事に種目は野球になった。
充実した気力と体力。調子はすこぶる良い。
だが、始まって直ぐに拍子抜けした。
学年別に行われる試合は、歯ごたえが全くなかった。
普段の練習か、俺との付き合いのせいか純のコントロールは信じられないくらい良くなっていた。
元々あった球威に加えてコントロールまで加わり、手加減しているようだが誰にも打たれることはなかった。
そもそもの話、他のクラスからやる気を感じられなかった。
不完全燃焼のまま大会が終わり、三ヶ月の特訓はなんだったんだろうか。 体育委員が片付けをするのを見ながら、ぼーっと考える。
意味がないとは思わない。けど……。
「しけた面してんじゃねぇよ!」
ゆるい放物線を描く白球。
それを受け止めて焦点を合わすと、不敵に笑う純が見えた。
「純?」
「話し、付けて来た」
「なんの?」
「勝負だ」
冗談。には見えない。
「盛り上がらない前座で終わっちゃ納得いかねぇだろ」
「もともと、こうする予定だったしね」
いつの間にか拓也も野次馬を引き連れて純の傍に立っている。
「俺らで始めた我が儘だ。きっちり俺らで締めるぞ」
「……望むところだ!」
そして、冒頭に立ち戻る。
「っ!」
二球目はストライクゾーンを僅かに外れた。
「ぼーる」
キャッチャーの拓也がコールし、球を純へと投げ返す。
分かりやすい一打席勝負。ヒット性の当たりで俺の勝ち、打ち取ったなら純の勝ち。
フォアボールの場合は仕切直しだ。
ワンストライクワンボール。
勝負は始まったばかり。息を飲むような展開ではないせいか、野次馬が少々煩い。
三球目が飛んでくる。
半瞬、反応が遅れた。
僅かに乱れた集中が体を硬直させ、ひりつくような焦燥に踏み込みを躊躇う。
ただ見開いた目だけが、その戸惑いを肯定する。
(落ちる……!? カーブかっ!?)
振り切る前にバットを戻す。
急激な切り替えしのせいで筋肉に強い負担がかかる。
「ぼーるー」
結果的に、野次馬に気を取られた事が俺を救った。
「チッ……。どうした、手が出ねぇのかよ」
「よく見てると言ってくれよ」
自分の声が強がりにしか聞こえない。正直、今の球は打てなかった。
いつもの速球と使い分けられたら勝てる気がしない。
バットが重くなる。
「つっまんねぇな……。次いくぞ!」
「くっ!」
どっちだ!?
純の手を離れ一直線に飛んでくる軟式球。
のんびりと考える余裕なんて当然ない。刹那に判断を下し、振り切る。
「すとらいく」
まるで嘲笑うように、ボールはバットの下をすりぬけていった。
「はっ! 追い込まれたな!」
ツーストライクツーボール。確かにこっちは後がない。対して、向こうには一球の遊び玉。
形勢の悪さに心が侵略されて、注目に食いつぶされそうになる。
……怖い。
「一馬」
足元からの拓也の声。気付けば視線が落ちていた。
「信じろよ」
それは、何に対する信頼か。その真意は分からない。
けれど、軽くなった。
これは俺の我儘で。こいつらはそれに付き合って。
そして、笑いながら協力してくれている。
「よしっ!」
もう一度片手を離し、ぐるりとバットを回す。突き付ける。
「……へっ! 上等ォ!!」
意志を示す予告ホームラン。心が折れてちゃ勝てるわけがない。
「こいよ!」
グリップを強く握り直す。
身体の延長線として、バットの先端にまで意識を巡らせる。
これが、きっと、最後の一球。
キメ打ちだ。
俺の実力では投げられた球を見極められない。振り回されて終わる。
この局面、この流れで純が投げる球。
考えるまでもない。
渾身のストレートだ。
長い付き合い。性格くらい熟知してる。当然お互いに。
純の方も俺の考えくらい分かっているはずだ。
だからこそ、ストレートでくる。
そう信じる。
「一球、入魂!!」
「かっ飛ばす!!」
ワインドアップ。伸び上がる純を視認して、こちらも『ため』に入る。
緩やかに捻りを加えていき、体重を後ろへ流す。
「ォオ」
ねじり上がる純の身体。呼応するように息を止め、理性ではなく反応と反射に全てをかける。
拓也の言葉を信じた。
純の性格を信じた。
ならあとは俺自身を、俺の三ヶ月を信じるだけだ!
「ラァ!!」
滑空する勝負球。
世界から音が消える。
染み付くまで叩き上げた付け焼き刃が、頭より早く反応する。
足。
ためにためた体重が地面から浮き上がり、流れの基礎を作り上げる。
腰と肩。
ほんの半瞬の円運動で、練り上げた力に志向性を与える。
そして眼。
無意識に委ね、反射的に合わせたコース。あとはただ、振り抜く!
「ぉぉおおおぁあああ!!」
―――ィィィン
踏み込みと共に全身全霊を注ぎ込んだ。
澄み切った音が響き渡り、土に汚れた白い球が赤い空を切り裂いていった。
爆発するような歓声。野次馬がいまさらのように騒ぎ出す。
「勝った……?」
「ああ、お前の勝ちだよ」
「おめでと一馬」
歩み寄る純と立ち上がる拓也の言葉に漸く実感が駆け巡る。
手の中に残る甘い痺れを握り直し、咆哮とともに突き上げた。
「なぁぁあにをやっとるかああああ!!」
「うげ、高島……」
「おい、話は付けてたんじゃないのかよ」
「俺が話を付けられるのは先輩だけだ!」
「威張るな!」
「タイミングが良すぎるから、高島先生も待っててくれたみたいだね」
「その分怒りもデカそうだな」
「んなのんびりしてる場合かよ!」
「ま、仕方ないよね」
「よーし一馬、拓也」
「「「逃げるぞ!」」」
「待たんかあああ!!」
結局その後、三人そろって呼び出された。