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夢幻世界  作者: 広育 春美


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1/1

 「……うわっ」

 シロエ・モレッツは、はっと息を吸い込んで目を覚ました。机に突っ伏したまま、首と肩が悲鳴を上げている。

 「また、やっちゃった……」

 個人で探偵事務所を経営しているシロエにとって、新しい依頼が入るというのは、時間の感覚が消える合図だった。資料を読み、仮説を立て、思考の渦に沈み――気づけば朝。机が簡易ベッドになるのは、もはや習慣のようなものだ。

 「……せめてソファで寝かせてよ、シロエ」

 自分に小さく文句を言いながら立ち上がる。身体は重いが、頭は妙に冴えている。ケトルに水を入れ、スイッチを押し、壁の時計を見る。七時前。

 「よし」

 軽くガッツポーズを作ると、シロエはコートを羽織り、事務所を出た。道を一本挟んだ向かいにあるパン屋――朝七時開店の「ビット」。ここもまた、彼女の日常の一部だった。

 まだオープン前だというのに、シロエの姿に気づいた赤と白のストライプのベレー帽スタイルの店主が、にこりと笑う。右手にタオルをかけて、お執事のようにガラスの扉を開け、わざとらしく一礼した。

 「おはようございます、シロエ嬢さま。本日も目の前にございます“簡易ホテル”でのご宿泊でしたかな?」

 プラッド・ビット。腕は一流のパン職人だ。

 「うむ、プラッドよ。いつものを頼もうかの」

 シロエも負けじと乗っかるが、最後まで耐えきれず吹き出した。

 「……ぷっ」

 それを見て、プラッドも肩をすくめるように笑った。

 「今朝は本当に焼き立てだ。戻ってすぐ食べるといい。それと――時間がある時でいいんだけど、新しいの、試食してもらえないかな」

 新作を出す前に、シロエに試食した感想を聞く。それは、いつの間にか二人の間で決まった“儀式”だった。以前までに彼女の一言を無視して並べたパンが、当日は売れたものの、翌日から売れ残った経験が、何度もある。

 「いいわよ。三日後の夜なら」

 「助かるよ。じゃあ、その時に」

 事務所に戻り、スマホから静かなクラシックを流す。熱々のパンとコーヒー。完璧な朝だ。シロエは壁のカレンダーを眺めて、ふっと息を吐いた。

 ――やっぱり。

 三日後の夜には、すでに「パン試食」と書き込まれている。こういうことは、初めてじゃない。ふとした直感。頭に“ピン”と鳴る感覚。それが訪れた時、予想は外れたことがなかった。百パーセントだ。

