夢
「……うわっ」
シロエ・モレッツは、はっと息を吸い込んで目を覚ました。机に突っ伏したまま、首と肩が悲鳴を上げている。
「また、やっちゃった……」
個人で探偵事務所を経営しているシロエにとって、新しい依頼が入るというのは、時間の感覚が消える合図だった。資料を読み、仮説を立て、思考の渦に沈み――気づけば朝。机が簡易ベッドになるのは、もはや習慣のようなものだ。
「……せめてソファで寝かせてよ、シロエ」
自分に小さく文句を言いながら立ち上がる。身体は重いが、頭は妙に冴えている。ケトルに水を入れ、スイッチを押し、壁の時計を見る。七時前。
「よし」
軽くガッツポーズを作ると、シロエはコートを羽織り、事務所を出た。道を一本挟んだ向かいにあるパン屋――朝七時開店の「ビット」。ここもまた、彼女の日常の一部だった。
まだオープン前だというのに、シロエの姿に気づいた赤と白のストライプのベレー帽スタイルの店主が、にこりと笑う。右手にタオルをかけて、お執事のようにガラスの扉を開け、わざとらしく一礼した。
「おはようございます、シロエ嬢さま。本日も目の前にございます“簡易ホテル”でのご宿泊でしたかな?」
プラッド・ビット。腕は一流のパン職人だ。
「うむ、プラッドよ。いつものを頼もうかの」
シロエも負けじと乗っかるが、最後まで耐えきれず吹き出した。
「……ぷっ」
それを見て、プラッドも肩をすくめるように笑った。
「今朝は本当に焼き立てだ。戻ってすぐ食べるといい。それと――時間がある時でいいんだけど、新しいの、試食してもらえないかな」
新作を出す前に、シロエに試食した感想を聞く。それは、いつの間にか二人の間で決まった“儀式”だった。以前までに彼女の一言を無視して並べたパンが、当日は売れたものの、翌日から売れ残った経験が、何度もある。
「いいわよ。三日後の夜なら」
「助かるよ。じゃあ、その時に」
事務所に戻り、スマホから静かなクラシックを流す。熱々のパンとコーヒー。完璧な朝だ。シロエは壁のカレンダーを眺めて、ふっと息を吐いた。
――やっぱり。
三日後の夜には、すでに「パン試食」と書き込まれている。こういうことは、初めてじゃない。ふとした直感。頭に“ピン”と鳴る感覚。それが訪れた時、予想は外れたことがなかった。百パーセントだ。
特殊な能力――そんな言葉が頭をよぎる。だが、誰にも話したことはない。下手に口にすれば、手品だの偶然だのと笑われるのが目に見えている。
予想が当たること自体は、悪くない。だからこれは、自分だけの秘密。
いつか、信じて話せる相手が現れるまで――。
その夜、シロエはいつもとは明らかに違う夢を見た。
==========
世界が、ひどく曖昧だった。まるでカメラのピントが合っていない。輪郭は溶け、色だけが滲んでいる。
シロエは目をこすった。だが、視界は変わらない。左右を見回しても、同じだ。自分の両手さえ、ぼやけて見える。
「……目が、悪くなった?」
そう思い込もうとする自分がいた。突然の異変を、現実的な理由で片づけようとする癖だ。これからどうするべきか――そんなことを、夢の中で真剣に考えている。
眼鏡を買わないと。そう結論づけたところで、シロエは立ち上がった。
足元は芝生のようだった。周囲は、ぼんやりとした緑。生い茂る木々が円を描くように取り囲んでいる。ここを出なければ。理由はわからないが、そう強く思った。
その瞬間――。
視界の奥で、何かが動いた。小さな影は、ゆっくりと、だが確実に大きくなっていく。やがてそれが、人影だと気づいた。
声を上げようとする。だが、喉が凍りついたように、音が出ない。必死に手を振った。助けを求めるように。
影は、さらに近づく。輪郭が、はっきりしていく。
そして――。
それは、自分だった。
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シロエは、静かに目を覚ました。天井がある。見慣れた家の天井だ。
「……夢、か」
何かを見た、という感覚だけが残っている。だが、内容を掴もうとすると、指の隙間からこぼれ落ちるように消えていった。
シロエは深く考えるのをやめ、ベッドを抜け出す。コーヒーを淹れ、いつもの朝へ戻る。日常は、何事もなかったかのように、静かに再開した。
――その違和感を、置き去りにしたまま。
約束の夜。シロエはパン屋「ビット」の扉を押し開けた。
カウンターの奥で、プラッドがノートに何かを書き留めていたが、気配に気づいて顔を上げる。
「やぁ、こんばんは。悪いね。仕事で疲れてるところ、わざわざ」
シロエは肩の力を抜き、両手を軽く左右に振った。
「こんばんは、プラッド。気にしないで。私は無料で美味しいディナーをいただけるんだから、むしろ幸運よ」
プラッドは、いかにも嬉しそうに口元を緩める。
「じゃあ、あっちのテーブルで待ってて。コーヒー、淹れるから」
豆を挽く音。やがて、香ばしい香りが店内にゆっくりと満ちていく。シロエは椅子に腰を下ろし、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、夢ってさ。起きた瞬間に、ぱっと消えちゃうでしょ」
厨房の方から、プラッドの声が返ってくる。
「まぁな。だいたい忘れる」
「たまに、何となく覚えてる時もあるけど……ほとんどは誰も気にしない。そういうものよね」
「そうだな。でも、それがどうかした?なんか悪い夢でもみたのかい」
シロエは指先でカップの縁をなぞりながら言った。
「この前、何か引っかかる夢を見た気がするの。でも、目が覚めたら全部抜け落ちてて……どうにか思い出せないかなって」
プラッドが、軽く笑う。
「ははは。夢なんて、脳みそのどっかが勝手に作ってる物語だろ。自分で意識して見てるわけじゃない。思い出そうってのが、そもそも無理なんじゃないか」
そう言いながら、彼はプレートを運んできた。二種類のパンと、色鮮やかなサラダ。
「それより、こっちを見てくれ。どれも自信作だ。サラダもな、小さいビニールに入れて渡そうと思ってる。味、ちゃんと見てほしい」
シロエは、プレートに並んだ新作を眺めた。白いパウダーをまとった丸いパン。細長く、フランスパンを思わせる一本。そして、緑をベースに赤紫、黄色、赤が混ざる、千切り野菜のサラダ。
「……美味しそう。どれからいこうかしら」
「気になるやつから、どうぞ」
シロエが手に取ったのは、細長いパンだった。見た目は固そうなのに、指で押すと驚くほど柔らかい。表面には薄く艶があり、割った断面に広がる細かな気泡が、かろうじて“フランスパン”を思い出させるだけだった。
「……意外。思ったより柔らかいのね」
一口、かじる。
「……え」
ふわりと立ち上る湯気。そこに、クリームシチューのやさしい香りが混じった。
断面から、にんじんの橙、コーンの黄色、ブロッコリーの緑が、小さな宝石のように顔をのぞかせる。さらに噛むと、外側の薄皮がかすかに音を立てて割れ、内側のとろりとした旨みが舌に広がった。じゃがいものほっくりした甘さ。玉ねぎのやわらかな香り。パンの温もりと一緒に、それらがじんわりと身体に染み込んでくる。
シロエの表情が、自然と緩んだ。顔を上げ、プラッドと目が合う。
「……美味しいわ」
その一言は、パンの温度と同じくらい、素直で、あたたかかった。
「今は温かいけど……冷えたら、どうなるのかしら」
その言葉を待っていたかのように、プラッドが厨房から戻ってきた。手にしているのは、あらかじめ冷ましておいた一本のパン。
「そう言うと思って、用意してたよ」
シロエはそれを受け取り、指先で確かめる。表面の艶は落ち着き、ひんやりとした重みだけが伝わってくる。ちぎると、断面に散らばる具材の色が、静かに浮かび上がった。ブロッコリーの深い緑。コーンの黄色。にんじんの橙。香りは控えめになっているのに、見た目のやさしさは変わらない。
一口。
しっとりとした生地に、クリームシチューの名残が淡く染みている。温かいときのとろみは消え、代わりに具材そのものの甘さが、素直に舌へ届いた。じゃがいもはほろりと崩れ、玉ねぎの甘みが静かに広がる。シロエは、自然と目を細めた。
「……冷めても、この美味しさ」
プラッドが自信作と語った理由が、よくわかる。シロエはあっという間に食べ終え、次にサラダへとフォークを伸ばした。
淡い緑のレタスの上に、赤紫の紫キャベツ。鮮やかなパプリカの赤と黄。細く切られたきゅうりの深い緑。それはまるで、混ぜた絵の具をすくい上げるような色合いだった。