 特殊な能力――そんな言葉が頭をよぎる。だが、誰にも話したことはない。下手に口にすれば、手品だの偶然だのと笑われるのが目に見えている。

 予想が当たること自体は、悪くない。だからこれは、自分だけの秘密。

 いつか、信じて話せる相手が現れるまで――。


 その夜、シロエはいつもとは明らかに違う夢を見た。

 ==========

 世界が、ひどく曖昧だった。まるでカメラのピントが合っていない。輪郭は溶け、色だけが滲んでいる。

 シロエは目をこすった。だが、視界は変わらない。左右を見回しても、同じだ。自分の両手さえ、ぼやけて見える。

 「……目が、悪くなった?」

 そう思い込もうとする自分がいた。突然の異変を、現実的な理由で片づけようとする癖だ。これからどうするべきか――そんなことを、夢の中で真剣に考えている。

 眼鏡を買わないと。そう結論づけたところで、シロエは立ち上がった。

 足元は芝生のようだった。周囲は、ぼんやりとした緑。生い茂る木々が円を描くように取り囲んでいる。ここを出なければ。理由はわからないが、そう強く思った。

 その瞬間――。

 視界の奥で、何かが動いた。小さな影は、ゆっくりと、だが確実に大きくなっていく。やがてそれが、人影だと気づいた。

 声を上げようとする。だが、喉が凍りついたように、音が出ない。必死に手を振った。助けを求めるように。

 影は、さらに近づく。輪郭が、はっきりしていく。

 そして――。

 それは、自分だった。

 ==========

 シロエは、静かに目を覚ました。天井がある。見慣れた家の天井だ。

 「……夢、か」

 何かを見た、という感覚だけが残っている。だが、内容を掴もうとすると、指の隙間からこぼれ落ちるように消えていった。

 シロエは深く考えるのをやめ、ベッドを抜け出す。コーヒーを淹れ、いつもの朝へ戻る。日常は、何事もなかったかのように、静かに再開した。

 ――その違和感を、置き去りにしたまま。


 約束の夜。シロエはパン屋「ビット」の扉を押し開けた。

 カウンターの奥で、プラッドがノートに何かを書き留めていたが、気配に気づいて顔を上げる。

 「やぁ、こんばんは。悪いね。仕事で疲れてるところ、わざわざ」

 シロエは肩の力を抜き、両手を軽く左右に振った。

 「こんばんは、プラッド。気にしないで。私は無料で美味しいディナーをいただけるんだから、むしろ幸運よ」

 プラッドは、いかにも嬉しそうに口元を緩める。

 「じゃあ、あっちのテーブルで待ってて。コーヒー、淹れるから」

 豆を挽く音。やがて、香ばしい香りが店内にゆっくりと満ちていく。シロエは椅子に腰を下ろし、ふと思い出したように口を開いた。

 「ねえ、夢ってさ。起きた瞬間に、ぱっと消えちゃうでしょ」

 厨房の方から、プラッドの声が返ってくる。

 「まぁな。だいたい忘れる」

 「たまに、何となく覚えてる時もあるけど……ほとんどは誰も気にしない。そういうものよね」

 「そうだな。でも、それがどうかした?なんか悪い夢でもみたのかい」

 シロエは指先でカップの縁をなぞりながら言った。

 「この前、何か引っかかる夢を見た気がするの。でも、目が覚めたら全部抜け落ちてて……どうにか思い出せないかなって」

 プラッドが、軽く笑う。

 「ははは。夢なんて、脳みそのどっかが勝手に作ってる物語だろ。自分で意識して見てるわけじゃない。思い出そうってのが、そもそも無理なんじゃないか」

 そう言いながら、彼はプレートを運んできた。二種類のパンと、色鮮やかなサラダ。

 「それより、こっちを見てくれ。どれも自信作だ。サラダもな、小さいビニールに入れて渡そうと思ってる。味、ちゃんと見てほしい」

 シロエは、プレートに並んだ新作を眺めた。白いパウダーをまとった丸いパン。細長く、フランスパンを思わせる一本。そして、緑をベースに赤紫、黄色、赤が混ざる、千切り野菜のサラダ。

 「……美味しそう。どれからいこうかしら」

 「気になるやつから、どうぞ」

 シロエが手に取ったのは、細長いパンだった。見た目は固そうなのに、指で押すと驚くほど柔らかい。表面には薄く艶があり、割った断面に広がる細かな気泡が、かろうじて“フランスパン”を思い出させるだけだった。

 「……意外。思ったより柔らかいのね」

 一口、かじる。

 「……え」

 ふわりと立ち上る湯気。そこに、クリームシチューのやさしい香りが混じった。

 断面から、にんじんの橙、コーンの黄色、ブロッコリーの緑が、小さな宝石のように顔をのぞかせる。さらに噛むと、外側の薄皮がかすかに音を立てて割れ、内側のとろりとした旨みが舌に広がった。じゃがいものほっくりした甘さ。玉ねぎのやわらかな香り。パンの温もりと一緒に、それらがじんわりと身体に染み込んでくる。

 シロエの表情が、自然と緩んだ。顔を上げ、プラッドと目が合う。

 「……美味しいわ」

 その一言は、パンの温度と同じくらい、素直で、あたたかかった。

 「今は温かいけど……冷えたら、どうなるのかしら」

 その言葉を待っていたかのように、プラッドが厨房から戻ってきた。手にしているのは、あらかじめ冷ましておいた一本のパン。

 「そう言うと思って、用意してたよ」

 シロエはそれを受け取り、指先で確かめる。表面の艶は落ち着き、ひんやりとした重みだけが伝わってくる。ちぎると、断面に散らばる具材の色が、静かに浮かび上がった。ブロッコリーの深い緑。コーンの黄色。にんじんの橙。香りは控えめになっているのに、見た目のやさしさは変わらない。

 一口。

 しっとりとした生地に、クリームシチューの名残が淡く染みている。温かいときのとろみは消え、代わりに具材そのものの甘さが、素直に舌へ届いた。じゃがいもはほろりと崩れ、玉ねぎの甘みが静かに広がる。シロエは、自然と目を細めた。