口に運ぶと、まずレタスの軽やかな歯ざわり。続いて紫キャベツの芯のある食感が心地よく響く。パプリカの甘みがふっと広がり、きゅうりの瑞々しさが後を追った。
噛むたびに、色と同じくらい多彩な味がほどけていく。冷たさが頬の内側にすっと染み、身体の奥まで爽やかに満たされた。
「プラッド、これもいいわ。これを入れる物は少し大きめがいいわよ。ドレッシングなしで、この完成度……脱帽ね」
プラッドは、ほっと息をついた。一番気になるのがサラダだったからだ。
「ありがとう。その言葉は嬉しいよ。実はこれ、家の周りの農家で採れた野菜なんだ」
彼は、静かに続ける。
「傷んだものじゃない。形が悪いとか、小さいって理由で商品にならない野菜さ。捨てるくらいなら使わせてほしいって言ったら、毎日届けてくれることになってね。だから、新鮮だ」
「素晴らしい取り組みね。プラッド。これは、間違いなく売れるわ」
だが、プラッドは首を横に振った。
「売らないよ。パンを買ってくれた人に尋ねて、欲しいって人に渡すだけ。この店はパン屋だし、元手もかかってないし、手間は千切りにしてビニールに詰めるだからな」
シロエは、しばらく彼を見つめてから、静かに言った。
「プラッド……亡くなった奥様も、きっと天国から褒めてるわ」
「三十年も前の話だ。きっと、眺めるのにも飽きて、下界はもう見てもないよ」
二人は顔を見合わせ、大声で笑った。
「じゃあ、最後にもう一つ」
白いパウダーをまとったパンを手に取った、その瞬間だった。
――ピリッ。
電気が走ったような感覚が、シロエの中を貫いた。いつもの“直感”とは違う、鋭い刺激。
視界が、一瞬揺らぐ。
店の入口。屋根の下で、「プラッドのパン」と書かれた看板を下ろしている――プラッド自身の姿。雪の積もった道が見えた。
はっとして、現実に戻る。シロエは、軽く一口かじった。
「……プラッド。このパン、使ってる食材を教えて」
プラッドの笑顔が、すっと消える。真剣な顔で、ひとつひとつを伝えた。シロエは静かに頷いた。
「……わかった。これは、店に絶対出しちゃダメ」
プラッドが息をのむ。
「どうしても出すなら、塩分を全体的に下げて。中のベーコンとハムも量を減らす必要があるわ。この塩加減、癖になる人が出ると……問題になる」
プラッドは、黙って耳を傾けていた。
「そうか。ちょうど良い分量で何度も試したんだけどな。けど、シロエの判断は間違いないだろう。」
プラッドも改めて、初めて味わう第三者の気持ちになり食べてみる。
「なるほど……確かに、多すぎたかもしれない。ありがとう。改良するよ。……また、食べてくれるかい?」
シロエは笑って、指でOKサインを作った。
その後は、コーヒーを飲みながら、若い頃の奥様との旅行の話や、思い出深い失敗談で盛り上がった。
「今日も美味しいディナーだったわ。ごちそうさま」
「こちらこそ。無理を聞いてもらってありがとう。パン買わなくてもいいから、いつでも顔を出して」
夜道を歩きながら、シロエは考えていた。
――さっきの“感覚”が、現実にならなければいい。
そう願いながらも、胸の奥に、じわりとした不安が広がっていく。自分の頭は、一体どうなっているのだろうか。
それからというもの、まるでスイッチが入ったかのように、あの夢を見るようになった。
逃げ場はない。そう悟ったのは、四日目の夜だった。
――今日は、目を覚まさない。夢の中で“自分”が現れても、絶対に逃げない。
自分は、何を言おうとしているのか。それを知るために、シロエは静かに目を閉じた。
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おぼろげな風景が立ち上がった瞬間、シロエは理解した。
――これは、夢だ。
意識がはっきりしている。初めて、夢の中で“考えている”自分がいた。
遠くから、人影が近づいてくる。驚かない。目を覚まさない。心の中で何度も繰り返しながら、シロエはその影を見つめ続けた。
そして――。
白いワンピース。頭には、白い花冠。そこに立っていたのは、紛れもなく“自分”だった。
「やっと会えたわね、シロエ。今日は消えないでよ」
その声は、はっきりと現実味を帯びていた。
「力を送り続けて、一気にレベルを十上げたの。今のレベルは四十二よ」
シロエは息を呑んだ。
「……えっと。これ、夢の中で合ってるわよね?」
「そうね。三三三の世界ではね」
「あなたは……私が想像した、私よね?」
相手は、わずかに表情を変えた。
「なるほど。そういうこと……マスターが三三三からの特別なやつを扱ってみるかって言ってた意味、やっと分かったわ」
「……?」
「この世界のこと、何も分かってないって顔ね」
「悪いけど、本当に分からないわ。もう一度聞くけど、これは夢なのよね?」
「そう。シリーズ三三三から、ここに入れる者が現れるのは初めてのことよ」
シロエは、静かに首を縦に振った。
「でしょうね。意味が分からない顔してる」
一瞬、相手の視線が遠くを見た。
「……ちょっと、シロエの三三三の世界を覗かせてもらうわ」
頭に指をあてて、相手は小さく息を吐いた。
「なるほど。……三三三って変わった世界ね。これからどうなるのか、全く予想がつかないわね。シロエは特殊な存在。私を超える量子人になるかもね」
「はぁ……」
目の前の“自分”は、どこか諦めたような表情になった。
「説明が必要ね。まず――私の名前は、セディー・シンク」
「え?私じゃないの?」
「……OK、そこからね」
セディーは、わずかに肩をすくめた。
「今の私は、シロエが想像した姿。本当の姿は、もう少しレベルが上がれば見えるようになるわ」
彼女は、楽しそうに微笑む。
「レベル四十二まで上げて、まだこのレベル……どこまで行くのか、正直楽しみね」
「ちょっと待って。レベルって何?夢にレベルなんてあるの?」
セディーが手の平を向けて、そこまでと話を抑止した。
「この世界は三三三では“量子”って呼ばれてる」
「量子……聞いたことはあるけど、よく分からない」
「言葉にできないくらい小さな存在。私は、その量子でできた世界にいるの」
「はぁ、夢とその量子ってのが、どう繋がるの?」
「三三三のものは夢ってのを見るのが普通のようだけど、その夢こそが量子空間なの」
シロエは、ゆっくりと息を吸った。
「……はぁ、分かっていないけど、夢を見ると量子っていう空間に入れるってこと!?」
「まぁ、今はそれで理解で十分かな。少しずつ学べばいいわ」
セディーは、穏やかに続けた。
「量子空間は、基本的にレベルを上げられない。でも、シロエは違う。特殊な“量子人”なの」
「量子人?」
「量子空間で活動できる人の総称」
「じゃあ今、私は――」
「そういうこと」
「OK。私が量子人として、質問していい?」
「何でもどうぞ」
「セディーはなぜ私のレベルを上げたの?量子空間って何ができるの?どうすれば抜けられるの?どうすれば…」
矢継ぎ早の問いに、セディーは手を上げて止めた。
「ストップ。質問は一つずつね」
彼女は人差し指を一本立てる。
「まず、私は量子空間の成長係。レベルの高い量子空間を増やすのが役目なの。レベルを上げると、量子空間同士をつながる事ができるの、様々な事が一度に出来るから都合がいいのよ、それに何でもできるようになるからね」
シロエは何もわからず、一先ず話を最後まで聞こうとしていた。
「三三三に社会というシステムがあるでしょ?ここも良く似てるところがあるわ。私はマスターに言われて量子空間のレベルをあげて育ててる」
「……どこも同じなのね」
「まーちょっと違うけど」
セディーは続ける。
「あと、量子空間から抜けるのは簡単なんだけど、あなたの三三三は特殊だから…何かの“きっかけ”が必要。トリガーがあれば、分かりやすいかな。自分でこのポーズをしたら世界を抜けると決めるのよ」
彼女は、にやりと笑った。
『例えば――こんな仕草をしたら世界を抜けると自分で決めるの』
両手を交差させ、掌で目を覆う仕草。
「……こう?」
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その瞬間、シロエは目を覚まして天井を見上げていた。
今回は違った。目が覚めても、夢の内容は一つも欠けていない。夢と現実が自然につながったようだった。
「さっきのは夢じゃなく……量子空間の出来事ってことか」
現実の輪郭が、いつもよりくっきりして見える。シロエは、静かに決めた。まずは“量子”ってものを調べる。それを、朝一番の仕事にすると。