 「……冷めても、この美味しさ」

 プラッドが自信作と語った理由が、よくわかる。シロエはあっという間に食べ終え、次にサラダへとフォークを伸ばした。

 淡い緑のレタスの上に、赤紫の紫キャベツ。鮮やかなパプリカの赤と黄。細く切られたきゅうりの深い緑。それはまるで、混ぜた絵の具をすくい上げるような色合いだった。

 口に運ぶと、まずレタスの軽やかな歯ざわり。続いて紫キャベツの芯のある食感が心地よく響く。パプリカの甘みがふっと広がり、きゅうりの瑞々しさが後を追った。

 噛むたびに、色と同じくらい多彩な味がほどけていく。冷たさが頬の内側にすっと染み、身体の奥まで爽やかに満たされた。

 「プラッド、これもいいわ。これを入れる物は少し大きめがいいわよ。ドレッシングなしで、この完成度……脱帽ね」

 プラッドは、ほっと息をついた。一番気になるのがサラダだったからだ。

 「ありがとう。その言葉は嬉しいよ。実はこれ、家の周りの農家で採れた野菜なんだ」

 彼は、静かに続ける。

 「傷んだものじゃない。形が悪いとか、小さいって理由で商品にならない野菜さ。捨てるくらいなら使わせてほしいって言ったら、毎日届けてくれることになってね。だから、新鮮だ」

 「素晴らしい取り組みね。プラッド。これは、間違いなく売れるわ」

 だが、プラッドは首を横に振った。

 「売らないよ。パンを買ってくれた人に尋ねて、欲しいって人に渡すだけ。この店はパン屋だし、元手もかかってないし、手間は千切りにしてビニールに詰めるだからな」

 シロエは、しばらく彼を見つめてから、静かに言った。

 「プラッド……亡くなった奥様も、きっと天国から褒めてるわ」

 「三十年も前の話だ。きっと、眺めるのにも飽きて、下界はもう見てもないよ」

 二人は顔を見合わせ、大声で笑った。

 「じゃあ、最後にもう一つ」

 白いパウダーをまとったパンを手に取った、その瞬間だった。

 ――ピリッ。

 電気が走ったような感覚が、シロエの中を貫いた。いつもの“直感”とは違う、鋭い刺激。

 視界が、一瞬揺らぐ。

 店の入口。屋根の下で、「プラッドのパン」と書かれた看板を下ろしている――プラッド自身の姿。雪の積もった道が見えた。

 はっとして、現実に戻る。シロエは、軽く一口かじった。

 「……プラッド。このパン、使ってる食材を教えて」

 プラッドの笑顔が、すっと消える。真剣な顔で、ひとつひとつを伝えた。シロエは静かに頷いた。

 「……わかった。これは、店に絶対出しちゃダメ」

 プラッドが息をのむ。

 「どうしても出すなら、塩分を全体的に下げて。中のベーコンとハムも量を減らす必要があるわ。この塩加減、癖になる人が出ると……問題になる」

 プラッドは、黙って耳を傾けていた。

 「そうか。ちょうど良い分量で何度も試したんだけどな。けど、シロエの判断は間違いないだろう。」

 プラッドも改めて、初めて味わう第三者の気持ちになり食べてみる。

 「なるほど……確かに、多すぎたかもしれない。ありがとう。改良するよ。……また、食べてくれるかい?」

 シロエは笑って、指でOKサインを作った。

 その後は、コーヒーを飲みながら、若い頃の奥様との旅行の話や、思い出深い失敗談で盛り上がった。

 「今日も美味しいディナーだったわ。ごちそうさま」

 「こちらこそ。無理を聞いてもらってありがとう。パン買わなくてもいいから、いつでも顔を出して」

 夜道を歩きながら、シロエは考えていた。

 ――さっきの“感覚”が、現実にならなければいい。

 そう願いながらも、胸の奥に、じわりとした不安が広がっていく。自分の頭は、一体どうなっているのだろうか。


 それからというもの、まるでスイッチが入ったかのように、あの夢を見るようになった。

 逃げ場はない。そう悟ったのは、四日目の夜だった。

 ――今日は、目を覚まさない。夢の中で“自分”が現れても、絶対に逃げない。

 自分は、何を言おうとしているのか。それを知るために、シロエは静かに目を閉じた。

 ==========

 おぼろげな風景が立ち上がった瞬間、シロエは理解した。

 ――これは、夢だ。

 意識がはっきりしている。初めて、夢の中で“考えている”自分がいた。

 遠くから、人影が近づいてくる。驚かない。目を覚まさない。心の中で何度も繰り返しながら、シロエはその影を見つめ続けた。

 そして――。

 白いワンピース。頭には、白い花冠。そこに立っていたのは、紛れもなく“自分”だった。

 「やっと会えたわね、シロエ。今日は消えないでよ」

 その声は、はっきりと現実味を帯びていた。

 「力を送り続けて、一気にレベルを十上げたの。今のレベルは四十二よ」

 シロエは息を呑んだ。

 「……えっと。これ、夢の中で合ってるわよね?」

 「そうね。三三三の世界ではね」

 「あなたは……私が想像した、私よね?」

 相手は、わずかに表情を変えた。

 「なるほど。そういうこと……マスターが三三三からの特別なやつを扱ってみるかって言ってた意味、やっと分かったわ」

 「……?」

 「この世界のこと、何も分かってないって顔ね」

 「悪いけど、本当に分からないわ。もう一度聞くけど、これは夢なのよね?」

 「そう。シリーズ三三三から、ここに入れる者が現れるのは初めてのことよ」

 シロエは、静かに首を縦に振った。

 「でしょうね。意味が分からない顔してる」

 一瞬、相手の視線が遠くを見た。

 「……ちょっと、シロエの三三三の世界を覗かせてもらうわ」

 頭に指をあてて、相手は小さく息を吐いた。

 「なるほど。……三三三って変わった世界ね。これからどうなるのか、全く予想がつかないわね。シロエは特殊な存在。私を超える量子人になるかもね」

 「はぁ……」

 目の前の“自分”は、どこか諦めたような表情になった。

 「説明が必要ね。まず――私の名前は、セディー・シンク」

 「え?私じゃないの?」

 「……OK、そこからね」

 セディーは、わずかに肩をすくめた。

 「今の私は、シロエが想像した姿。本当の姿は、もう少しレベルが上がれば見えるようになるわ」

 彼女は、楽しそうに微笑む。

 「レベル四十二まで上げて、まだこのレベル……どこまで行くのか、正直楽しみね」

 「ちょっと待って。レベルって何?夢にレベルなんてあるの?」

 セディーが手の平を向けて、そこまでと話を抑止した。

 「この世界は三三三では“量子”って呼ばれてる」

 「量子……聞いたことはあるけど、よく分からない」

 「言葉にできないくらい小さな存在。私は、その量子でできた世界にいるの」

 「はぁ、夢とその量子ってのが、どう繋がるの?」

 「三三三のものは夢ってのを見るのが普通のようだけど、その夢こそが量子空間なの」

 シロエは、ゆっくりと息を吸った。

 「……はぁ、分かっていないけど、夢を見ると量子っていう空間に入れるってこと!?」

 「まぁ、今はそれで理解で十分かな。少しずつ学べばいいわ」

 セディーは、穏やかに続けた。

 「量子空間は、基本的にレベルを上げられない。でも、シロエは違う。特殊な“量子人”なの」

 「量子人?」

 「量子空間で活動できる人の総称」

 「じゃあ今、私は――」

 「そういうこと」

 「OK。私が量子人として、質問していい?」

 「何でもどうぞ」

 「セディーはなぜ私のレベルを上げたの?量子空間って何ができるの?どうすれば抜けられるの?どうすれば…」

 矢継ぎ早の問いに、セディーは手を上げて止めた。

 「ストップ。質問は一つずつね」

 彼女は人差し指を一本立てる。

 「まず、私は量子空間の成長係。レベルの高い量子空間を増やすのが役目なの。レベルを上げると、量子空間同士をつながる事ができるの、様々な事が一度に出来るから都合がいいのよ、それに何でもできるようになるからね」

 シロエは何もわからず、一先ず話を最後まで聞こうとしていた。

 「三三三に社会というシステムがあるでしょ?ここも良く似てるところがあるわ。私はマスターに言われて量子空間のレベルをあげて育ててる」

 「……どこも同じなのね」

 「まーちょっと違うけど」

 セディーは続ける。

 「あと、量子空間から抜けるのは簡単なんだけど、あなたの三三三は特殊だから…何かの“きっかけ”が必要。トリガーがあれば、分かりやすいかな。自分でこのポーズをしたら世界を抜けると決めるのよ」

 彼女は、にやりと笑った。

 『例えば――こんな仕草をしたら世界を抜けると自分で決めるの』

 両手を交差させ、掌で目を覆う仕草。

 「……こう?」

 ==========

 その瞬間、シロエは目を覚まして天井を見上げていた。

 今回は違った。目が覚めても、夢の内容は一つも欠けていない。夢と現実が自然につながったようだった。

 「さっきのは夢じゃなく……量子空間の出来事ってことか」

 現実の輪郭が、いつもよりくっきりして見える。シロエは、静かに決めた。まずは“量子”ってものを調べる。それを、朝一番の仕事にすると。


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